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深紅の瞳に囚われて  作者: Marron
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第三話:三週目


暮らし始めて三週間が経った。その日は、共同生活が始まって間もない頃柚祈が作ってしまった、右手の深い切り傷の経過を診せに医務室へ向かった。

「うん、順調だね。若いから治りも早い。これなら傷跡もほとんど残らないだろう」

医師の穏やかな言葉に、悠人は心底安堵した。

「ありがとうございます。……よかったね、柚祈」

「うん。……ありがとうございました」

包帯が外された自分の右手を見つめ、柚祈は短く応えた。医務室を出ると、悠人はそのまま居住区とは反対方向へ歩き出した。


「……帰らないの?」

「リフレッシュするために少し散歩して帰ろうかなって思って。ここの近くにいい場所があるんだ」


そうして柚祈と悠人が足を運んだのは、基地の端にある整備された森だった。

「ここ来たことある?」

悠人が柚祈の顔を覗き込みながら聞く。

「ないと思う」

「やっぱり。でも、ここいいところでしょ?」

「……うん。静かでいい」


基地内とはいえ、ここは居住区からも離れた場所だ。木漏れ日がサングラス越しに届き、風が木の葉を揺らす音だけが響いている。人通りの少なさと情報の流入の少なさは、過敏な柚祈にとって最適な休息場所だった。


少し開けた場所に出ると、木陰から数匹の猫が姿を現した。

軍の規則では禁止されているはずの猫たちが、いつの間にかこの森の住人になっていた。

猫たちは、警戒心もなく柚祈の足元へ擦り寄っていった。

「あ……」

柚祈は一瞬、どうしていいか分からないように立ち尽くした。けれど、すぐに屈み込み、細い指先で猫の首筋を撫で始める。その手つきは驚くほど慣れていた。

「猫、好きなの?」

横に並んだ悠人が問いかけると、柚祈は猫の背を撫でながら、視線を落としたまま答えた。

「……わからない。でも、昔から動物には好かれるみたい。よく触ってた」

「そうなんだ」

柚祈の指がふわふわとした毛並みに沈み込む。その口元が、ほんの僅かだけ緩んでいるのを見逃さなかった。

悠人は少し離れた位置からその光景を眺めた。自分が守り、導かなければならない存在だと思っていた。

たが、目の前の彼女は、何もしなくても、ただそこにいるだけで自由な生き物たちに受け入れられている。

柚祈が自分の価値を証明しようとしなくても、ここは彼女を拒まない。

「……行っちゃった」

しばらくすると、猫たちは満足したように思い思いの方向へ歩いていった。自由な猫たちの後ろ姿を、柚祈は名残惜しそうに見送ってから何も言わず悠人の隣に戻った。


「名残惜しい?」

「……別に。また、会えると思うから」

「そうだね。また来ようか」

「……うん」

残りの時間を静かに散歩し、暗くなる前に二人は居住区へと戻った。


帰宅後、悠人は手際よく夕食の準備に取り掛かった。

「今日は何?」

「パスタ。柚祈は座ってて」

「……手伝う」

「いいよ。ゆっくりしてて」

そう言われても、柚祈はキッチンから動こうとしなかった。

何か役割を持っていなければ、自分の居場所を確保できないとでも言うように、悠人の手元を見つめている。

「……何か、させて」

「……じゃあ、パスタが茹であがるのを見ててくれる? タイマーが鳴ったら教えてね」

「……わかった。見てる」

柚祈は鍋の前に立ち、沸騰する湯の中で踊るパスタを驚くほど真剣な目で見守り始めた。

本当に小さな手伝い。

けれど彼女は、自分に与えられたその任務を遂行することに全神経を注いでいるようだった。


食事を終え、いつものように小上がりで向き合う。悠人の指が彼女のピアスを静かに引き下げ、ガイディングの合図を送る。頬に添えられた手のひらから、凪の波が流れ込む。

「……悠人」

「ん?」

「……今日、楽しかったよ」

ガイディングの心地よさに声を漏らす柚祈。

その顔は、猫を撫でていた時と同じように、どこか柔らかい雰囲気だった。

余韻を残したまま、二人はそれぞれの寝室へと戻った。



自室の作業机の椅子に深く腰掛けた悠人は、暗い部屋で独り、今日一日の出来事を反芻していた。

自由に羽ばたいてほしい。

それなのに、手の届かない場所へ行かれることが、なぜか怖い。そんな歪な感情が、心の奥底で静かに疼いている。

(……何もしなくても、受け入れられる場所があるんだな)

今日の猫たちの姿と、パスタを真剣に見守っていた彼女の姿。まだ自覚できない柚祈への複雑な熱を抱えつつ、悠人はどこか割り切れない、微かな「もやつき」を感じていた。

ーー今日はいい日だった、と言い切れるはずなのに。

解けない問いを抱えたまま、悠人は重い身体をベッドへ投げ出した。


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