夜の世界、4
雑木林の中に、開けた一角があった。
僕は地面に彼女を横たえた。紅い雪が積もっているから、痛くはないと思う。
『ごめんね、こうするしかないんだ……』
彼女は無言で微笑んでいる。
彼女の髪が目にかかっていたから、僕はそれを手で直してあげた――。
「クリム……」耳元で、スクエラの声がした。
『なに?』
「なにしてるの?」
僕は少しカチンときた。なにしてるの、とはなんだ。犠牲になる彼女に対して、あまりに失礼ではないか。どうせ死ぬんだから気にしなくてもいいということか。まったく、スクエラがそんな薄情者だとは思わなかった――。
「あのぅ……」
服を引っ張られて、僕は視線を下げた。フロイだった。
『なに?』
「私も早く離れた方がいいと思います。お人形さんに未練があるのはわかりますが、でも……」
フロイは言いにくそうにいった。
僕はため息をついた。二人ともまるでわかっちゃいない。
『わかった。わかったよ。行きゃいいんでしょ?』
「……」スクエラは僕の耳を引っ張った。
『痛いよ!』
……そう。僕はインベントリの中に入れていた人形を囮として使うことにしたのだ。ちなみに、僕の型の人形は在庫切れだったので、よりにもよってシャルロット様型の人形を使った。人形をまるで人間のように扱う僕を、スクエラは終始気持ち悪そうにながめていた。かついでいるので表情をみることはできないだろうって? いや、耳元で「気持ち悪いわ」とささやかれたから確実だ。
人形には、スクエラの血をほんの少しつけておいた。追手を引き寄せてくれるはずだ。追手の魔物は間違いなく人形に近づく。
そうなれば――。
けたたましい警戒音が鳴った。人形から離れて五分くらい経っただろうか。獲物がエサに食いついたらしい。
それにしてもタイミングが早い。早すぎる。
「わっ」担ぎ上げられたフロイが小さく声をあげた。
『走るよ』
僕はフロイとスクエラを抱えて走った。それなりの数の魔物がアラームが鳴った方へと寄っていく。殺到、というほどではない。気配を殺しつつも、獲物にありつけるかもという期待を持ってゆっくりと様子を見に来ている感じ。そんなのは今だけだ。すぐにお祭り騒ぎになる。
つまり、トラップを仕掛けたのだ。人形にトラップを。何者かが触れた途端、爆音でアラームが鳴るよう細工をしておいた。それがどんぴしゃり。追手の魔物は人形に触れて、アラームが鳴った。そこへ大量の魔物が押し寄せてくる。魔物たちはお互いに飢えている。血と肉と魔力に飢えている。だからさっき見たようなお祭りの殺戮大会が始まるのだ。
さらに数分走って、僕たちは安全と思われる岩陰に身を隠した。
「クリム……、大丈夫?」スクエラを下ろすなり、そう聞かれた。「なんだか、息が荒いけど……」
『……大丈夫』僕は微笑んで、不安そうなフロイの頭をなでた。
もう魔術がほとんど使えなくなっていた。魔術で肉体を操作できないせいで、単純にパワーが落ちている。息切れはそのせいだった。
そろそろ、仮面を外すべきか。魔術が使えなくなると、喋れなくなるかもしれないし……。
いや、それよりこの後はどうしよう。追手はまいたが、僕はもう魔術は使えない。この先へ進むのは厳しい。魔術なしで、スクエラを担いで進んで、とっさの事態に対応できるだろうか。
それとも、ここでレオンハルトたちが助けに来るのを待つべきだろうか……。
がら、と石が一つ落ちてきた。
僕たちが隠れている岩の、上から転がり落ちてきた。
フロイが「ひっ」と息をのみ、僕の左袖をつかんだ。スクエラは物音を立てずに、ケガをしている左手に弓を持ち、右手で矢を取った。僕は彼女を手で制して、立ち上がった。
力を振り絞ってインベントリから、魔剣を取り出した。【紫電剣】ではない。そんな扱いの難しい魔剣ではなく、魔力を注げばパワーが上がる、という単純極まりないやつだ。こんな体たらくでも、扱える魔剣はこれくらいだった。
