箱庭の中
白銀の虎の襲撃という未曾有の事態は、第一王子エリオットの英雄的な活躍によって幕を閉じた。
自らの身を挺して公爵令嬢を守り、魔力を使い果たしてまで聖獣と対峙した王子の武勇伝は、尾ひれがついて瞬く間に社交界を駆け巡るだろう。
「……王家には、とんでもない借りができてしまったな」
公爵は短いため息をつくと、どっと押し寄せた疲労を隠しもせず、ソファに深く体を預けた。
王家への絶対的な忠誠心と、自らの領地で次期王位継承者を負傷させてしまったという致命的な失態。
苦い表情を浮かべる公爵の向かいでは、ノルンが真剣な面持ちのまま、事件の事後処理に関する書類に目を通している。
「……それでも父上、この地に災厄をもたらしかねなかった伝説の白銀の虎を、退治できました。最悪の事態だけは免れたと言えます」
ノルンは、リリアの手によって小さくなった白虎の真実を伏せたまま、淡々と告げた。しかし、公爵の鋭い瞳は、それだけで誤魔化せるほど甘くはなかった。
「エリオット王子に、完全に主導権を握られてしまったがな……」
公爵は忌々しげに天井を仰ぐ。あの緊迫した状況下で、自らの血を流してまでヴァルディアン家に「一生分の恩」を売りつけた王子の、底知れない執念と計算高さに気づいているのだ。
「これで、あの御方は名実ともにこの国の『英雄』になります」
「そうだ。だからこそ、事態は一刻を争う」
公爵はソファから勢いよく上体を起こすと、ノルンを真っ直ぐに射抜いた。
「ノルン。今すぐにリリア嬢に婚約を言い渡しなさい。……このまま手をこまねいていては、彼女は完全に王子のものになるぞ?」
公爵の切迫した声が、重苦しい執務室に響く。王子の流した血がリリアの心を縛り上げる前に、ヴァルディアンとしての楔を打ち込めという、実の親からの非情なまでの命令だった。
一方、渦中のリリアたちはというと、領地への滞在が一週間延期されエリオットの看病に付き添っていた。
* * *
陽光が穏やかに差し込むエリオットの私室。
そこには、絶え間なく治癒魔法を注ぎ続けるルカと、複雑な表情で見守るノルン、そして献身的に付き添うリリアの姿があった。
「エリオット様、お加減はいかがですか?」
リリアが心配そうに覗き込むと、ベッドの上で上体を起こしたエリオットが、わずかに口角を上げた。
「あぁ、やっと感覚が戻ってきたよ。……ルカ、君のおかげだ。これほど緻密な術式を編めるとは、君は本当に優秀だね」
「恐縮です、殿下。姉様の無効化で不純な魔力が消えていたおかげですよ」
ルカが淡々と応じる。事件からわずか二日目だというのに、エリオットの左腕には、あの深い傷跡さえ残っていない。
訪れた医師も「奇跡だ」と驚愕していたが、その真の理由――リリアの「無」とルカの「再生」が組み合わさった神業であることを知る者は少ない。
部屋の隅てサリーナが優雅にソファーに腰掛け、何事もなかったかのようにアフタヌーンティーを楽しんでいた。
「ふふ、王子の英雄譚に、令嬢の献身的な看病。……物語としては最高に出来すぎているわね」
カップを置くカチリという乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。と同時に、重厚な扉が静かに開き、ノルンが足音を殺して入室してくる。
彼はベッドに横たわる第一王子の顔色を伺いながら、手元の報告書をサイドテーブルへと置いた。
「……随分と顔色が戻ったな、エリオット。医者も驚く回復ぶりだ」
「ああ、おかげさまでね。ノルン、君までそんなに険しい顔で心配をかけたね」
エリオットはふっと息を吐き、柔らかな笑みを浮かべる。
「……君は、今回の件で私に一生消えない大きな貸しを作ったと思っているんだろう? ヴァルディアン公爵家の管理不届き……そう自分を責めている顔をしているよ」
ノルンが反論しようとわずかに眉を寄せ、口を開く。しかし、エリオットは軽く片手を挙げてそれを制した。
「背負いすぎだ。今回の『白銀の虎』の出現、そしてその管理の責任は、本来ヴァルディアン公爵家だけのものじゃない。守護獣の封印や監視といった義務は、王室にもあるのだから」
