港町ポルテ2
リリアは、ラタンで編み込まれたベンチから降り、ワンピースのボタンを外し始める。
中から現れたのは、彼女の髪と同じラベンダー色の花柄の水着だった。
海辺の風に揺れる、シフォン素材の優雅なワンピース。肩まわりを優しく包むシースルーのフリルケープが可憐な印象を与える一方で、スカートに入れられた深いスリットからは、歩くたびに白い素肌がのぞく。
「ヨナも一緒に行きましょうよ!」
「ふふふ、もちろんですわ。お供いたします!」
サンダルを脱ぎ捨てたヨナを引き連れ、胸にはシルヴェスターを抱えて、優しく打ち寄せる波打ち際に立つ。
ひんやりとした波の感触が素足に伝わると、張り詰めていた心が自然とほぐれていくのが分かった。
その時、腕の中のシルヴェスターが「にゃあん」と可愛らしく一つ鳴いた。
そう思った瞬間、するりとリリアの腕をすり抜け、なんと自ら海の中へと飛び込んでしまった。
「あ、こら、シル!?」
驚くリリアをよそに、聖獣は小さな手足を器用に動かして、きらめく水しぶきをあげながら気持ちよさそうに泳ぎ始める。
「見てくださいリリア様、シルちゃん、とっても泳ぎがお上手ですわ!」
「もう、びっくりしたわ……。でも、本当に気持ちよさそうね」
波間から顔を出して自慢げにこちらを見る聖獣に、リリアとヨナは思わず顔を見合わせて、楽しそうに笑い声をあげた。
それからしばらく、時間を忘れて海を満喫した。
ひとしきり遊び、カバナで美味しい昼食を終えると、すっかりお腹も心も満たされていた。
「にゃ、あ……」
満腹になったシルヴェスターは、ヨナの膝の上で眠たげに目を細めている。
小さなあくびを漏らす姿は、とても先ほどまで元気に泳ぎ回っていた聖獣とは思えない愛らしさだ。
「ふふ、シルちゃん、たくさん泳いで眠くなってしまいましたね。よろしければ私がこのままシルちゃんを見ています。リリア様は、どうぞごゆっくり海をお楽しみになってくださいな」
「ありがとう、ヨナ。では、シルのことをよろしくね」
リリアは再び波打ち際へと足を向ける。
シフォン素材のスカートをふわりと海に浸し、ゆっくりと奥へと進んで行った。
浅瀬でそっと身体を浮かべ、心地よい波に身をまかせて静かに泳いでいると、日々の忙しさから解放されていくような、贅沢な静寂がリリアを包み込んだ。
どれくらいそうしていただろう。
ざばり、と少し離れたところで、穏やかな波とは違う水音が聞こえた。
(あら……? ローレンスかしら)
リリアがそう思って振り返った、その瞬間だった。
「――っ、リリア!!」
激しい風のうねりと共に、水しぶきを派手に跳ね上げてリリアの目の前に現れたのは、息を切らせたノルンだった。
なんと彼は、海で静かに身体を浮かべていたリリアを見て、「溺れているのではないか」と勘違いし、凄まじい速度の風魔法を使ってここまできたのだ。
遠くの砂浜に目をやると、ノルンを必死に止めようとしたであろう彼の側近たちや、リリアの執事であるローレンスが、揃って青ざめた焦り顔でこちらを見ている。
リリアはクスリと微笑むと、彼らに向かって「大丈夫です」と優しく手を振って合図を送る。主人の無事を確認したローレンスたちは、ホッと胸をなでおろしながら、すぐにそれぞれの持ち場へと戻っていった。
リリアは目の前で肩を上下させているノルンを見上げ、感心したように目を細める。
「ふふ、火だけではなく、風の魔法も本当にお上手ですのね」
何事もなかったかのように微笑むリリアの言葉に、ノルンは眉を釣り上げて声を荒らげた。
「お上手、じゃない! 俺は本気で……っ!」
そこまで言って、ノルンはぐっと言葉を詰まらせた。彼の怒りを含んでいた鋭い瞳が、ふっと揺れる。
