第二話:二週目
イチゴを買いに行った数日後。
実戦を想定した初めての戦闘訓練が行われた。
ガイドである悠人は後方の安全圏で待機し、センチネルである柚祈が前線へと投入される。
事前の調査で視覚系の能力者としては「見える範囲が狭い」という理由で、軍内での彼女への期待値は決して高くはなかった。
しかし、その場にいた誰もが、彼女の異質さを思い知ることになる。
柚祈の真価は、視界の広さではなく「動体視力」という一点に特化していた。
高速で移動する標的を、彼女の網膜はまるで静止画のように捉える。
彼女から放たれる弾丸は、標的の脳や心臓といった致命的な部位を寸分の狂いもなく貫いていく。
相手からの攻撃すら、彼女には予測されたスローモーションに過ぎない。
軽やかに身を翻し、一傷も負わずに戦場を支配し続けるその姿に、軍の評価は「有用な兵器」として一気に跳ね上がった。
後方からモニター越しにその動きを見ていた悠人は、息を呑んだ。
普段、部屋では自分の「価値」を気にして、何かに怯えるように肩を窄めている少女が、そこにはいなかった。
戦場を駆け回る彼女は、まるで本物の羽が生えているのではないかと錯覚するほど軽く、鮮やかで、そして誰よりも輝いて見えた。
(……なんてきれいな羽なんだろう)
自分の能力を存分に発揮し、何にも縛られずに舞う姿。
普段も、あんな風に生きていてほしいと、悠人は心の底から願った。
訓練が終わり、夕食を食べ終えた二人はリビングの小上がりで向き合った。
ガイディングの時間だ。
柚祈が畳に腰を下ろすと、悠人がその正面に立つ。
悠人が左手の人差し指で、柚祈の右耳にあるピアスを静かに、けれど確実に下へと引っ張る。
それがこの二人だけの、調律を始める合図だった。
柚祈の脳内では剥き出しの宝石眼が捉えた情報の残滓が、神経の奥でチカチカと火花を散らし爆発寸前だったが、刺激に反応し、顔を上げる。
視線が重なった瞬間、悠人の空いた右手が、柚祈の左頬を包み込むように添えられた。
「……始めるよ」
悠人の低い声とともに、冷たく澄んだガイディングの波が柚祈の脳内へ流れ込む。
射撃の瞬間に解析した標的の速度、風の向き、薬莢の跳ねる音――それらが未処理のまま脳を焼く。
頭の芯が痺れるように重く乱反射させていたノイズが瞬時にクリアになり、熱を持っていた脳が強制的に凪の状態へと引き戻されていく。柚祈はその劇的な静寂に、抗いようのない心地よさを感じていた。
ガイディングを続けながら、悠人の脳裏には、先ほど見た戦場の「羽」が蘇っていた。
普段、これほどまでに周囲を気にかけ、自分の居場所を必死に守ろうとしている彼女が、あんなにも高く飛べるなんて。
あんな風に、自由に羽ばたいてほしい。
けれど、同時に彼の中に芽生えたのは、まだ名前のつかない歪な熱だった。
自由にさせたいという願いと、その羽を誰にも見せず、自分の手の届く範囲にいてほしいという相反する欲求。
整理のつかない思考が、無意識に指先の力に現れる。
柚祈の頬を支える右手に、僅かに力がこもった。
だが、その変化に気づく者は誰もいなかった。悠人自身もその無意識の圧迫に自覚はなく、柚祈もまた、脳がクリアになっていく快感に身を委ねていたからだ。
やがてガイディングが終わり、悠人がゆっくりと手を離す。
「……ありがとう、悠人。すごく、すっきりした」
柚祈が視界を晴らして、短くお礼を言う。
「……うん。それならよかった。今日は訓練で疲れているだろうから早く寝るんだよ。……おやすみ」
「おやすみ」
悠人は穏やかに微笑み、彼女を見送った。
けれど、彼女が部屋へ戻った後、悠人はさっき柚祈の頬に添えた自分の掌をじっと見つめ、自問自答を始める。
