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銀色の少女

 ノルンの部屋から逃げるように自室へ戻り、リリアは縋るような思いでベッドに潜り込んだ。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、ノルンの熱い体温の余韻が残っていた。


 ようやく、まどろみの中に落ちた彼女を待っていたのは、音も重力も存在しないかのような、まばゆい純白の世界だった。

 

(あの銀髪の少女だわ……)


 以前の夢での彼女は、ただ遠くの境界線から、見守る慈しみの眼差しを向けてくるだけの、静かな幻影に過ぎなかった。

 けれど、今夜の彼女は、決定的に違っていた。

 少女はゆっくりと、確かな意志を持ってリリアへと歩み寄ってくる。


「……ようやく、重なり始めたわね」


 鈴を転がすような、けれど絶対的な威厳を含んだ声。

 少女は細い指先を伸ばし、リリアの胸元にあるエリオットのネックレスに触れる。その瞬間、石の蒼い輝きが、まるで意思を持って怯えているかのように激しく明滅した。


「あら……。この石、勇敢ね。健気にも主人を守ろうとしているの?」


 少女はくすくすと鈴を転がすように笑うと、今度はリリアの頬を優しく撫で上げた。その指先は氷のように冷たいはずなのに、触れられた肌には焼けるような熱が残る。


「怖がることはないわ。貴女がすべてを受け入れれば、あの黄金の獅子も、蒼の統治者も、すべては貴女の足元に跪くことになる。……もっと、欲していいのよ。この世界そのものを、貴女の慈愛で塗り潰すために」


「……そんなこと、私は望んでいないわ……!」


 リリアが必死に拒絶の声を上げようとした瞬間、少女がふわりと微笑んだ。その笑みは、すべてを許す聖母のように慈悲深く、同時に光さえ届かない底なしの淵のように残酷だった。


「いいのよ。その時が来れば、貴女は自ら私を招き入れるのだから……。でもね、気をつけて。用意された『器』は、一人ではないの。私を求めた時に、もう空席だった……なんて悲劇、見たくないでしょう?」