『いるんだろ……』僕は静かに言った。『わかってるぞ、出てこい』
もはや気配を読む魔術さえ、おぼつかない。
それでも、岩の上にいるのはわかった。
毛むくじゃらの長い腕が一本、岩の上から伸びてきて、地面に触れた。もう一本、腕が伸びて同じように地面に触れた。三本目、四本目……。数えきれないほどの腕が降りてきて、地面に触れ、体重を支え始めた。やがて、真っ黒い毛でおおわれた球体がゆっくりと岩の上から下りてきた。まるで蜘蛛のようだった。そいつの丸い胴体は、ゆっくりとこちらをむいた。そいつの胴体はほとんどが目玉だった。目玉から毛が生えて胴体になり、さらに何本もの腕が生えているのだ。気味が悪いったらない。そいつは、僕の上半身ほどもある大きな目玉で、ぎょろぎょろと僕たち三人を値踏みするように見た。
レベルは……5か、6といったところだろうか。
ザコとは言わないが、万全の状態なら相手じゃない。かといって、この状態ではまともな戦闘などできるはずもない。
「ごめんね」
後ろでスクエラが言った。声が少し優しい。どうやら僕に言ったのではないらしい。フロイに言ったようだ。
「私たち、ここまでみたい。そうよね、クリム?」
まだ何も言ってないのに、よくわかったなあ、と思った。
『……ああ』
僕は目の前でがちがちと歯を鳴らしている目玉蜘蛛を見ながら言った。歯がどこにあるのか、というと蜘蛛でいえばお尻の部分にあるのだが……おそらくその言葉で連想したイメージで十分というか、そこまで詳細に知らなくていいというか、気味の悪い描写ばかり増えてしまうため、これ以上は割愛する。
アレに噛まれたら痛いだろうな、とは思った。
『ちょっと打つ手がない』
「私が囮になっても……無理?」
『無理だね』
蜘蛛はゆらゆらと揺れている。魔剣を構えている僕を警戒しているのか。そんなことをする必要はないのに。
『ごめん、二人とも』僕は振り返らずに言った。『許してほしい。僕にはもう、こいつを倒せるだけの力が――』
無い、と言おうとした瞬間、僕の脳裏に一瞬だけある考えが閃光のように走った。それは突拍子もないもので、僕にもどうしてそんな考えがよぎったのかわからなかった。その考えとはおおよそこんな感じだった。
――でも、僕はクロコダイルを倒したじゃないか。なのにこんな奴に負けるなんて――
その考えは一瞬で起こり、そして去っていった。
一瞬の出来事だったのでその考えは忘却された。
しかし、その考えがよぎったせいで、僕の思考は混乱した。
「クリム!」スクエラの声がした。
目玉蜘蛛が動き出していた。僕はハッとして、魔剣を突き出した。
魔剣は蜘蛛の腕の一本にいともたやすくつかまれてしまった。ものすごい力で、握りこまれていて、びくともしない。僕はありったけの出力で魔力をこめたが、あまり効果はないらしかった。蜘蛛の手が伸びてくる。槍のようにとがった先端が無防備な僕のへそのあたりを、目を、心臓を、突き刺そうと伸びてくる。
全てがゆっくりに見えた。手が僕の身体に触れそうになる。
僕はここで死ぬのだろうか。なんだか実感がない。
ちゃんと抵抗しなければならないのだが、まだどこか余裕があるように感じる。
いまここで何かをしなければならないのだが、それがまだよくわかっていない。
さっきの閃きだろうか? あれが、いま僕が思い出さなければならないこと? 思い出す? 何を?
僕は何を忘れている?
蜘蛛の手から生えた毛が僕の身体に触れる感触がした。
僕は――。
その時、蜘蛛の身体が勢いよくはじけとんだ。目玉の胴体が水風船のように割れて、中身が飛び出している。……例によって描写を細かくしてもいいことはないので割愛するが、そこに血まみれで立っている人物については省略するわけにはいかないだろう。
「……やっと見つけた。探したぞ、お前たち」
そこには顔についた血をぬぐっているレオンハルトが立っていた。




