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君の隣は

 連日の密かな訓練が実を結び始めたのは、リリアが別荘に来て6日目の夜のことだった。


 部屋の空気は、ノルンが放つ黄金の魔力で濃密に満たされている。だが、それは以前のように荒れ狂うのではなく、意志を宿してゆっくりとノルンの手のひらの上へと集まっていく。


 かつては感情の昂ぶりとともに魔力が火の粉となって周囲を焼き焦がしていたが、今、目の前に座る彼の周囲は、驚くほど静まり返っていた。


「……できた。捕らえたぞ、リリア」


 ノルンが低く、震える声で呟いた。

 彼のてのひらの上には、狂暴な猛火ではなく、柔らかく脈動する小さな光の球が浮いている。元々類まれなる筋の良さを持っていたノルンが、極限まで練り上げ、制御することに成功した魔力の結晶だった。


「凄い……。あんなに荒ぶっていたノルン様の魔力が、こんなに穏やかになるなんて」


 リリアは思わず息を呑み、その光の球を覗き込んだ。まだこの状態を長く維持することはできないが、確かに彼は感覚を掴み始めていた。


「これで、周囲への影響も徐々になくなっていくよ。姉様もお疲れ様」


 ルカがようやく肩の力を抜き、ほっとため息をついた。


「じゃあ、僕らはこれで」


 ルカが満足げに頷いて先に部屋を出ていき、リリアもそれに続いて部屋を後にしようとした、その瞬間だった。

 不意に熱い手がリリアの手首を掴み、強い力で引き戻される。背後でバタン、と重厚な音を立ててドアが閉められた。


「ノルン様……?」


 背中をドアに押し付けられ、目の前にはノルンの逞しい胸板がある。逃げ場を塞がれるように両腕を突かれ、リリアは完全に身動きが取れなくなった。至近距離から注がれる熱量に、リリアは戸惑いながらも、彼の言葉を待った。


 だが、ノルンは何も言わず、ただじっと射抜くような視線でリリアを見つめ続けている。沈黙が長く続き、リリアはたまらず口を開いた。


「……何か、御用があったのではありませんか?」


 その問いに、ノルンは片手で顔を覆い、深く重いため息をついた。


「……お前、この状況で少しは焦ったりしないのか?」


「えぇ、まぁ。少し驚きましたが……ノルン様が私に酷いことをなさるとは思えませんので」


 リリアが真っ直ぐに答えると、ノルンは「毒気を抜かれた」という顔をして、がっくりと肩を落とした。だが、すぐに気を取り直したように、再びリリアを閉じ込めるように顔を近づける。


「……明日はこの別荘での滞在も最終日だ。夜には、ホールで閉幕パーティがある」


 ノルンの声が、今までになく真剣な響きを帯びる。


「リリア。そのパーティ、俺にエスコートさせてくれないか?」


 リリアの胸元の石が何かを察知したのか、微かにチリリと音を立てて冷たさを増した。


「……お返事は、明日まで考えさせていただけますか?」


 ノルンの琥珀色の瞳から逃げるように、リリアはそれだけを口にすると、その場を後にした。


 廊下に出ると、先に部屋を出たはずのルカの姿はどこにもない。一人になったリリアは、深く息を吸い込み呼吸を整える。

 彼の真意がどこにあるのか、リリアにはまだ掴みきれずにいた。


 ふと視線を向けると、開かれた窓から差し込む月光があまりに美しく、吸い込まれるようにしてリリアはすぐそばの庭園へと足を踏み出した。


 夜の静寂に包まれた花々が、銀色の月明かりに濡れて幻想的に輝いている。その美しさに息を呑んだ、その時だった。


「……こんな夜更けに、一人で散策かな。あまり感心しないね、リリア」


 聞き慣れた、けれど背筋が凍るほど澄んだ声。

 振り返ると、そこには月光を背負って佇む、純白の衣装を纏ったエリオットがいた。彼はまるで最初からリリアがここへ来ることを知っていたかのように、優雅な足取りで歩み寄ってくる。