ノルンの瞳に微かな戸惑いが走る。彼はエリオットの視線を真っ直ぐに見つめ返し、言葉を噛みしめるように呟いた。
「だが、お前はここへ来た時に気付いていたのだろう? 父上にも忠告していたじゃないか」
「一瞬、かすかに禍々しい気配を嗅ぎ取っただけだよ。まさか本当に伝説が目覚めるとは思わなかったけどね」
エリオットは自嘲気味に肩をすくめ、視線を窓の外へと向けた。
「それに、公爵は対策を講じていた。襲撃の際、君たちの守りが異常なほど速かったのは、そのおかげだろう? 現場の判断は完璧だった」
その言葉には、一切の淀みがない。公爵を擁護し、事件の責任を「不可抗力の事故」として処理しようとする王子の配慮。
その場にいたリリアも、あの混乱の最中、公爵や騎士たちが確かに迅速かつ的確に避難誘導を行っていたことを思い出し、小さく頷く。
「……そうか。お前がそう言うなら、父上もこれ以上は思い悩まなくて済むだろう」
ノルンがわずかに肩の力を抜いたとき、エリオットは静かに視線を巡らせた。
「そして、今回の最大の功労者は君だ、リリア」
エリオットの声に、先ほどまでの冷たさを溶かすような温かさが宿る。
「あの狂乱の中、聖獣の魂を鎮めてくれなければ、今頃この屋敷は血の海だったかもしれない」
「そんな……私はただ、誰も傷ついてほしくなかっただけです」
「それが君の素晴らしいところだよ」
エリオットはベッドから身を乗り出すようにして、リリアの顔を真っ直ぐに見つめた。
「……だが、この事実は秘匿しよう。騎士たちには、目覚めた白虎が僕との攻防の末、力を使い果たして沈静化した……そう伝えてある。君がその身に宿す特別な力が露見する心配は、一切ないよ」
彼は視線をわずかに下げ、声を潜めた。
「とはいえ、父上……王にはいずれ報告がいくはずだ。これほどの大事だ、王家が調査に乗り出すのは避けられない」
リリアは静かに頷く。王家という巨大な権力の影を思い、小さく肩を震わせた。エリオットは彼女の手をそっと包み込み、迷いのない瞳で告げた。
「心配はいらない。たとえ父上が何を求めようとも、君の力も、君自身も、必ず守り抜く。君を誰にも渡さないし、誰の駒にもさせない。……僕の言葉を信じてくれるね?」
「……ありがとうございます、エリオット様」
「君のためなら、何だってするよ」
エリオットが満足げに目を細めたところで、面会時間は終わりを迎えた。
リリアは一礼し、戸惑いを残したまま、ルカとサリーナと共に部屋を退出した。
扉が閉まると、部屋には先ほどまでの柔らかな空気は微塵もなく、ただ重苦しい沈黙だけが残った。
ノルンはベッド際にある椅子を引いて腰を下ろすと、冷え切った視線をエリオットへ向けた。
「何だってする、か……。随分と大きなことを言うんだな、エリオット」
ノルンの呟きには、親友に対する呆れと、隠しきれない棘が混じっていた。エリオットは先ほどまでの「慈愛に満ちた王子」の仮面を脱ぎ捨て、薄く笑う。
「それ以外に、どうやって彼女を守れと言うんだい? 彼女の力が王家に知れれば、それこそ『最高の武器』として、あちこちから手が伸びてくる」
「そうやってお前がリリアを囲い込むのは、守るとは言わないんじゃないか?」
ノルンは苛立ちを隠そうともせずに問い詰める。
「白虎の行方も知れない今、彼女を危険な政治的駆け引きのど真ん中に置くつもりか?」
「だからこそだ。……ところでノルン、帝都では第一王子の婚約者候補の発表が間近だそうだ。サリーナはもちろん、リリアの名前まで入っているよ」
エリオットの淡々とした口調に、ノルンの表情が露骨に険しくなる。
「……リリアを王家に引き入れて、彼女が望む平穏が得られるとでも?」
ノルンは言葉を継ごうとしたが、喉の奥で詰まった。自分自身の内側に渦巻く衝動、抑えきれずに膨らみ続ける焦燥や、自分勝手な独占欲。
それら一つとして、正しく制御できていない自覚が、彼を黙り込ませる。
そんなノルンの沈黙を、エリオットは見逃さなかった。彼は薄く冷笑を浮かべ、親友の痛いところを突く。
「……自分の力すら御しきれていない君に、彼女を語る資格があるのかい? 彼女の秘密を誰よりも理解し、彼女という存在を最も安全に管理できるのは僕だ。……僕の傍にいれば、誰も彼女を傷つけさせはしない」
