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白銀の虎

 普通なら阿鼻叫喚のパニックに陥るところだが、ここに集まったのは選りすぐりの高位貴族たち。彼らは即座に身を守る防壁を張り、迅速にする。


「魔獣だ! 散れ、陣を組め!」

「総員、迎撃用意!」


 経験豊富な魔導師を抱える貴族たちが、一斉に呪文を唱える。色とりどりの魔力の渦が、一転に集中して白銀の虎へと叩きつけられた。爆炎と雷光が視界を埋め尽くす。


――だが、土煙が晴れたあとにいたのは、傷一つ負っていない聖獣の姿だった。


「なっ……馬鹿な! 直撃したはずだぞ!?」


 放たれた魔力は虎に触れた瞬間、跡形もなく消えてしまった。

 この虎には、かつて仕えていた女神の慈悲が、加護として今も残っているのだ。人知を超えた聖なる拒絶の力。並の魔導師が束になっても、その毛並みの一本すら焦がすことはできない。


 その光景を、エリオットが冷ややかに見下ろした。


「なるほど。女神の加護か……。普通の魔力では、触れることすら許されないというわけだね」


 彼は優雅に一歩前へ踏み出すと、周囲の魔導師たちを圧倒するほどの濃密な蒼い魔力を立ち昇らせた。


「ならば、それ以上の力――圧倒的な『質量』で叩き潰せばいいだけの話だ。……リリア、そこを離れるんだ」


 エリオットの瞳が、本物の殺気を帯びて発光する。

 彼が指先を天にかざすと、崩落した天井のさらに上空から、空間そのものを凍てつかせるような巨大な氷の槍が形成されていく。


「待て、エリオット! 術式を解け、リリアが巻き込まれる!」


 ノルンが叫び、リリアを庇うようにして黄金色の魔力を爆発させる。彼の背中越しに感じる熱は、かつてリリアが恐れた荒々しいものではなく、彼女を守り抜こうとする必死な意志に満ちていた。


 だが、白銀の虎の琥珀色の瞳は、ノルンの黄金の光にも、上空に形成されつつあるエリオットの巨大な氷槍にも、一切の関心を示さない。


 その盲目的な視線は、真っ直ぐにリリアだけを捉えている。


「……主……主よ……」


 地鳴りのような唸り声が、再びリリアの脳内に直接響く。ただ、失われた半身を求めるような、狂おしいほど純粋な願い。


 虎が咆哮とともに、リリアを目掛けて再びその巨大な前足を振り上げる。


「――姉様に近づく奴は許さないよ!」


 爆音を切り裂いて、ルカの鋭い声が響いた。

 彼はエリオットの氷槍形成に加勢するフリをしながら、密かに構築していた独自の術式を解き放つ。それは攻撃ではなく、白虎の精神に直接作用し、狂乱の原因となっている邪気を一時的に遮断する、高度な「精神干渉」の魔法だ。


 虹色に輝く魔力の束が、虎の額へと着弾する。


「ガアァッ……!?」


 白虎の動きが一瞬、ピタリと止まった。漆黒の瞳に、僅かながらに正気の光が戻る。


(……今だわ!)


 リリアはその隙を逃さなかった。

 周囲に自分の真の力がバレないよう、彼女はごく一般的な「水魔法」を唱えるフリをする。


「――清らかなる水よ、彼の狂熱を鎮め給え!」


 放たれたのは、ただの水流。だが、リリアはその水の粒子の一つ一つに、自らの「無効化」の力を極限まで混ぜ込んでいた。


 本来なら、女神の加護を持つ白虎の毛並みに触れることさえ許されないはずの魔法。

 けれど、リリアの無効化を帯びた水流は、白虎を覆う加護を突破し冷たい感触となって聖獣の皮膚へと直接届いた。


(……効いて!)


