第2話 青々とした山脈の先で
かすかな月明かりを頼りに、二人は黙々と山道を歩き続けていた。
「少し、休憩しないか……」
劉燦は途切れ途切れの息で懇願した。しかし、前を行く凛月は振り返りもしない。
「皇子の死体が発見されるまでに、どれだけ距離を稼げるかが勝負よ。ひとたび事が露見すれば、この山道は真っ先に封鎖されて必ず捕らえられる。追っ手がかかる前に大きな町へ紛れ込めれば、まだ勝機はあるわ」
宮廷で育った劉燦にとって、足元の覚束ない暗い山道はそれだけで過酷だった。その上、先ほどの襲撃による精神的な衝撃が、鋭い腹痛となって彼を襲う。
「待ってくれ……本当に、一歩も動けないんだ」
劉燦は片手で強く腹を押さえ、その場にうずくまってしまった。
凛月は立ち止まり、心底面倒くさそうな気配を隠しようともせず、深くため息をついた。そして、懐から何かを取り出す。
「これを食べて」
差し出された彼女の手には、カサカサに乾燥したトカゲの尻尾のようなものが握られていた。
「……これは何だ?」
「薬に決まってるでしょう。早くして」
(この塊をそのまま? せめて粉末にするとか、煎じるとか……)
得体の知れない代物に劉燦が躊躇していると、凛月は冷ややかに吐き捨てた。
「食べないなら、ここでうずくまったまま死を待てばいいわ」
(……今は、彼女に縋るしかない……!)
劉燦は覚悟を決めてそれを口に放り込んだ。塊を噛み砕くと、強烈な苦味が広がる。水の一滴もない中、顔をしかめながら意地だけで何とか飲み込んだ。
彼が完全に飲み込んだのを確認すると、凛月はすかさず背を向ける。
「じゃあ、行きましょう」
「待ってくれ、まだ腹の痛みが……」
「同じことを二度も言わせないで」
有無を言わせぬ声に押され、劉燦はよろよろと情けなく歩みを進めるしかなかった。夜の暗がりに、彼女の白い衣がぼんやりと浮かんでいる。
(やはり魔物のような女だ。人の情けというものがないのか)
恐ろしくなるほどの合理主義。言っていることは正論だが、あまりに冷酷すぎる。だが、今の劉燦が一人になれば、再び刺客に遭遇した瞬間に命はない。彼女の武力と道案内がなければ、この山さえ越えられないだろう。
(彼女は何者だ? こんな時間に一人で山道を通るとは。そもそも、なぜ私を助けたのだろうか……?)
そんな疑問が頭をよぎったとき、ふと、あれほど激しかった腹の痛みがきれいに引いていることに気づいた。
(……あの塊は、本当に薬だったのか)
口の中に残る強烈な苦味を噛み締めながら、前を行く白い背中を見つめる。不気味で冷酷な少女。けれど、今の自分を生かしているのは間違いなく彼女の存在だった。
◇
二人は夜通し、不穏な山道を歩き続けた。
やがて夜明けの光が東の空を淡く染め始める。それまで鬱蒼として不気味だった周囲の山々が朝日に照らされ、瑞々しい青々とした輝きを湛え始めた。まだしばらくは山を抜けられそうにない。だが、視界が広がったことで、劉燦の胸を占めていた恐怖はわずかに和らいだ。
「凛月殿……」
「凛月でいいわ」
「……凛月。私の名は――」
「皇子としてのあなたはあの谷底で死んだのよ。死人の名前に興味はない」
相変わらず容赦のない物言いに、劉燦は苦い顔で口をつぐむ。きつい性格だな、と思わなくもないが、確かに彼女の言う通りだ。
しかし、名前もなしにこれから生きていくことはできない。俯き、痛む足を見つめながらぽつりと問う。
「……これからの名前を、どうすれば良いだろうか」
そう尋ねると、凛月は彼の姿を上から下まで冷ややかに見定めた。
「泥まみれの服を着ているんだから、今日から『泥娃娃』(泥人形)でいいんじゃない?」
「いくらなんでも、それは……!」
劉燦は思わず足を止めて抗議した。
「私も幼い子供ではないし、外でそんな名前で呼ばれたら、それこそ役人や周囲に怪しまれて目立ってしまう。もう少し、こう……普通の名前はないのか」
「注文が多いわね、泥土のくせに」
凛月は面倒くさそうに眉をひそめたが、朝の光に浮かび上がる青い山脈へと視線を留めた。しばらく少年の顔と景色を見比べていたが、やがて思いついたように口を開く。
「……じゃあ、『山』よ」
「山?」
「ええ。ありふれていて、どこにでもあるただの山」
凛月が美しく広がる壮大な山並みを指し示す。
劉燦はその響きを胸の中で繰り返した。そして、眼前に広がる青い山々を見渡す。
「ただの山、か……。なら『青山』と名乗らせてくれ」
「好きにすれば」
素っ気なく背を向ける凛月に、少年は小さく苦笑した。朝日に照らされ、どこまでも青々と連なる山脈を見上げていると、静かな言葉が自然と口をついて出た。
「青山は昔のまま変わらないのに、変わってしまうのは人の心ばかり……か」
思いつくままに呟いた途端、胸の奥からこみ上げるものがあった。身分も、信頼していた臣下たちの情も、あたたかだった居場所も、すべては一夜にして霧のように消えてしまった。人の心の脆さと無情さに、冷たい痛みが胸を締め付ける。
だが――果てしなく続く青い山々を見つめているうちに、彼の心に重く静かな決意が生まれた。
(……ああ、そうだ。人は変わっても、この青い山はどこにだって広がっている)
たとえ故郷を追われ、この世の果てまで逃げ延びることになろうと、自分が骨を埋めるべき山など、この空の下の至るところにあるのだ。ならば、もう過去の温もりに縋って怯える必要などどこにもない。
劉燦は深く息を吐きだし、未練をたち切るようにぐっと拳を握りしめた。
(『劉燦』はあの谷底で死んだ。……ならばこれからは『青山』として、どこへ行き、どこで潰えようとも、最期まで諦めずに生き抜いてやる)
悲しみを抱えたまま瞳の奥に宿した灯火は、先ほどまでの怯えとは違う、揺るぎない覚悟の光を放っていた。
青山が微笑んでみせると、凛月は冷淡な瞳のまま、言葉を続ける。
「良かったわね、青山。……どこにでもある、ただの山。あなたにふさわしい、いい名前じゃない。これからはせいぜい、私の足を引っ張らないことね」