エリオットの言葉は、まるで毒を含んだ甘い蜜のようだった。
ノルンは椅子を強く握りしめ、言葉を飲み込む。自分の未熟さが、皮肉にもリリアをエリオットの手元へと追いやっていく。
エリオットの余裕にただ圧倒され、ノルンは窓から差し込む夕光の中で、何も言い返せずにうつむくしかなかった。
* * *
広大な廊下を駆け抜け、自室へと逃げ込むように戻ったリリア。扉を閉め、背中を預けて安堵の吐息をついた――その瞬間だった。
「にゃあ!」
部屋の隅、クッションの影から弾丸のような速さで飛び出してきた白い塊が、リリアの胸元へ勢いよく飛び込む。喉を激しくゴロゴロと鳴らしながら頭を擦り付けるその仕草に、リリアは思わず笑みをこぼした。
「シル……! シルヴェスター!」
その身体を抱きしめると、張り詰めていた肩の力が嘘のように抜けていく。
小さな子猫の姿からは、伝説の聖獣だったと疑ってしまうほど愛らしい。
「ごめんなさい、寂しかったわよね。待たせてしまって」
リリアが背中を丁寧に撫でると、シルヴェスターは満足そうに「にぁーん!」と甘い声を上げた。
ふと、リリアの表情に複雑な影が落ちる。
あの激しい交戦の最中、リリアの「無」の力が聖獣を飲み込み、今の姿へと変えてしまったのだ。咄嗟に聖獣を抱き抱え、周囲の混乱に乗じて隠したのだ。
(……この子、食事の代わりに私の魔力を時々食べているわ。気配もほとんど漏れていないけれど……)
魔力を栄養源にしている以上、シルヴェスターの存在はリリアと完全に同化している。今のところ誰もその存在に気づいていないが、このまま屋敷に留め置くのはあまりに危うい賭けだった。
「……姿さえ見られなければ」
リリアはシルヴェスターの額にそっと額を寄せ、この小さな命を守り抜く覚悟を決めていた。
「にゅぅ……」
シルヴェスターが心配そうな声を上げ、じっとリリアの瞳を見つめ返す。その琥珀色の瞳は、リリアの胸の内に渦巻く不安をすべて見透かしているかのようだった。
「ごめんね、シル。あなたを不安にさせたいわけじゃないのよ」
リリアは苦笑しながら、その小さな頭を優しく撫でた。
「ふふ、平穏を願っているはずなのに……どうしてこうも、望む未来からどんどん遠ざかっていくのかしら」
小さく自嘲気味に呟き、リリアはベッド脇に手を伸ばした。そこには、先日壊れてしまったハクからのブレスレットが静かに置かれている。そのすぐ隣にある、フェリスから借りた『真実を映す鏡』を手に取った。
意を決して蓋を開くと、銀の鏡面がまるで呼吸をするかのように激しく波打つ。
(……見せて。今の私を)
リリアが鏡を覗き込むと、そこに映し出された光景に、彼女は思わず息を呑んだ。
鏡の中の彼女は、二つの巨大な光の渦に挟み込まれていた。胸元のネックレスから幾重にも伸びて縛り上げる、冷徹で静かな蒼い鎖。そして、足元から這い上がり、逃がさぬように絡みつく、燃え盛るような黄金の蔦。
「エリオット様と、ノルン様の魔力だわ……」
特にその黄金の光は、あまりにも美しく、見る者の理性を溶かして無理やり跪かせたくなるような、強制的なまでの魅力を放っている。しかし、鏡の中のその二つの渦は、リリアの肌に直接触れることはできていなかった。
(これに守られているのね……)
ふと、その透明な境界線の正体に気づく。
温かさを感じるような柔らかな白の守護がリリアを守るように淡く広がっている。
さらにその外側を、今度はシルヴェスターから放たれる銀のオーラが幾重にも包み込み、外界の干渉を遮断していた。
鏡に映る二重の結界に、リリアは少しだけ安堵の息を漏らした。
だが、最後に鏡を閉じようとしたその瞬間、リリアは自分の背後に重なるように映り込んだ影を見て、目を見開く。
ブラウンの髪を揺らし、その特徴的なルビーの瞳を湛えたミラの姿が、幻影のようにゆらりと浮かび上がっていた。
「……ミラ、フェンディ?」
鏡を閉じる直前、二人の瞳が悲しげに、けれど優しくリリアを見守っていたような気がした。
ただの鏡越しではない、何かの予兆。リリアは震える手で鏡を閉じ、胸に抱いたシルヴェスターをより強く抱きしめた。




