第3話 路青山という名
凛月の急かしようもあり、昼前には山を抜け、街道へ出ることができた。険しい山道から一転し、見渡す限りの平野を黙々と進む。
青山は肩越しに後ろを振り返りながら目的地を確認する。追っ手の姿はまだない。
「行き先はやはり西京か?」
「そうね」
凛月は口数の多いたちではないらしい。青山の必要最低限の問いかけに短く応えるだけで、二人はただ、風の音を聞きながら歩いていた。
日が西の山並みに傾きかけた頃、青山の視線が道端の小さな塊に留まった。一羽の小鳥が倒れている。弱っているのか、人が近づいても飛ぶ気配すらなく、地面で小さく震えていた。
追われている身で小鳥を気にかける余裕などない。だが、その姿が青山自身に重なった。
――地に落ちた、落ちぶれた自分と同じだ。
同情かはたまた憐れみか。青山が思わず手を伸ばしかけた瞬間、頭上から冷ややかな声が降ってきた。
「もう助からないわ」
青山はハッと顔を上げる。
「温めてやれば、まだ息を吹き返すかもしれない」
「ここまで近付かれても、丸まって目を閉じたまま。羽毛も逆立っている。今さら温めたところで、無駄に苦しみを引き延ばすだけよ」
そう言いながら、凛月が小鳥へと指を伸ばす。その瞳には憐れみどころか、殺意すら浮かんでいない。ただ死を受け入れた、無の眼差しだった。
(この女、楽に殺してやるつもりか……)
合理的な彼女ならやりかねない。青山はとっさに凛月の手を遮るように、小鳥を自分の手で包み込んだ。
「……分かった、分かったから。だが、馬に踏まれるような道の真ん中で死なせるのも不憫だ。あちらに移してやろう」
青山は掌の中でかすかな温もりを感じながら、陰になった苔の上へとそっと小鳥を横たえた。
「自分自身が追われる身だというのに。呑気なことね」
凛月は吐き捨てるように言うと、さっさと歩き始める。青山は大股で後を追い、ずっと腹の底に溜め込んでいた疑問をぶつけた。
「ところで……君はなぜ、見ず知らずの私を助けたんだ?」
「侠客として、なすべきことをしたまでよ」
凛月は淡々と言い放つ。だが、合理的な彼女が、やっかいな皇子と行動をともにする危険を冒すにはもう少し深い理由があるのではないだろうか。その疑問は口に出さずしまっておく。
「侠客……。なるほど、どおりで並外れた腕前なわけだな。だが、一人きりでこの混沌とした江湖を渡っていくには、いささか年若い気がするが」
「あなたのような世間知らずのぼんぼんと一緒にしないで」
「……生まれてこの方、そんな口の利き方をされたのは初めてだよ」
チクリと皮肉を混ぜてみるが、凛月の横顔には一切の波風も立たない。
「あなたが『助かりたい』と言ったから救ったの。歩けなくなった時点で、あなたとの縁は切れるから」
(要するに、生殺与奪の権は向こうにあるということか)
青山はそれ以上反論せず、小さく息を吐く。街道の先に小さな町の影が見えてきた。
「歩きづめだったわね。今日は早めに宿を探しましょう」
凛月はそう呟くと、それ以上は何も語らず足を早めた。
(動けなくなったら見捨てると言いながら、早めに宿を探す……)
決して優しさなどではない。ただ、自分の旅路に足手まといを引きずり回すのが煩わしいだけだろう。青山は自嘲気味に口元を緩め、彼女の背中を追った。
◇
凛月は迷いなく、町に入ってすぐの客店の暖簾をくぐった。使い古された柱が建物を支える、みすぼらしい安宿だ。ほの暗い帳場の木机には、黄ばんだ台帳が広げられている。
宿の主から油染みのついた筆を差し出されると、凛月は迷いのない手つきでそれを受け取った。青山が後ろから見守る中、彼女の白い指先が、流麗な墨跡でさらさらと文字を走らせていく。
『路 凛月』
『路 青山』
その文字を目にした瞬間、青山は息をのんだ。
(……『路』)
――「私は路凛月」
彼女の冷ややかな声を思い出す。皇室の姓を捨てた自分は、江湖を生き抜くための新しい「姓」を、彼女から分け与えられた。