「エリオット様……。申し訳ありません、月が、あまりに綺麗でしたので」


「ふふ、確かに今夜の月は綺麗だ」


 エリオットはそっとリリアの頬に手を添える。

 

「ところで……。さっきまでノルンの部屋で、何をしていたのかな?」


 含みのある言い方に、リリアの心臓が大きく跳ねた。やはり、彼にはお見通しなのだ。エリオットはリリアの細い肩にそっと手を置くと、耳元で氷のように冷たい吐息を漏らした。


「……ノルンを纏う魔力が、あれほどまでに穏やかになったのは、君のおかげなんだろうね」


 それは確信に満ちた言葉だった。エリオットはリリアを責めるのではなく、むしろ彼女の「力」が自分以外の男を救ったという事実に、静かで深い独占欲を燃やしているようだった。


「君のその慈愛は、時に残酷だ。……その力に引き寄せられた獣たちが暴れださないことを祈るよ」


 エリオットは、王子として彼女の力を手に入れたいのか、それとも一人の男として、彼女を守りたいのか。その真意は夜の闇に溶けたままだった。


 不意に、エリオットはリリアの前に跪く。

 月の光を背負ったその姿は、お伽話の騎士のように完璧で、同時に影に沈んだ横顔は底知れぬほど美しかった。


「リリア。明日の夜、閉幕のパーティがあるね。……その隣を、私に預けてくれないかな?」


 彼の手が、リリアの指先をそっとすくい上げる。その指先は氷のように冷たく、けれどリリアを離さないという強い意志がこもっていた。


「君を狙う不穏な気配からも、君を惑わす不純な熱からも……私が一番近くで、守りたい」


 エリオットの蒼い瞳が、リリアを深く見つめる。

 リリアはエリオットの胸の内が分からずにいた。彼が注ぐ「守護」はあまりに完璧で、時に彼女を閉じ込める檻のようにも感じられるからだ。


「……お返事は、明日まで待っていただけますか? 今夜は少し、考えを整理したいのです」


 リリアが静かに、けれど毅然として答えると、エリオットはわずかに瞳を細め、やがて満足げな微笑を浮かべてその手を離した。


「いいだろう。君が賢明な選択をしてくれると信じているよ」


 エリオットは満足げに微笑むと、リリアの拒絶を許さないほど自然な動作でその細い腰に手を添え、部屋の前まで送り届けた。


 廊下の燭台が放つ柔らかな光が、彼の彫刻のように端正な横顔を淡く照らし出している。自室の扉の前で立ち止まったリリアに対し、エリオットは慈しむような手つきで、こぼれた柔らかな薄紫色の髪をそっと耳にかけた。

 その指先がわずかに肌に触れる。彼はリリアの額に、そっと、けれど拒絶を許さない口付けを落とした。


「おやすみ。明日の夜、最高の君に会えるのを楽しみにしているよ」


 エリオットの規則正しい足音が遠ざかるのを待って、リリアは逃げ込むように部屋に入り、扉に背を預けて深く息を吐き出した。


「エリオット様……何を考えていらっしゃるの……」

 

 胸の鼓動が、恐怖なのか、それとも別の何かなのか自分でも判別がつかない。

 彼が向ける執着は、王家にとって特別な力を持つ自分を繋ぎ止めるための、政治的策略なのか。それとも、あの瞳の奥に揺れる熱は、ひとりの男としての本心なのだろうか。

 優しさと冷酷さが同居する彼の振る舞いに、さすがのリリアも出口のない迷路に迷い込んだような心地だった。



* * *




 翌朝、別荘に重苦しい緊張感が漂う中、ついに最終日の幕が上がる。

 リリアは鏡の前で、自分を律するようにドレスの襟を正した。


 そして夜。シャンデリアが眩い光を放つダンスホール。

 リリアはホールの入り口で待ち構える、黄金の魔力を研ぎ澄ませたノルンと、静寂の蒼を纏うエリオットを見据えた。


 リリアは迷いのない足取りで、二人の前に立つ。


「ノルン様、この数日の数々のご厚意、ロゼッタ公爵家を代表して深く感謝いたしますわ。……そしてエリオット殿下。殿下のお導きに従うのが臣下としての務めではございますが、今夜はヴァルディアン公爵家が主催する宴」