 リリアは祈るような心地で、翡翠の瞳を凝らした。

 

 だが、白虎は一瞬、冷たさに身を震わせたものの、すぐにルカの精神干渉を自らの巨大な魔力で撥ね退けた。正気は再び邪悪な濁りへと飲み込まれ、激しさを増す。


「にゃあぁぁぁぁぁっ!!」


 リリアの「無効化」に触れたことで、虎は逆に彼女の存在をより鮮明に感知してしまったのだ。


 エリオットがまた指先を振り下ろすと同時に、空間を切り裂く巨大な氷の槍が、白虎――そして、そのすぐ傍にいるリリアとノルンを目掛けて、轟音と共に直下した。


「――っ、総員、防御障壁を最大展開しろ!!」


 ヴァルディアン公爵の絶叫が響く。

 大人たちに混じり、ノルンとサリーナが放つ紅蓮の炎が、迫りくる氷槍を少しでも削ろうと一転に集中する。


 急に、リリアの視界が白く染まった。


(……え?)


 轟音も、悲鳴も、ノルンの背中の熱も、すべてが遠のく。まばゆい純白の光の向こうから、鈴を転がすような、透き通った声が響いた。


「……そんなに暴れて、可哀想な子ね」


 光が晴れた跡、リリアの脳裏に流れ込んできたのは、見知らぬ、けれど懐かしい記憶の断片。


 そこは、まだ汚れを知らない、太古の聖域。

 中央には、月光を束ねたような銀糸の髪をなびかせた、少女が立っていた。


 彼女の前で、泥にまみれ、傷つき、周囲のすべてに牙を剥いて吠え続けている一頭の大きな白い虎。


 少女は、怯える周囲の制止を振り切り、汚れきった白虎へと、迷いなく歩み寄る。


「貴方は、自分の力が怖いのね。強すぎる力が、周囲を傷つけ、貴方を独りぼっちにするから……」


 彼女は優しく微笑むと、巨大な虎の頭を、愛おしそうに撫で上げた。


「大丈夫よ。その力、私が半分、預かってあげる。……もう、独りで泣かなくていいわ」


 リュミエールの手に触れた瞬間、白虎を蝕んでいた泥と傷が、霧のように消えていく。

 黄金の色をした瞳から大粒の涙が溢れ、大虎は女神の膝元に、静かに首を横たえた。


――ずっと、寂しかった。

 あまりに強大な力ゆえに、誰にも触れられず、ただ恐れられ、遠ざけられてきた。

 力をずっと振るってきたけれど、本当に欲しかったのは、その力で誰かを守り、誰かと共に在ること。ただ、それだけだったのに。


「……主……主よ……!!」


 リリアの脳内に響く地鳴りのような唸り声が、苦痛に満ちた絶叫へと変わる。


「ガアァァァァァァッ!!」


 圧倒的な威圧感と力の消失に、屈強な大人たちが次々と膝をついた。


 それでも、エリオットだけは攻撃をやめなかった。やめるわけにはいかなかった。王国の守護者として。

 辺りには濃密な霧が立ち込め、瞬く間にダンスホールの華やかな視界を白く遮り始める。

 その視界の端で、エリオットの放った巨大な氷槍が白虎の巨体と激突し、凄まじい衝撃と共に粉砕され、鋭利な刃となって四方八方へと飛び散る。


 その巨大な破片の一つが、防壁を失ったリリアの喉元へと、逃れようのない速度で真っ直ぐに飛んだ。


「――リリア!」


 エリオットが叫び、自身の魔力防御さえも間に合わない速度で彼女を抱きしめた。

 鈍い衝撃音が霧の中に響き、エリオットの左腕に氷の刃が深く突き刺さる。純白の衣装が、瞬く間に鮮烈な赤に染まっていった。


 それを見たリリアの瞳から、理性の色が消えた。


「エリオット……様……?」


 指先に触れたのは、生々しく熱い液体。

 そうだ。私は、これが嫌だったのだ。

 誰かが傷つき、その体から温かな、真っ赤な血が流れるのが、耐え難いほど嫌だった。

 