路青山。
街道を行くただの旅人としての名。それはどこか切なく、しかしどこまでも自由な響きを孕んでいた。これからは、この名で生きていく。青山はまだ乾ききっていない文字を、そっと噛み締めるように見つめていた。
◇
宿の主人に案内されたのは、青山がこれまで見たこともないほど狭く、湿気と油の匂いが充満した薄暗い一室だった。
「……二人で一室なのか?」
主人が足早に去ったのを見届け、青山は声を潜めて凛月に囁く。
「当たり前でしょ。無駄金を払う余裕なんてないわ。それに万が一追手に襲われたとき、あなた一人で返り討ちにできるの?」
「それは……確かに」
青山は物珍しげに部屋を見回した。狭苦しいながらも、最低限の清掃はされているらしい。彼は少し警戒しながら、硬い木製の寝台にそっと腰を下ろしてみる。
青山が一息つこうとしたその時、凛月の口から思いもよらない言葉が飛び出した。
「そうそう。外では、あなたは私の『弟』ということになっているから」
「なっ……!?」
青山は弾かれたように立ち上がった。慌てて周囲の気配をうかがい、声を殺して少女に詰め寄る。
「そこは、私が兄ではないのか!?」
年長者として、そして男としての矜持がわずかに口を出させた。だが凛月は、粗末な卓の上に荷物を置きながら、冷淡に彼を一蹴する。
「あなた、自分の顔を一度水面に映して見てみたら? どこからどう見ても、世間知らずで守られ慣れている、ぼーっとした坊やの顔そのものよ」
容赦のない毒舌に、青山は絶句するしかなかった。ぐうの音も出ない。ここまでの己の無力さを振り返れば、反論の余地などどこにもなかった。
「……分かった。表向きは、そう振る望むことにしよう」
彼ががっくりと肩を落とすと、彼女はすでに興味を失ったように寝台へ腰を下ろしていた。
「少し休みましょう」
そう言って、凛月はさっさと横になってしまう。部屋にある寝台は、当然一つだけだ。青山は戸惑い、その場に立ち尽くした。
(未婚の男女が同じ寝台に横たわるなど、礼節に反する。……私は床で寝るか)
いくら宮廷を追われた身とはいえ、最低限の節度は守るべきだ。冷たく硬い板敷きの床に覚悟を決め、青山が腰を下ろしかけたその時だった。寝台から凛月が怪訝そうに視線を向けてきた。
「何してるのよ。あなたもこっちに来たら?」
「いや、私は……さすがにそれは、良くない」
「床で寝て風邪でもひかれたら迷惑よ。これ以上旅のお荷物になりたくないなら、四の五の言わずに私の言う通りにして」
「き、君は……」
言い返す間もなく、凛月は容赦なく彼の腕を掴み、寝台へと引き寄せた。肌に触れた彼女の指先は、相変わらず死人のように冷たい。
狭い寝台の上、至近距離に迫った彼女の瞳は、冬の湖面のように凪いでいた。そこには異性を意識した羞恥など欠片もない。
「もっと詰めて。狭いのだから」
それだけ言い捨てると、凛月はさっさとこちらに背を向け、土壁の側へ寝返りを打った。
隣に横たわる青山は、身を固くしたまま身動きが取れずにいた。すぐ間近から聞こえてくるのは、静かで規則正しい微かな寝息だ。
(あれほどの修羅場をくぐり抜けておきながら、一瞬で眠りに落ちるとは……。この少女は、一体何者なんだ)
信頼していた配下を失った暗い喪失感と、すぐ隣にある底知れない少女の気配。その二つの緊張に挟まれ、青山の冴えた意識は一向に眠りを受け入れようとしない。
(……いや、弱音を吐いている場合ではない。起きてしまった過去は変えられないのだ。まずは身体を休めなければ、明日からの旅路を生き抜くことすらできないぞ)
無理にでも思考を打ち切ろうと、細く息を吐いて目を閉じる。
(彼女が何者であれ、利用してでも黒幕にたどり着いてみせる)
やがて、極限に達していた肉体の疲労が精神の緊張を押し潰し、彼はかろうじて意識をまどろみの底へと沈めた。
――しかし。
ようやく訪れた暗闇の底で彼を待ち受けていたのは、あまりに容赦のない悪夢だった。




