第一話:一週目
本作品はセンチネルバースの設定の一部(ガイドによる感覚調整、センチネルの能力特性など)を使用しています。
センチネルとガイドの契約から一週間。
二人が並んで座るキッチンのカウンターには、まだどこか余所余所しい朝の空気が停滞していた。
「ジャム、何がいい?」
右隣に座る悠人の問いに、
柚祈は「いちご」と短く答える。
手渡された苺ジャムの瓶。
それを右手で握り、左手を蓋に添えた瞬間だった。
柚祈の脳が捉える情報の速度に、肉体の出力が追い越される。
――バリン、と乾いた音がして、視界の中でガラスが砕け散った。
「ごめんなさい! すぐに片付けます」
柚祈は反射的に椅子から滑り降りた。
破片を拾わなければ。掃除をしなければ。
実家で叩き込まれた「ルール」が彼女を突き動かす。
床に散らばる鋭利なガラス片に手を伸ばしたとき、悠人がその手を強く握りしめた。
「何やってるの!? 拾うのは後でいいから! 怪我してない? 大丈夫?」
悠人の声は、柚祈の耳を素通りしていく。
彼女の頭にあるのは「現状復帰」への強迫観念だけだ。制止を振り切ってなお手を伸ばそうとする彼女の右耳を、悠人の指が強く引き下げた。
ピアスの穴に走る鋭い痛みが、強制的に彼女の意識を現実へ引き戻す。
「痛っ……」
「落ち着いて。……怪我、してるじゃないか」
悠人に促され、初めて自分の右手を見た。
真っ赤なジャムの中に、それよりも粘度の低い鮮やかな赤が混じっている。じくじくと、後追いで痛みが這い上がってきた。
悠人は静かに、けれど迷いのない手つきでジャムを拭い取っていく。
現れたのは、想像以上に深い数箇所の切り傷だった。
彼は慣れた手つきでタオルを巻き、止血を優先させると、そのまま柚祈を連れて居住区の医務室へと向かった。
道中、悠人が何度も「痛くないか」と覗き込んできた。柚祈はその問いの意図が掴めず、
ただ「いたくない……」とだけ答えた。
瓶を割った「失敗」をした自分に対して、なぜこの人はこんなにも慌てているのか。
その違和感の方が、手の傷よりもずっと彼女を支配していた。
医務室の医師は、穏やかな老人だった。
傷口を洗浄し、二箇所を縫い、手際よく処置を進めていく。
「小柄なセンチネルの女の子には、よくあることだよ。覚醒して間もないと、力の加減が脳に追いつかないんだ」
軍の記録を確認しながら、医師は優しく笑った。
訓練漬けで家事から離れていたことも原因だろう、と。
「びっくりしたかもしれないけど、大丈夫だよ」
帰り際、医師にかけられた言葉を、柚祈は咀嚼できなかった。
びっくりしたのは、私ではなく、割られた瓶の方ではないのか、と。理解できないまま
「……ありがとうございます」
と頭を下げ、部屋へ戻る。
自室に戻った瞬間、柚祈は真っ先にキッチンカウンターへ向かった。
放置されたガラス片。
それが視界にあるだけで、彼女の呼吸は浅くなる。
再び拾おうとした彼女を、悠人の厳しい声が止めた。
「何やってるの! 拾わなくていいから!」
「……怒ってる?」
柚祈は泣きそうな顔で悠人を見上げた。
実家の母と同じ、苛立ちの声だと思った。
悠人はそれには答えず、
「向こうで待ってて」
と小上がりの畳スペースを指差した。
言われるがまま、柚祈は小上がりに腰を下ろした。
悠人がキッチンで破片を片付ける音を聞きながら、彼女は上半身を横たえる。
医師の言葉。悠人の行動。
それらが、過去の記憶と激しく衝突していた。
十歳の頃。コップの水をこぼした自分に放たれた「掃除が大変じゃない」という母の言葉。
弟がスープをこぼした時、熱さに泣く自分を無視して「お気に入りのテーブル」の染みを心配していた両親の背中。
――濡れているのは、私。痛いのも、私なのに。
(……私より、テーブルの方が心配なの? 大事なの?)