「……本気で、心配したんだぞ。お前が溺れたと思って……」
消え入りそうな声で、ぽつりと本音を漏らす。その優しさにリリアの胸が温かくなった、まさにその時だった。
ノルンの視線が、リリアの首元からその下に落ちる。
海辺の風に揺れる、ラベンダー色のシフォン素材が水に濡れて肌にぴったりと張り付いている。
そこでようやく、ノルンはリリアが水着姿であることに気がついた。
「っあ、おま、その、水着――っ!?」
みるみるうちに、ノルンの顔が真っ赤に染まっていく。
あまりの密着度とリリアの眩しすぎる姿に、さっきまで魔法を縦横無尽に操っていた頼もしい青年はどこにもいない。
ただ、視線をどこにやっていいか分からず完全にパニックになってしまっていた。
「えぇ、海で泳ぐのですもの。おかしいかしら?」
リリアがあまりにもあっけらかんと答えるので、ノルンはついに耐えきれなくなったように、空いた片手で自分の目を覆い隠した。
だが、リリアの身体が波に流されないよう、もう片方の腕はしっかりと腰を抱きしめる。
「公爵令嬢がそんな……そんな薄着で泳ぐなど、聞いたこともない……」
真っ赤になった顔を手で隠しながら、ノルンは蚊の鳴くような声で必死に抗議する。
そんな彼の過保護な慌てぶりに、リリアは少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「まぁ、わざわざ人前で言いふらしはいたしませんが……。サリーナ様だって先日、私に新しい水着を購入したと教えてくださりましたよ?」
「サリーナがか……?」
思わぬ名前が出たことに、ノルンが指の隙間から驚いたように琥珀色の瞳をのぞかせる。リリアはそれに、追い打ちをかけるように楽しげに告げた。
「ええ。あと数日したら、このビーチでサリーナ様と一緒に泳ぐ予定ですわ。今から楽しみです」
「――っ!?」
その瞬間、ノルンは完全に動揺し、言葉を失って固まってしまった。
「ま、まさかとは思うが……。エリオットは、こないよな……?」
ノルンは引きつった声を絞り出し、恐る恐るリリアに尋ねた。
もしあの男までこのビーチにやってくるとなれば、事態はさらにややこしいことになる。
リリアは人差し指を顎に当てて、うーん、と少し首を傾げた。
「そうですね……。私とサリーナ様のお話を聞いていたエリオット様も、ぜひ自分もとおっしゃってはいましたが。公務がお忙しいので、どうでしょうか」
(いや、あいつは何としてでも絶対に来る……!)
ノルンは確信した。エリオットという男は、リリアが絡むとなれば、山積みの書類を凄まじい速度で片付けるか、あるいは側近に押し付けてでも、涼しい顔をしてここに現れるに決まっている。
そこまで考えた瞬間、ノルンの胸の奥に、これまでに感じたことのない、どす黒いほどの焦燥感と熱い感情が湧き上がった。
「ノルン様……?」
急に黙り込んで険しい顔になったノルンを心配して、リリアがすぐ間近から彼を見上げる。
――その瞬間、ノルンの思考は完全に停止した。
片手で目を覆ってはいるものの、指の隙間から嫌でもリリアの姿が視界に入ってくる。
いつも着ている豪奢なドレスとは違い、今着ている水着はリリアのしなやかで美しい身体の線をくっきりときれいに拾い上げていた。
「お、俺は……」
薄いシフォンの布と、濡れた美しい髪が、リリアの白い肌にぴったりと張り付いている。
そして、ケープのシースルーから覗く、うっすらと露わになった胸の谷間――。
社交界の夜会で、彼女の美しいドレス姿は何度も見ているはずだった。いつも完璧に美しく着飾った公爵令嬢としてのリリアを知っているはずなのに、今、腕の中にいる彼女は、それとは全く違う。
(クソ、なんだこれ……っ、心臓の音がうるさすぎる……!)
