暗闇の世界
「なるほどな。なかなか面白いことになっているらしい」
低い笑い声が、暗く狭い部屋にひびいた。部屋には煙管をふかしている男と、彼より年上でがっしりした男、そしてがっしりした男の背にしがみついている子供が二人。さらに部屋の入り口近くに執事服をまとった中性的な人物が立っていた。
「重傷を負ったメイドを助けるために、未踏破の最難関ダンジョンまで行って、特効薬を見つけて帰ってくるとは。あの執事もなかなか、肝が据わってるな」
「クリムはやる奴だからな……」がっしりした男は言った。「危なっかしいところはあるが、最後には何とかする奴だ」
「……」煙管の男は笑みを顔に張り付けたまま、がっしりした男をにらんだ。
男は灰を落とした。
「イニチェ、私は貴様の意見なぞ聞いていない」
「……」
「お前は私の家来では、ない。わかっているか? わかっていないな? わかっていれば、余計な口を叩くはずがないものな、違うか?」
男は都度、煙管で灰皿を叩きながら言った。
「貴様は私の問いに答えていればいいのだ……」
そこまで言うと、男は煙管に葉を詰め始めた。イニチェは黙って下を向いている。その表情は完全に無そのものだった。感情を押し殺す素振りさえ、殺しているらしかった。
ただし、感情を殺しきれているのはイニチェだけだった。
煙管に葉を詰め終えた男は、ふと顔をあげ、涙目になりながらも自分をにらんでいる二人の子供に気がつき、にやりと恐ろしい笑みを浮かべた。
男は指を鳴らした。
その瞬間、イニチェは恐怖に顔をひきつらせた。
「で、殿下、どうか……」
「……」
男……すなわちビスキュイ殿下は笑ったまま、しばらく返事をしなかった。
やがて、イニチェたちの恐怖がピークに達したと判断したとき、ぽつりと命令をくだした。
「イニチェ、右にいる子供の頭をなでてやれ」
「え……」イニチェは驚きつつも右にいる子供――ユンの頭をなでた。
「……」
殿下は再び口を閉ざし、イニチェがユンの頭をなでるのを全員で眺めるだけの時間が三十秒ほど続いた。
「どうだ、イニチェ。思う存分なでたか? 一生分のな。どうだ?」
「殿下……。お願いします、殿下、どうか……」
「殺せ」殿下は『なでてやれ』と命令したときと変わらない声のトーンで言った。「お前がいま頭をなでている方だ。殺せ」
「っ……!」
イニチェは目を見開き、右腕を思い切り振り上げた。鍛え上げられた筋肉が膨らむ。次の瞬間にはユンの身体のどこかが致命的なダメージを負うことになるだろう。
イニチェはその意思に反して、ユンを本気で攻撃しようとしている。
ビスキュイ殿下に洗脳されているからだ。
「あああああっ!?」
イニチェは怒号とも悲鳴ともわからない声をあげて拳を振り下ろした。
壊れた床と本棚の細かな木片がいくらか飛び散った。
ユンはまだ生きている。ユンが防御するように突き出した腕に、イニチェの拳がかすったものの、フロイが後ろからイニチェを突き飛ばしたため、イニチェは体勢を崩して転んだからだ。イニチェは望んで転んだようにも見えた。
イニチェは立ち上がると、今度は震える手で剣を抜いて――。
「もういいぞ」ビスキュイ殿下が再び指を鳴らす音がした。
イニチェはハッとしたように動きを止め、怯えた目でビスキュイ殿下を見ながらゆっくりと剣を鞘に戻した。
ビスキュイ殿下はにやにやと笑いながら、うまそうに煙を吐いている。いつの間にか火を入れたらしい。
「本気で命令するわけないだろう。大事な人質なんだから」
「だが、フロイが俺を突き飛ばさなかったら――」
「二人いるんだ」ビスキュイ殿下は最後まで聞かずに言った。「一人くらい減ったところで困らん。子供は嫌いなんだ」
「……」
イニチェがなおも殿下をにらんでいると、不意に殿下が指を鳴らした。イニチェは顔をひきつらせた。
「他に報告することはあるか? なければ、去れ」
「ありません。それでは、ごきげんよう」
イニチェはわざとらしいほど恭しくお辞儀をし、フロイもそれにならった。ユンはまだ床の上に座っている。左腕が変な方向に曲がっているから、折れているのだろう。痛みで顔をしかめていた。
「……」
殿下は何も言わず、そっぽをむいている。すでにイニチェのことは思考の外に追い出したようだ。
イニチェたちがユンを連れて出ていくと、殿下は低い声で笑い始めた。
「聞いたか、ショコラ。あいつ、聖剣を手に入れたらしいな」
「え? ですが、イニチェ殿は勇者が手に入れたと言っていましたが……」
「奴も洗脳が使えるんだぞ。イニチェたちの記憶も改ざんしたはずだ」
「あ……」
「そうだ。奴の言っていた通りになった。姉上の結末を左右する直接的要因である勇者さえ押さえてしまえばどうとでもなるとな。あいつはそれを達成したとみて間違いない」
「レオンハルトを洗脳したと?」
「ああ、そうだ」ビスキュイ殿下は上機嫌で煙管を指先でくいくいと揺らしている。「私が奴の記憶をのぞいたかどうかに関わらず、それはやるはずだ。奴は、慎重だからな。是が非でもレオンハルトは押さえてくる」
「それは殿下にとってプラスなのですか?」
「プラスだ。圧倒的にな」殿下はにやにやと笑っている。笑いが止まらないようだった。「レオンハルトは私にとっても脅威だった。いや、奴の前では敵ではないなどと強がってみせたが、あの勇者に正体がバレた瞬間に全てが終わるからな。だがこれで少し気が楽になった」
「あの男……クリムは……」ショコラはまるでクリムの名前など呼びたくないかのように口ごもった。「レオンハルトに告げ口などしないでしょうか、その、殿下の企みを――。あ、いえ、申し訳ありません。アレの記憶は消したのでしたね。お忘れください」
「いや、記憶は戻っているはずだ」殿下の笑みはふっと消えた。「奴も記憶がおかしくなっていることは知っている。なにせ一か月分も消したからな。聖剣を使って記憶を取り戻しただろう。私の正体も、今は知っているはずだ」
「でしたら……」
「問題ない」殿下は手に持っていた煙管を再び口にくわえた。「そもそも奴は私を殺せない。殺すつもりがない」
「奴が聖剣を手に入れた今、殿下の洗脳も解除したのでは……」
「洗脳は関係ない」殿下はいらいらとした口調で言った。「奴は姉上を幸福にするために動いている。私は姉上の弟だぞ。私を殺してそれが達成できると考えるほど、奴は馬鹿じゃない」
「あ、なるほど……」
「状況はほぼイーブンだ」と殿下は言った。「私と奴はお互いの正体を知った。駒の数や能力に差はあるが、細かいことを抜きにすれば対等と言っていい」
「……」
「問題は次の手だな。一体どんな手を打ってやろうか……」
「楽しんでおられるのですか?」
「楽しむ?」
殿下はショコラの問いに鼻を鳴らした。
「ふん……。おかしなことを言う。私が楽しそうに見えるのか?」
「はい、とても」
「そうか……」
殿下は煙を吐き、しばらくしてのどを鳴らして笑った。
「相手がいなければチェスはつまらないということだろうな」




