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深紅の瞳に囚われて  作者: Marron
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第五話:形を変える


共同生活が始まって一ヶ月が過ぎた。

その日は、これまでの歪な平穏が静かに形を変え始めた。


朝、いつもの時間になっても柚祈がリビングに現れない。

寝坊だろうか、と悠人はしばらく待った。

しかし、返事のない扉に胸騒ぎを覚え、静かに声をかけた。


「柚祈、入るよ」

返答はない。


カーテンを閉め切った暗い部屋の中。

柚祈は布団にくるまったまま、荒い呼吸を繰り返していた。


「……柚祈?」

触れた額は、火傷しそうなほど熱い。

体温計が示した数字は39度。

意識が朦朧としている柚祈に、悠人はすぐさま軍の医師を呼びつけた。


「過労からの発熱だろうね。点滴で様子を見ようか。しっかり休ませるんだよ。」


医師が処置を終えて去った後の静かな寝室。

点滴の滴る音だけが響く中、悠人はベッドの脇に腰を下ろした。


その時、柚祈の手が何かを求めるように弱々しく動いた。

ベッドから落ちそうになったその手を悠人が咄嗟に掴む。

戻してやろうとしたが、柚祈の指が、驚くほど強い力で悠人の手を握り返した。

「……柚祈?」

顔を覗き込んでも、柚祈の目は閉じたままだ。

無意識の拒絶か、あるいは縋りか。

悠人は驚きつつも握られたままの手を見つめ、この一ヶ月を思い返していた。

イチゴジャムの瓶、猫を撫でていた柔らかな指先。

そして、戦場を駆ける時にだけ現れる、あの眩しいほどの羽。


(あの羽で、誰からも傷つけられない場所で自由に舞っていてほしい。あんなに綺麗に飛べるんだから……)

悠人の胸に、憧れに似た淡い熱が浮かぶ。


けれど、点滴に繋がれ、消え入りそうなほど小さく横たわる目の前の柚祈を見て、その熱は急速に冷たく、鋭いものへと変質した。


(でも、あの羽を折ることは、誰であっても絶対に許せないな。……あぁでも、柚祈が空を舞うときの最後に帰ってくる止まり木が、僕であればいいや)

悠人は、その感情を「守るための決意」という名で、自分自身にさえ気づかれないよう塗り替えていった。


昼過ぎ、ようやく柚祈が僅かに目を開けた。

「……ん……?」

「柚祈、わかる?」

「……? なんで……悠人が、いるの……?」

「おはよう、柚祈。熱があるんだけど……自分では気づいてないかな?」

悠人は柚祈の体を優しく支え、上体を起こした。

「ね、つ……? ぼーっと……は、するかも……?」

「でしょ? 39度もあったんだよ。大丈夫?これ、飲める?」

悠人は少しずつ水分を摂らせてから、軍支給のゼリーを手渡した。

「……悠人、ごめん、なさい……訓練、ある……」

「…………っ。大丈夫だよ。軍には僕から話してある。今日はしっかり休んで。……はい、これ。案外美味しいよ」

「……ん……本当だ」

柚祈は促されるままゼリーを一口ずつ飲み込み、続けて解熱剤を服用した。



「……悠人、」

「ん?」

呼びかけただけで、言葉は続かなかった。

まぶたがゆっくりと落ちていく。

柚祈が完全に眠りにつくまで、悠人はその手を離すことなく傍にいた。

柚祈本人は最後まで手を握っていたことには気づかなかった。


その後、眠ったのを確認した悠人は自室へ向かった。

この狭くて薄暗い、軍が用意した最低限の部屋。

壁に視線を走らせる。

遮光も、防音も、何もかもが足りない。

ここで眠る柚祈の神経を思うと、胸の奥がざらついた。

今の柚祈には、安息などどこにもない。


(全部は変えられなくても、せめてこの家だけは完璧にしよう)


貯金を確認したが、悠人の理想には足りない。

リフォーム、最高級の遮光、防音、寝具etc.

それら全てを揃えるには、もっとお金が必要だった。


悠人は十年ぶりに、クローゼットの奥のスマートフォンを手に取った。

コール音が響く。

出たのは、冷徹を絵に描いたような実父の声だった。

『……生きていたのか、悠人』

「お久しぶりです、お父様。突然のご連絡、失礼いたします」

丁寧な言葉遣いとは裏腹に、悠人の声には温度がない。

『要件は何だ。金か?』

「ええ。至急、まとまった額を振り込んでいただきたくて。僕の個人口座に」

『理由を言え。贅沢を覚えたか?』


「……教える必要はないでしょう? 拒否されるのであれば、僕は明日、ある診断書をメディアに持ち込みます。……慈善活動家として名高い貴方が、実の息子を失敗作として軍に隠蔽したとなれば、面白い記事になりますよ」

悠人は笑っていた。

電話の向こうで、父が不快そうに息を呑む。


金が欲しいのは半分だ。

もう半分は、自分を消し去りたい一族に、死ぬまで自分という不快な存在を刻み込み続けるための復讐。

(僕を捨てて、いなかったことにしたいんだろうけど……そうはいかないよ。一生、僕に毟り取られながら思い出してよ。失敗作の息子が、まだ生きていることを)



――大丈夫なはずだ。

そう言い聞かせるように息を整え、悠人は一度だけ柚祈の部屋を見た。


翌日。

熱が少し下がり、ふらつく足取りでリビングに出た柚祈は、言葉を失った。

そこには昨日までなかった、雲のようにフカフカした最高級のマットレスと、贅を尽くした羽毛布団が鎮座していた。

「…………これ、どうしたの?」

「買ったんだよ。今日から、これ使って寝てね」

「……お金は?どうしたの……?」


柚祈の問いに、悠人はこれまで見たこともないような、心底幸せそうな笑顔で首を傾げた。

「んー? ちょっと実家におねだりしちゃった♪」



その日の夜。

偶然にも、悠人が父に「お礼」という名の脅しの電話をしている様子を、柚祈は耳にする。


「ええ、届きました。迅速に対応してくださり、ありがとうございます。……それでは、“また"」

スマートフォンを置いた悠人の、冷たく歪んだ横顔。朝の幸せそうな笑顔とは真逆の。


その瞬間、柚祈は悟った。

この贅沢品は単なる優しさではなく、

悠人なりの、復讐の産物なのだと。


寝室に戻った柚祈は何も言わず、悠人が勝ち取った高級な布団に身を沈めた。

布団の中で、柚祈は目を閉じた。

ーー何も考えないようにして。


二人の間にある止まり木が、少しずつ、けれど確実に形を変え始めた夜だった。


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