 だから。

 争いも、痛みも、その原因となる「力」そのものも。

 すべてが無になるように、私は願った。


 リリアの手首で、ハクから贈られた腕輪が「これ以上は耐えられない」と悲鳴を上げるように激しく震動し、ついにパキィィンと乾いた音を立てて弾け飛んだ。


「――すべて、静まりなさい」


 リリアの声を核として、世界から音が消えた。

 エリオットの腕から溢れる鮮血も、白虎の狂乱も、ノルンの残した黄金の火の粉も。広間を埋め尽くすあらゆる色彩と魔力が、リリアの足元から広がる銀色の波に飲み込まれ、まっさらな「無」へと還っていく。


 静寂が支配する銀色の霧の中で、傷を負ったエリオットだけが、逃がさないと言わんばかりにリリアを強く抱きしめたままでいた。


「……リリア」


 エリオットの意識が、出血と魔力枯渇によって急速に遠のいていく。だが、彼は薄れゆく意識の淵で、リリアの頬を血に染まった左手でそっと撫で上げた。


「……やはり、君は……私の……」


 エリオットは、力なく崩れ落ちる寸前、最期の力を振り絞ってリリアの唇を深く塞いだ。

 先ほど、事故のようにノルンの唇を受け入れてしまったリリア。彼女の記憶に残る熱を、そして力に呑まれ消えようとしている彼女の魂を、彼はどうしても放したくなかった。


 誰の手にも渡さない。そして、どこへも行かせない。


「……ノルンのあと……消せたかな。……さぁ、おいでリリア……。君の居場所は、私の腕の中だけだ……」


 満足げな微笑を浮かべた瞬間、エリオットの身体から力が抜け、リリアの肩に重く預けられた。


 リリアが正気を取り戻すと同時に、立ち込める銀色の霧を切り裂いてルカとノルンが駆け寄ってきた。


「姉様!」「リリア!」


 ルカはエリオットの左腕から流れる鮮血を見るなり、即座に詠唱を開始する。その掌から放たれた柔らかな光が、深く突き刺さった氷の刃を溶かし、傷口を塞いでいく。


 この濃密な霧のおかげで、招待客たちの視線からは遮られている。だが、魔力に長ける高位貴族たちであれば、この異様な静寂と魔力の消失、そしてリリアの放った「無」の衝撃に気づいた者もいるかもしれない。


「エリオット様……! エリオット様!!」


 リリアは叫ぶように彼の名前を呼び、ぐったりとしたその身体を必死に支えた。

 ノルンがリリアの震える肩を力強く抱き寄せ、耳元で低く、けれど確信を持って告げる。


「大丈夫だ。命に別状はない……。ルカが止血した。エリオットは、お前を守り抜いたんだ」


 その言葉に、リリアの瞳から大粒の涙が溢れ出した。エリオットの冷たい唇に残った鉄の味と、彼が最期に囁いた独占的な言葉が、呪いのように、あるいは祈りのようにリリアの胸に刻まれている。


 張り詰めた空気がわずかに緩んだその時、足元から「にゃー……」とか弱い鳴き声が聞こえた。


 視線を落とすと、そこには砕けた大理石の破片の間に、手のひらサイズの小さな白い猫が座っていた。金色の丸い瞳を、不安そうに、けれど慕わしげにリリアへ向けている。


「……まさか、嘘でしょう? さっきの、あの白銀の虎なの……?」


 リリアが信じられない思いで呟くと、白い子猫は肯定するように、もう一度「にゃー!」と短く鳴いて、リリアのドレスの裾にじゃれついた。


 かつての狂乱も、巨大な姿も、すべてがリリアの「無効化」によって削ぎ落とされ、「寂しがり屋の聖獣」へと還った姿だった。


「まずい、誰かに見られたら……!」


 リリアは慌てて、近くに落ちていたテーブルクロスの布を掴むと、白虎――今は小さくなったその身体を包み込むようにして隠した。


 霧がゆっくりと、地面へと溶けて消えていく。


 視界が開けた先には、血の気の引いた顔で横たわる第一王子エリオットと、その体を必死に支え、涙を浮かべて見守るリリアの姿があった。

 

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