夜の世界、3
ついさっき、一つの事件があった。
といっても、僕たちに直接的な影響のある事件ではない。見える範囲の雪原上で、事件があった、ということだ。
ずっとずっと遠くの方で、戦闘があった。どうやらそれは魔物同士の戦闘のようだった。巨大な魔物と魔物が、お互いに殺し合っている。その余波で周辺の小さな魔物がいくらか巻き添えで死に、それにハイエナのような魔物が群がっている。まあそいつらも死んだりするのだが、それでも次から次へと群がってくる。群がった魔物を食おうとする魔物もいたりして、カオスなお祭りのようになっている。
「こういうこと?」気づけばスクエラが僕の服のすそを引っ張っていた。「さっきクリムが言おうとしてたのは、こういうことなの?」
『そうだよ』
「これは、たしかにどうしようもないわね……」
「あの……」フロイがいった。「イニチェ様……じゃなくて、レオンハルトさんたちが巻き込まれていたりしないでしょうか?」
『……』僕は首を横にふった。『大丈夫だよ。それっぽい気配はない。みんなはいないよ』
「そうですか……」
フロイはややホッとした様子で息をはいた。
しかし僕は安心していられなかった。僕たちをつけていた魔物の気配がぐっと近づいていたからだ。徐々に距離を詰めてきている。まだ慌てるような距離ではないが――。
「どうかしたの?」スクエラが僕の顔をのぞきこんでいた。
僕はとっさに「なんでもないよ」と言ったが、それが嘘だとは見抜かれていたと思う。その証拠にスクエラは笑わなかった。
『行こう』僕は言った。『あそこに魔物が寄ってくる。見える位置にいない方がいい』
僕たちは再び移動を開始した。とばっちりの火の粉がかかるようなことはなく、その場を後にすることができた。
ただし最悪なこともあった。例の追手はやはりペースを速めている。じりじりと距離を詰めてくる。どうやらさっき近づいたことで、より有力な手掛かりを得たらしい。それか、セーブしていたのを、焦れて急ぐことにしたのか。
いずれにしても僕たちにとって良いことはない。
移動を再開してから十分で、僕は足を止めた。
『つけられてる』僕はきょとんとした顔の二人に言った。『まだずっと遠いけど……二時間ほどで追いつかれるペースだと思う。もっと短いかも。だから、ペースを上げるよ』
二人は無言でうなずいた。スクエラは顔に冷や汗をにじませている。フロイはがたがたと震えているようだった。震えは寒さだけのせいではないだろう。
僕たちはペースを上げた。同じように慎重に進みたいところだが、ペースを上げた分、どうしても慎重さは落ちてしまう。仕方ない。そうするよりないと僕は判断した。
追手は……おそらくかなり計算高い奴だ。
くそ……。最悪だ。対応が後手に回ってしまった。僕のせいで二人を死なせるわけにはいかない。
どうにか……、どうにかしないと……。
さらに一時間進んだころ、すぐそばで重いものが雪に倒れる音がした。敵かと思って飛び上がったが、振り返ると倒れていたのはスクエラだった。
フロイはすぐにしゃがみこんで、スクエラを仰向けにした。僕は周囲の様子を確認してから、スクエラの様子を見た。
顔色が悪く、手足が小刻みに痙攣していた。
縫合はしており、出血も止まっていたが、ずっと歩き詰めでろくに休息も取れていなかった。肉体的、精神的な限界が来てしまったのだろう。
ずっと強がっていたが、やはり無理をしていたのか……。
『ごめん、スクエラ』僕はそういって、彼女を担ごうとしたが、彼女はその手を振り払おうとした。
私のことは置いて行って、と声にならない声で言った。僕は笑った。
『はいはい。気がむいたらね』
振り払おうとする彼女を無視して、無理矢理かついだ。スクエラはケガをしていない右手でぽかぽかと僕を殴ったが、まるで力が入っていなかった。
フロイが僕をみている。不安そうだった。
僕はフロイに微笑み返すだけで、何も言わなかった。
甘えてばかりだ、と思った。
ケガをしていたスクエラに甘え、無理をさせた。
死の覚悟を決めて、置いて行ってと言った彼女を無視して助けることを決めた。きっと彼女を置いていく方が、僕たち全員が生還する可能性はいくらか上がるだろう。僕も、スクエラも、それをわかっている。
フロイも、わかっているはずだ。
僕は、フロイなら抗議しないでくれるだろう、と甘えているのだ。
さらに一時間が経過した。
相変わらず最悪な状況であることに変わりはない。むしろ悪化した。
僕にも問題が生じ始めていた。
スクエラを担いだことによって疲労の蓄積が無視できなくなってきた……ことでは、ない。それも事実だが、新たな問題に比べれば大したことではない。
魔術が使えなくなってきた。徐々にだが、出力が落ちてきている。ちょうど、クロコダイル事件が起きてから意識を回復した頃と同じように。
今までにない経験だったけれど、心当たりは一つあった。
この中層に侵入したときに、落下するスクエラとフロイを助けるために僕はとっさに転移魔術を使用した。だいたい500メートルくらいの距離をジャンプする転移門を開いた……のだと思う。
とっさのことだったから正直、ほとんど覚えていない。転移魔術を使ったのは確かだ。けれど、『どんな風に』使ったのかは思い出せない。
……500メートルもの距離の転移門、ほんの瞬きほどの時間で作成するほどの力を、僕は持っていないはずだ。
転移魔術は距離が長くなるほど、移動させる物体が大きくなるほど消耗が激しくなる。おまけにここは魔力濃度の極めて濃いダンジョンの中だ。正直、魔力を全部使い果たしても達成できるかどうかわからない。
一体全体、どんな魔法を使ったのか、わからない。
だから、僕はたぶん、とっさに異常な手段で転移門を開けたのだろう。
おそらく記憶のない時期の僕が到達した方法で。
その反動か何かで、今、僕は魔術が使えなくなりつつある。
もし今また、その魔法のような転移魔術が使えたらこの雪原を突っ切って、追手をふり切れるのだけれど……。
残念ながら使った時の記憶は霧のなかのようにぼんやりしている。思い出すにはまだ時間がかかるだろう。
だが、例の追手はもうすぐそこまで迫っているのだ。そんな暇は無い。
スクエラを背負って、疲れ切ったフロイを連れて、魔術もろくろく使えなくなってきた僕に、追いつきつつある……。
このままでは追いつかれる。
追手は倒せたとしても、その戦闘で周囲の魔物を引き寄せてしまう。
そうなったらおしまいだ。
だから、どうするか決めなければならない。