ドクドクと早鐘のように鳴り響く鼓動を必死に抑え込もうとしていた、その時だった。
波の揺らめきに合わせるように、リリアの指先がノルンの身体に触れた。
「あら……? 何か硬いものがありますが……何かしら?」
不思議そうに首を傾げたリリアが、あろうことか、そのままその「硬いもの」をきゅっと掴んでしまったのだ。
「っ――あ……っ」
その瞬間、ノルンは弾かれたように浅く短い息を吐いた。
全身に電流が走ったかのように身体が強張り、指の隙間から見えるリリアの翡翠色の瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれる。
「ノルン様……? どうなさいましたの? お顔がさっきよりずっと赤いですけれど……」
本当に何も分かっていない様子のリリアが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
――もう、限界だった。
「っ、お前……っ、いい加減にしろ……!」
ノルンは掠れた声を絞り出すと、リリアが掴んでいた手を、少し手荒に、けれど拒絶ではなくすがるような切実さで引き離した。
そのまま、掴んだ彼女の手首を持ち上げ、空いた両腕でリリアの華奢な身体をこれ以上ないほど強く抱きしめる。
「え……っ、ノルン様……?」
突然の強い衝撃に、リリアの小さな驚きの声がノルンの胸元に吸い込まれた。
ノルンの胸板にリリアの柔らかな身体がぴったりと密着し、彼の激しい心臓の音が、リリアの耳の奥にまでドクドクと直に響いた。
「……これ以上、俺を煽るな」
リリアの耳元で、ノルンが低く、耐えるような甘い声を漏らす。
抱きしめる腕の強さは、目の前の幼馴染が「一人の男」であることを、リリアに強く意識させられるのだった。
「エリオットにも、この姿を見せるつもりだったのか?」
リリアを壊れ物を扱うように、けれど絶対に逃がさないという強い力で抱きしめたまま、ノルンは低く掠れた声で問いかけた。
リリアはノルンの胸に濡れた顔を寄せたまま、少しだけきょとんとして答える。
「……そこまでは、考えていませんでしたわ。ただ、サリーナ様とお約束をして、お気に入りの水着を着て海へ行こう、と、それだけでしたの」
エリオットが来たらどうする、だなんて、そんなこと一瞬も頭をよぎっていなかった。本当にただの、純粋な海遊びの約束のつもりだったのだ。
リリアのあまりにも無防備で、男を疑うことを知らないあっけらかんとした答えを聞いて、ノルンは頭の上で「はぁぁ……」と、天を仰ぐようにして深いため息をついた。
この世の終わりかと思うほど深いため息。けれどその直後、リリアの背中を包み込む腕に、さらにぐっと力がこめられる。
「ノルン、様……?」
これ以上ないほどぴったりと身体が密着し、あまりの近さにリリアの鼓動まで跳ね上がった、その時だった。
「……嫌だ」
子供のように、けれど酷く切実な響きを持った掠れた声が、リリアの耳元を揺らした。
「え……?」
「エリオットには……あいつには、絶対に見せるな。お前のこんな姿、俺以外の男に見せるなんて、絶対に嫌だ」
いつもは不器用で、素直になれなくて、口を開けば小言ばかり言っている男が、今、必死にリリアを独占しようとしている。
「え、えぇ。そうですわよね。このような姿を王太子ともあろうエリオット様に、お見せするなんて失礼ですわ!」
リリアは至って大真面目に、納得したようにそう言葉を返した。
実際のところ、リリア自身、自分の体型に格別の自信があったわけではない。けれど、ノルンがこれほどまでに必死に、そして頑なに拒むのを見るうちに、彼の言う通りだと気付かされた。
「ノルン様の言う通りですわ」
しかし、そんなリリアの生真面目すぎる「方向違いの納得」を耳にした瞬間、ノルンは抱きしめる腕の力をふっと緩め、呆然としたように彼女の顔を見つめた。
「……失礼、って。お前、そっちの意味で言ってるのか?」
「え? 違いますの?」
腕の中から不思議そうに見上げてくるリリアに、ノルンはまたしても脱力したように、天を仰いで深いため息をついた。
「お前なぁ……。俺が言いたいのは、礼儀がどうとかじゃなくて……」
そこまで言って、ノルンは再びリリアを間近で見つめてしまい、言葉を詰まらせた。
否応なしに視界に飛び込んできたのは、彼女の、少しきょとんと開いた唇。
その瞬間、脳裏に鮮烈に蘇ったのは、あの屋敷でのダンスの最中、不意に触れ合ってしまった柔らかな感触だった。
(……って、なんで俺だけがこんなに引きずってんだよ!)
悟られないよう、あわてて視線を逸らしたが、当のリリアはあの時のことなど綺麗さっぱり忘れているに違いないと、ノルンは確信している。
「……ま、まぁ、いい。理由がどうあれ、あいつに見せないって約束するなら、それでいい」
ノルンは少し拗ねたような口調で呟くと、今度は優しく、けれどやっぱり独占するように告げた。
そして、意を決してリリアをゆっくりと見下ろし、次の言葉を紡ごうとした、その矢先。
リリアが何かに気づいたように、ふと声を上げた。
「あら。ノルン様、また何か『硬いもの』が当たっていますわよ? お洋服の中に、何か仕込んでいらっしゃるの?」
純粋な疑問として、小首をかしげて尋ねるリリア。
その純真無垢な言葉のナイフは、ノルンの心を、容赦なく貫いた。
「っ……、おま、っ、勘弁してくれ!!」
ノルンの限界を迎えた絶叫が、どこまでも高く広がる真夏の青空へと切なくこだました。