 少女の姿が、霧に溶けるように徐々に薄らいでいく。リリアは吸い込まれるような浮遊感のあと、重い瞼をゆっくりと開けた。


 視界に入ってきたのは、見慣れない公爵邸の天蓋。窓の外からは、夜明け前の白濁した光が差し込んでいる。


「……夢?」


 リリアはシーツを握りしめ、荒い呼吸を整えようとした。だが、夢の余韻にしては、身体に残る感覚があまりにも生々しい。

 ふと、胸元に違和感を覚えて手を伸ばした。


「……っ、冷たい」


 指先に触れたエリオットのネックレスは、まるで氷の塊のように凍りついていた。昨夜までは深みのある蒼色を湛えていたはずの魔石が、今は白く濁っている。


『あら……、勇敢ね。主人を守っているのね』


 夢の中の少女が、この石を嘲笑うように言った言葉が耳の奥で蘇る。

 エリオットがリリアに与えた「守護」が、力を失っていく。

 リリアは震える手で、枕元の鏡を手に取った。

 恐る恐る蓋を開け、そこに映る自分の顔を覗き込む。


「……あ」


 鏡の中の翡翠の瞳は、一瞬だけ、朝日を反射した銀貨のように鋭く発光する。リリアが瞬きをすれば元の色に戻っていた。


 その時、静まり返った館の階下から、重厚な門が開く音と、荒々しい馬のいななきが響いた。

 朝早くから、誰かが到着したのだ。

 リリアは窓辺に駆け寄り、カーテンの隙間から下を見下ろす。

 そこには、朝露に濡れた石畳の上に、一人の男性の姿があった。


「エリオット、様……?」


 見上げたエリオットの瞳は、冷徹なまでに研ぎ澄まされ、真っ直ぐにリリアの部屋の窓を射抜いていた。


 バタバタと廊下を駆け抜ける執事たちの慌ただしい足音が、静まり返っていた館に響き渡る。

 王都での公務を数日は残していたはずのエリオットの予期せぬ来訪に、ヴァルディアン公爵邸の全使用人が叩き起こされたようだった。

 リリアは急いで身支度を整えながらも、鏡を見るのが怖かった。


「姉様、行こう。エリオット様が下で待っているよ」


 ルカが部屋の扉を叩いた。その声には、いつもの余裕はない。ルカもまた、邸全体を覆い始めたエリオットの、冷たく圧倒的な魔力を感じ取っているのだろう。

 大広間の重厚な扉が開くと、そこにはヴァルディアン公爵夫妻と並んで、純白の衣装に身を包んだエリオットが泰然と座っていた。

 リリアの姿を捉えた瞬間、エリオットの口元に微笑が浮かぶ。


「やあ、リリア。久しぶりだね」


 その声は穏やかだったが、リリアは彼が放つ圧力が、昨夜までのノルンの熱気とは正反対の、肌を刺すような寒気を帯びているのを感じた。


「エリオット様……お早かったのですわね。サリーナ様からは、もう数日かかると伺っておりましたけれど」


 リリアがカーテシーを捧げながら答えると、エリオットは椅子から立ち上がり、迷いのない足取りで彼女の元へ歩み寄った。


「どうにも胸騒ぎがしてね。予定を無理やり切り上げてきて正解だったようだ。……少し、顔色が悪いようだが?」


 エリオットの手が、リリアの頬に伸びる。その指先が触れる直前、リリアの胸元のネックレスが、ピキッと乾いた音を立てて微かに震えた。

 エリオットの眉が、わずかに跳ね上がる。

 彼の視線はリリアの瞳の奥を、そして彼女が隠そうとしている想いを暴くように深く射抜いた。


「……リリア。君は、僕に隠し事をしているのかな?」


 微笑みは崩さないまま、エリオットの瞳だけが冷たく光る。その背後で、食堂に入ってきたばかりのノルンは、エリオットと視線が合うと少し気まずそうに顔を背けた。


「ところで公爵。ここへ来る途中、ひどく禍々しい気配を感じました。……確かこの地には数百年前、狂乱の末に封印された『白銀の虎』の伝承がありましたね?」


 エリオットの冷徹な問いかけに、ヴァルディアン公爵の眉がわずかに動いた。


「お伽話です。けれど、殿下がそう感じたのであれば、万全を期して警戒を強めましょう」


 公爵は深く頭を下げた。その態度はどこまでも謙虚だったが、胸中ではエリオットの鋭すぎる勘に冷や汗をかいた。

 公爵は顔を上げた時には、すでにいつもの隙のない「領主」の微笑みに戻っていた。


「殿下をお迎えするこの時期に、不吉な影など通しはいたしません。どうぞ、ご安心を」


 その後の朝食は、重苦しい沈黙が支配する場となった。リリアは、エリオットが口にした「白銀の虎」という言葉がどうしても胸に引っかかっていた。


 食後、リリアは意を決してノルンに頼み込み、邸の奥にある広大な図書室へと向かった。


「……無理はするなよ」


 そう言い残して去ったノルンの背中を見送り、リリアは古い書物の山と格闘し始める。

 埃を被った棚の隅、ようやく目的の伝承が記された古文書を見つけた頃には、窓から差し込む陽光はすでに橙色に染まり、日が傾き始めていた。


「……随分と熱心だね、リリア」


 背後から不意にかけられた低い声に、リリアの肩がびくりと跳ねる。振り返ると、いつの間にかエリオットがすぐ近くに立っていた。彼はリリアの手元にある古文書を覗き込み、その冷たい指先で紙面をなぞった。


「『白銀の虎』……。かつては女神リュミエールの傍らに侍り、その慈愛を糧に聖獣として君臨していた存在」


 エリオットが静かにその名を口にする。その続きを、リリアも誘われるように言葉にした。


「けれど、女神がこの地上から姿を消した絶望から、その魂は邪悪な魔力に侵され、ついには狂乱の魔獣と化してしまった……」


 エリオットは静かに頷き、リリアの持つ本を横から覗き込むようにして、細い指でゆっくりとページをめくった。


「私が知っているのはそこまでですわ。エリオット様は、それ以上のことをご存じなのですね?」


 リリアの問いに、エリオットはある一行を指差した。


「ここをごらん。……『主を失い封印されし虎は、欲している。白銀の力をもつ少女を』」


 エリオットの視線が、本からリリアの瞳へと移る。


「君がこの伝承に辿り着いたのは、単なる偶然ではないのかもしれないね」


 彼はそう囁くと、リリアの柔らかな髪先にそっと触れた。そして、そのまま指を滑らせ、色の褪せて白濁してしまったペンダントへと手を伸ばす。

 エリオットが石を包み込むように触れると、そこから鮮やかな蒼い魔力が溢れ出した。濁っていた石はみるみるうちに本来の輝きを取り戻し、エリオットの強力な『守護』がリリアの全身を包み込み直していく。