自由にさせたい。けれど、完璧に自由にさせるのは怖い。
そんな歪な形の感情が、今後どのように自分と彼女を変えていくのか。悠人はその暗い熱の正体を測りかねたまま、静まり返った部屋で独り、思考の淵に沈んでいった
羽が見えた訓練から、少し時が経った頃。
その日は、新月の闇を想定した夜間戦闘訓練が行われていた。夜戦を苦手とするセンチネルも多く、この訓練は適性を切り分けるためのものだった。
以前の訓練で評価が上がったせいか、今日は監督役がやけに多い。
兵器としての品定め――そんな空気が、訓練場に滲んでいた。
だが、暗闇の奥に消えていった柚祈は、そんな衆人環視など露ほども感じていないかのようだった。
闇の中でも、昼間と何ら変わらぬ速度で駆けた。
僅かな熱源と空気の震えを逃さず、放つ弾丸は標的の急所を射抜いていく。
悠人は、後方の暗いモニターを見つめながら、静かに息を呑んだ。
ノイズ混じりの画面越しでも、はっきりと見える。
暗闇を裂いて舞う柚祈の背中に、以前と同じ、鮮やかで自由な羽が。
(……やっぱり、あんな風に。誰よりも高く、飛べるんだ)
その姿はあまりにも美しく、そして危ういほどに独りきりだった。
軍の隊員たちは柚祈のスコアを覗き込み、今後を語る声ばかりを上げていた。
けれど、訓練を終えて戻ってきた柚祈の背中からは、もうあの羽は消えていた。
隊員たちの称賛を避けるように視線を落とし、小さく肩を窄めて悠人のもとへ歩み寄る。
そこには、いつものように自分の価値に怯える、小さな少女の姿があるだけだった。
「お疲れ様。……大丈夫?」
悠人は歩み寄り、冷えたタオルと飲み物を差し出した。
「……うん。大丈夫」
柚祈は短く応じると、一口だけ飲み込み、ふっと小さく息を吐いた。
今日の「訓練」という名の重圧から、ようやく解放されたような溜息だった。
帰宅後、悠人はすぐにキッチンに立った。
椅子に深く腰掛け、目を閉じている柚祈の疲労具合を見て、ハンバーグ用に用意していた材料を片付けた。
数分後、テーブルに並んだのは、熱々のチャーハンと香ばしく焼き上がった餃子。
そして、ハンバーグ用に用意していた玉ねぎがたっぷりと入ったコンソメスープだった。
「はい。食べられそうな分だけでいいから」
「……あ、美味しそう」
柚祈は小さな声でそう言い、スプーンを動かした。
黙々と食事を摂る彼女を見守りながら、悠人はその静かな時間を守るように傍にいた。
食事が終わると、いつものように小上がりの畳スペースで向き合う。
悠人が左手の人差し指で、柚祈の右耳にあるピアスを静かに、けれど確実に下へと引っ張った。
それが、沈黙の約束。
火花を散らす情報の残骸で熱を持っていた柚祈の脳内へ、悠人から冷たく澄んだ波が流れ込む。
暗闇の中で限界まで酷使された感覚が、ゆっくりと、けれど強制的に解けていく。
柚祈はその劇的な静寂に、深く身を委ねた。
ガイディングを終え、悠人がゆっくりと手を離す。
「……少し、楽になったかな」
そう問いかけると、柚祈の表情がほんの僅かだけ、和らいだように見えた。
「……うん。すっきりした。ありがとう、悠人」
「……よかった。今日も疲れただろう。もう寝なさい。おやすみ」
「おやすみ」
柚祈が寝室へ消えた後、悠人は独り思う。
あの戦場で高く、自由に舞う羽を守りたい。
その羽を畳み、自分の手の届く範囲に留めておきたい。
二度と損なわれることのないようにしたい。
そんな矛盾した、けれど熱い執着が胸の奥で渦巻いている。
悠人はその歪な感情にまだ名前をつけられないまま、静まり返った部屋の闇に沈んでいった。




