第1話 皇子の最期
絶体絶命の劉燦。懐をいくら探ろうとも、頼みの暗器は底を突いていた。足元には、物言わぬ骸と化した護衛や側近たちが転がっている。
(もはや、これまでか……)
覚悟を決めた瞬間、迫り来る刺客の動きが、やけにゆっくりと感じられた。白刃の放つ冷徹な剣気が喉元へ迫る。少年は静かに、諦念とともに両目を閉じた。
しかし、予期した痛みも衝撃も訪れない。
まるで風が衣を撫でるような、冷たく不気味な音を耳にする。劉燦が恐る恐る目を開けると、白い閃光のような影が、猛然と刺客たちを蹴散らしているところだった。
十代半ばだろうか。喪服のような真っ白な衣をまとった、美しい少女。布地だけでなく、その肌までもが透き通るように白い。まっすぐな黒髪と漆黒の瞳だけが際立ち、まるで水墨画から抜け出してきたかのようだ。しかしその浮世離れした美貌と、ピクリとも動かない無表情さのせいか、どこか底知れぬ不気味さも漂わせている。
少女の手には、氷のように青みがかった白銀の刃が握られていた。刺客の一人が剣を振り下ろそうとした瞬間、少女は足音を立てずに踏み込む。その軟剣がまるで生きた蛇のようにたわみ、しなった。
「な……っ!?」
彼女の放った剣の刃先は、相手の防御を無造作にかいくぐると、刺客の首の襟ぐりへ滑り込んだ。刃先が首筋を撫でただけのように見える。
しかし次の瞬間、刺客の目は虚ろになった。傷口から血が噴き出すこともなく、男は人形のように膝から崩れ落ちる。
次々と襲いかかる刺客に対しても、少女の動きに一切の無駄はなかった。ある者は音もなく喉を押し潰され、ある者は急所の秘孔を突かれ、糸が切れたように倒れる。刀と刀が交わる甲高い音も、飛び散る返り血もない。ただ、静寂の中で死だけが淡々と積み重なっていく。
あれほど手強かった刺客たちが、またたく間にただの屍へと変わっていく。劉燦は呆然と立ち尽くすしかなかった。
すべての刺客を倒し、少女は流れるような動作で刃を返した。あれだけの闘いぶりにも関わらず、その刃も、彼女がまとう純白の衣も、一滴の血すらついていない。少女はまったくの無表情のまま、音もなく劉燦の方へ近付いてきた。
「……ねえ」
彼の喉は恐怖で引きつり、言葉が出てこない。すると少女はわずかに眉根を寄せ、こう吐き捨てた。
「目を開いたまま死んでるの?」
気遣いなどみじんもない、とんでもない物言いに、劉燦はハッと正気に返る。
「し、死んでいない! 生きている!」
慌てて手を振る彼を、少女は不審そうな目で見つめる。
「あらそう。ところで、こんな辺鄙な山道に、なぜ皇子ともあろうお方がいるわけ?」
「なぜ、それを……!?」
劉燦は驚愕した。身元は隠していたはずだ。
「服装は地味だけど、使っている生地は高価。それに――」
少女はためらいなく一歩を踏み出し、少年の胸元へ手を伸ばした。
「っ……!」
劉燦は突然のことに息を呑む。硬直する彼の襟元を、少女は強引に掴んで引き寄せる。衣服の隙間から、細い指先が少年の肌に触れた。冷たい。まるで死人のように体温の感じられない指先だった。少女の冷淡な視線が、少年の衣の隙間に注がれる。
「帯の裏。この印を身に着けるのは皇室の人間だけよ」
淡々と述べる少女。少年はその恐るべき観察眼に舌を巻いた。
(見えぬよう注意を払っていた印を、これほど一瞬で……!)
少女は声の調子を変えずに言った。
「あなた、助かりたい?」
その問いに、劉燦は即答できなかった。傍らには、冷たくなってしまった護衛たち。危険な旅路になると知りながら、最後まで自分を守ろうとしてくれた側近。彼の顔が悔恨に歪み、奥歯をグッと噛み締める。
(誰の差し金かはまだ分からない。だが……ここで死ぬわけにはいかない。必ず生きて、真相を暴いてみせる!)