「あ……」


 内側から膨れ上がろうとしていた銀色の衝動が、冷徹な蒼い鎖によって静かに抑え込まれていく。同時に、重苦しかった身体が嘘のようにふっと軽くなるのをリリアは感じた。


「少し無理をさせすぎたようだね。……私の守護があれば、もう大丈夫だ。君を蝕む物すべてを、私が遮断してあげよう」


 エリオットは満足げに微笑むと、リリアの頬を優しく撫でた。その指先は相変わらず冷たかったが、今のリリアにはそれが、自分を繋ぎ止めてくれる唯一の光に感じた。


「ありがとうございます、エリオット様。……けれど、私もいつまでも守られるばかりではいられませんわ。自分の身は、自分で守れるようにならなくては」


 リリアが顔を上げ、凛とした眼差しでそう告げると、エリオットは意外そうに目を細め、やがて愉しげに口角を上げた。


「……ふふ、向上心があるのは良いことだ。君のそういう強いところも、嫌いではないよ」


 リリアは少し照れくさくなり、乱れた後れ毛を直そうと手を伸ばした。その動作で、ドレスの袖口から繊細な細工の腕輪が滑り落ち、夕闇の中で鈍い光を放つ。

 エリオットの鋭い視線が、その手首に釘付けになった。彼は以前から、リリアが肌身離さず着けているその腕輪が気にかかっていたのだ。


「……その腕輪。それもまた、君を守っているね」


 エリオットの声から温度が消える。彼はリリアの手首をそっと掴み、指先でその細工をなぞった。どこか異国の、けれど温かな魔力を感じ取ったのだろう。


「えぇ……。大事な方からいただいたものですの」


 リリアは愛おしむように腕輪を見つめ、微笑んだ。

 その瞬間、リリアの脳裏には遠い東の国の青年――ハクの姿が浮かんでいた。


(ハク……。彼は今頃、魔法の修行に明け暮れているのかしら)


 リリアの表情が柔らかくなったのを見て、エリオットの手首を握る力が、無意識に強まる。


「『大事な方』、か。……その者は今、どこで何をしているのかな?」


 エリオットの微笑みが、どこか冷ややかな、試すような色を帯びる。その蒼い瞳の奥に、凍てつくような独占欲が揺らめいた。

 だが、リリアが戸惑いと愛おしさが混ざったような複雑な表情を見せると、エリオットはふっと視線を伏せ、力を緩めた。


「……すまない。君の大切なものに、少し踏み込みすぎたようだね」


 先ほどまでの圧迫感が嘘のように消え、彼はいつもの穏やかな顔に戻った。


「さあ、もう日が暮れそうだ。部屋まで送るよ」


 エリオットの差し出した手に導かれ、リリアは夕闇に包まれ始めた図書室を後にした。彼の優雅なエスコートを受けながら廊下を歩くリリアの背中は、端から見れば仲睦まじい姿だった。



 そしてその夜。

 館が深い静寂に包まれた頃、リリアは音を立てずに自室を抜け出した。


「姉様、こっちだよ」


 廊下の角で待っていたルカが、手にした小さな魔導灯の明かりを絞り、手招きする。二人は影に紛れるようにして、離れにあるノルンの部屋の前へと辿り着いた。

 リリアが躊躇いながらも、その重厚な木製のドアを小さくノックする。


「……入れ」


 低く、どこか苛立ちを含んだ声。

 扉が開くと、そこには暖炉の火に照らされたノルンが、厳しい表情で待ち構えていた。彼はリリアを招き入れるなり、背後の廊下に誰もいないことを確認して素早く鍵をかける。


「……エリオットに知られるのも時間の問題だな」


 ノルンは苦々しく吐き捨てると、リリアに向き直った。


「始めようか」


 ルカが見守る中、ノルンが黄金の魔力を掌に灯す。エリオットの冷徹な蒼い魔力が肌に残るリリアにとって、ノルンの放つ熱はどこか恐ろしく、けれど抗いがたく惹かれるものがあった。


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