本⑨
十分ほど歩いて、イニチェたちが泊っているという宿屋についた。扉は開いていて、中に入ると主人らしき男が眠そうににらんできた。イニチェは申し訳なさそうに手を上げてあいさつして、階段を上った。しばらくして、主人が扉に鍵をかける音がした。
「僕はどうしたらいいのかな?」
「は?」
「帰るとき、またあの人に鍵を開けてもらわないと……」
「……窓から飛び下りりゃ、いいんじゃねえか?」
「ああ、たしかに。それでいいか」
「いや、冗談のつもりだったんだが……」
イニチェは鍵を取り出して、部屋の扉をそっと開いた。真っ暗な部屋に廊下の灯りが伸びる。奥から、二人分の寝息が聞こえてきた。イニチェはそっと扉を閉めた。僕たちは無言で奥へ進み、二人の寝室の戸を閉めた。
「……なにか飲むか?」
「僕、未成年だけど?」
「じゃ、コーヒーか?」
僕はうなずいた。
「ホットがいい」
「ホットな。了解」
イニチェは火の消えかかっていた暖炉に薪をいくらか足して、火をつけた。それを終えると、てきぱきと支度をして、コーヒーと一緒にサンドイッチも持ってきてくれた。ワインのボトルも一緒だった。
「ありがとう」
「ん」
イニチェは片手でワインをつぎながら軽くうなずいた。
「たまにはこういうのもいい」
「なにに乾杯する?」
「お前、トアン卿がらみで動いてるんだっけ?」
「まあ、そう」
「じゃあ、来たるトアン卿の失脚に、乾杯」
「乾杯。……いいの、そんなんで?」
「他人の不幸ほどうまい肴はない」
「性格悪くない?」
「お前、本当は何の用だ?」
出し抜けに、イニチェは言った。
「あいつらの顔を見に来たってのは、嘘だろ」
「え?」
僕はサンドイッチを取った手を止めた。
「なんで?」
「まだ、顔、見てないだろ。時間はあったのに」
「そ、そりゃ、まぶしいと、かわいそうだから」
「……泊まるつもりもないのにか? なーんか、隠してるだろ、お前」
「えーっと……」
参ったな。こいつ、勘が鋭かったっけ……。忘れてた。どうしようか……。
「……本当は君と飲みたかったんだよね」
「なにい~……?」
イニチェは目を細めて僕をじっとにらんだ。
しまった。さすがに、わざとらしかったか……。
「嬉しいこと、言ってくれるじゃねえか!」
イニチェは空のワイングラスを置いた。吐く息がすでにアルコール臭かった。
「お前にも人並みの心があるってわかって、嬉しいぞ、俺は!」
「……なんか、酔うの早くない?」
「サンドイッチ作ってるときも、飲んでた、からな!」
よくみれば、イニチェの目はあまり焦点が定まっていなかった。
「もうすっかり、へべれけじゃないか」
「れれれけ?」
「なんだか普通に心配になる酔い方だな……。水飲む?」
「いらん! もう一杯!」
「……二人が寝てるんだから、静かに」
「んむ。そうだった……」
僕はイニチェが差し出したグラスを黙って受けとり、ワインのボトルをもってキッチンに行った。ボトルにはまだワインが残っていたが、イニチェはもう飲まない方がいい。ボトルにはコルクをはめなおしてキャビネットにしまい、グラスに水をついで戻った。
「ほら、ついできたよ」
「ん? なんか透明じゃないか?」
「白だからね」
「白?」
「白ワイン」
「そうか!」
イニチェは水をぐいぐいと飲むと、笑った。
「うまいな、これ! なんて銘柄だっけ?」
「……生命の源、かな?」