劉燦が強い眼差しで首を縦に振ると、少女はその視線を正面から受け止めた。
「そう。じゃあ、早く全部脱いで」
「……は?」
あまりの突拍子もない要求に、劉燦の思考は完全に停止した。沈黙が流れる。発言の意図するところが分からず、警戒する少年。彼女の顔を伺う。
だが、少女の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。ただ、冬の湖面のように冷たく澄んだ瞳で、彼を値踏みするように見つめている。
「……耳まで悪いの? 早くその服を脱ぎなさいって言っているのだけど」
「な、何を不埒なことを! 助けてくれたことには感謝するが、いくらなんでも――」
「不埒?」
少女は心底けげんそうに眉を寄せると、手元に持っていた剣を、音もなく鞘に収めた。そして劉燦のまとう上質な絹の衣に手を伸ばす。
「待て!……自分でする」
「じゃあ早くして」
顔をこわばらせてそう言うと、少女はあっさりと一歩下がった。
少女の思惑を探りながら、震える手で帯を解き、衣服を脱ぎ捨てる。冷たい山の夜気が、剥き出しになった肌を刺した。長着を脱ぎ捨てて薄い内衣一枚になり、寒さとやり場のない屈屈に身を震わせる。
少女はその高価な衣を拾い上げると、少し離れた場所に転がっている刺客の死体の元へと歩み寄った。
「……何をするつもりだ?」
劉燦の問いには答えず、少女は死体の衣服を剥ぎ取り始めた。そして、先ほどまで劉燦が着ていた、皇室の印が刻まれた上質な衣を、その死体に手際よく着せ替えていく。劉燦と体格の近い、若い刺客の死体だ。
「まさか……」
彼の脳裏に、最悪の推測がよぎる。少女は死体に衣を着せ終えると、その襟首を掴み、音も立てずに引きずっていった。向かう先は、山道の脇に広がる、底も見えない深い断崖絶壁だ。
「やめろ……! 待て!」
劉燦は思わず駆け寄ろうとしたが、少女の凍るような一瞥に足がすくんだ。
「追手は執拗よ。あなたが生きている限り、地の果てまで追ってくる。一番確実なのは、ここで『皇子は死んだ』と彼らに思い込ませること」
少女は淡々と言い放ち、死体を崖の縁へと横たえる。
「顔が潰れ、谷底の岩に叩きつけられれば、衣服と印だけが確かな証拠になる。衣服に付いた返り血も、皇子自身の血だと思わせられるわ。――ねえ、これ以上の偽装がある?」
「しかし、それは……!」
あまりにも容赦のない、冷酷な合理主義。命を救ってくれた美しい少女が、今はまるで見知らぬ魔物のように見えた。少女は感情の失せた瞳で、少年をじっと横目で見ている。
「自尊心がそんなに大事? 護衛たちの仇を討ちたいんでしょう。なら、彼らの死を無駄にしないことね。死人に口なし、死人に尊厳なしよ」
少女がドン、と軽く足蹴にする。劉燦の衣服をまとった死体は、音もなく夜の闇へと、奈落の底へと落ちていった。
しばらくすると、遠くで鈍い衝撃音が響いた気がした。
彼は、自分の「死」の音を聴いた。奥歯がガタガタと震える。恐怖なのか、それとも己の無力さへの怒りなのか、分からなかった。
少女は満足したように頷くと、先ほど死体から剥ぎ取った、ほとんど血に汚れていない黒い刺客の衣服を、彼の足元に放り投げた。
「さあ、それを着て。今日からあなたは、ただの泥土よ。生き延びたいなら、私の後ろに付いてきなさい」
真っ黒な衣を拾い上げ、彼は強く目を閉じた。華やかな宮廷、自分を守って死んでいった者たち、そして皇子としての自分。その全てを、今、完全に失ったのだ。
彼は泥に汚れた黒い衣に袖を通した。身を切るような山の夜気と、死体から剥ぎ取った衣にまだほのかに残る温もりが、肌にねっとりと染み込んでくる。さっきまで自分を殺そうとしていた刺客の、生々しい体温と臭い。こみ上げる吐き気を、彼は歯を食いしばってこらえた。
(ここで屈してなるものか。倒れてなるものか。真相へ辿り着くまでは……!)
彼は、少し先で闇に溶け込むように佇む白い少女の背中に、そっと尋ねた。
「……君の名前を、教えてくれないか」
少女はゆっくりと振り返り、冷淡に言い放った。
「私は路凛月。それ以上でも以下でもないわ」
振り返った彼女の双眸は、どこまでも冷たく、そして息を呑むほどに美しかった。
「ここもじきに追っ手が来る。都へ引き返すより、このまま山を抜けましょう」
少女は歩き始める。向かう先は、都とは真逆の方向――夜の闇に黒々とそびえ立つ、不穏な山脈の奥深くだった。