 リリアはエリオットへ向けて、完璧な角度のカーテシーを捧げた。


「まずは、この地の主であるノルン様に一曲、感謝のダンスを捧げるお許しをいただけますでしょうか?」


 エリオットを「王族」として最大限に敬いつつ、筋の通った「正論」でノルンの手を取る。エリオットは一瞬、不敵な笑みを浮かべたが、潔く一歩退いてみせた。


「……ふふ、やはり君は面白い。いいだろう、最初の一曲は彼に譲ろう」


 エリオットの予想外に潔い引き際に、ノルンは一瞬、目を丸くして驚いたような表情を見せる。リリアの手を力強く取ると、エスコートをしてホールの扉をくぐった。


「……まさか、本当にお前が俺を選ぶとは思わなかった」


 ダンスフロアの中央へと進みながら、ノルンが誰にも聞こえないような低い声で呟く。彼はリリアの細い腰にそっと、けれど離さないという意志を込めて手を添えた。黄金の瞳が、至近距離で揺れている。


「あら、私だって義理というものがありますわよ?」


リリアは澄ました顔で、彼のステップに合わせる。


「ノルン様だってそうでしょう? ロゼッタ家と正式に契約を結んだこと……その繋がりが強固になったことを、この場にいる皆に周知したかったのではないかしら?」


 公爵令嬢としての「打算」を口にするリリアに、ノルンは一瞬言葉に詰まった。


「お、俺は……そんな政治的なことだけじゃ……」


「ふふ、分かっておりますわ。それから……あとで、サリーナ様にもきちんと謝罪をお願いしますね」


「サリーナ? なんであいつに謝る必要があるんだ」


 心底不思議そうに眉を寄せるノルンに、リリアは少しだけ目を伏せて囁いた。


「……だって、お二人は将来を誓い合った仲なのでしょう? 他の女性を優先しては、彼女に失礼ですわ」


「なっ……!?」


 その言葉に、ノルンの完璧だったステップが劇的に崩れた。

 動揺のあまり足をもつれさせたノルンは、咄嗟にリリアの体を支えようと腕に力を込める。だが、その勢いはあまりに強く、リリアは彼の胸元に深く抱きとめられる形になった。


「あ……」


 体勢を立て直そうとしたリリアが顔を上げた、その瞬間だった。

 

 勢い余って前のめりになったノルンの唇が、吸い込まれるようにリリアの唇に触れた。

 柔らかな感触と、彼が放つ黄金の魔力の熱が、火花のようにリリアの全身を駆け抜ける。

 

 ほんの一瞬、瞬きをする間ほどの出来事だった。周囲の貴族たちには、ステップが乱れたノルンがリリアを支えようとして、睦まじく顔を寄せ合っただけに見えただろう。

 だが、会場の端ですべてを見守っていたエリオットだけは、騙されなかった。彼の美しい蒼い瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められる。


「ノルン様、今の……っ」


 リリアが熱を帯びた唇を押さえ、震える声で問いかけようとした、その時だった。


――ドォォォォォォォンッ!!


 リリアの言葉を打ち消すように、凄まじい地響きがダンスホールを突き上げた。

 二人が立っていたフロア中央の大理石が、内側から爆発したような勢いで粉々に砕け散る。


「ガアァァァァァァッ!!」


瓦礫とともに躍り出たのは、銀色の毛並みを逆立てた、身の丈三メートルを超える巨大な白虎だった。邪気に侵され、瞳をどろりとした土気色に濁らせた聖獣が、狂乱の咆哮を上げる。


 悲鳴に包まれる会場。シャンデリアが大きく揺れ、割れたガラスが雨のように降り注ぐ中、白虎は真っ直ぐにリリアを見据えた。


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