自問自答しながら、無意識に包帯の巻かれた右手をにぎにぎと握りしめる。
「こら。傷口が開くから握らない」
ふいに頭を軽く叩かれ、柚祈は弾かれたように体を起こした。
いつの間にか片付けを終えていた悠人が、膝をつき、柚祈と視線の高さを同じにしてそこにいた。
「さっき、怒ってる?って聞いたよね。今、僕は怒ってるよ」
柚祈が身構える。けれど、悠人は彼女の右手を両手で優しく包み込み、熱を持った瞳で言葉を継いだ。
「怒ってる。でも、柚祈にじゃない。そういうことがあるってことを知らずに、柚祈に怪我をさせてしまった自分に怒ってるの。……分かる?」
柚祈は、ゆっくりと首を横に振った。
「……分かんない」
悠人はそれから、静かに話し始めた。
「前に水をこぼした時も、君は一人で片付けようとしたよね。家でもずっと、そうやって家事をやらされてきたんでしょ? 自分でやるのが当たり前だって。僕が代わろうとしても、君は自分でやろうとする。……でも僕は、そんな生活は違うと思う。十六歳の君が、全部背負うことじゃないんだよ。すぐに変わることは難しいと思うけど、僕に少しずつ任せてくれない?」
「……嫌。……私、やる」
柚祈は縋るように言った。
「家事もさせてもらえないなら、私は戦う時以外、ただの『壊れやすい宝石』でしょ? そんなの、ただの人形と同じ……価値がないなら、私、ここにいちゃいけない……」
「価値なんて理由で、隣に置いてるんじゃない!」
悠人の叫びのような声が、静かな部屋に響いた。
柚祈が肩を震わせる。
悠人はすぐに後悔したように眉を下げ、包帯の巻かれた彼女の右手を、痛いくらいの力で握り直した。
「センチネルとガイドの関係は、そんな損得で決まるものじゃないよ。……それに、人の価値なんて、そんなことで決まったりしない。少なくとも、僕にとってはそうなんだ」
悠人は、自分の指先から伝わる熱が、単なる同情ではないことを自覚していた。
同情じゃないならこの感情はなんなのかはまだ分からない。
でも、自らの内側に生まれたその歪な熱に気づき、わずかに奥歯を噛み締めた。
一方、柚祈はそんな悠人の内面など知る由もなかった。ただ、今まで受けてきたどの「怒り」とも違う感情で見てくる目を、じっと見つめていた。
(……この人は、テーブルの染みよりも、私の傷の方が嫌なんだ)
十歳の頃、スープを被って震えていた自分。
あの時欲しかったはずの言葉が、何年も経ってから、全く別の場所で、全く別の人の口から降り注いでくる。
凍りついていた過去の自分が、その熱に触れて、ほんの少しだけ顔を上げたような気がした。
張り詰めていた体が、自分でも気づかないうちに、わずかに解けていく。
「……お腹、空いたよね。作り直すから、座って待ってて」
悠人はそう言ってキッチンへ戻り、再び朝食を用意した。
今度は、あらかじめ蓋を緩めた瓶を並べて。
「ジャム、何がいい?」
柚祈は、包帯の巻かれた右手を見つめ、それから悠人の顔をまっすぐ見て答えた。
「……いちご」
「ごめん。いちごはもう無いんだ。今日、あとで一緒に新しいのを買いに行こう。……今はブルーベリーでもいい?」
一瞬、柚祈の瞳が揺れた。けれど、すぐに小さな頷きが返ってくる。
「……うん。……買いに行くの、忘れないでね」
昼食後。
少し休憩してから二人は買い物に出ることにした。
悠人は既に外出用の服に着替え、玄関で待っている。
そこへ着替えを終えた柚祈がやってきた。
「サングラス、持った?」
悠人があくまで事務的に問いかける。
「……持ってる」
柚祈は手に持った遮光レンズを悠人に見せた。
外に出ると、情報の流入を抑えるためにサングラスをかける。
基地内のスーパーまでは歩いて10分もかからない。
悠人は、太陽光の刺激を少しでも和らげるように、無自覚に柚祈の少し前を歩いていた。
その途中、柚祈の靴紐が解けて足が止まった。
結び直そうと屈んだものの、今朝の怪我で右手がうまく動かない。
「ん?」
指先が震え、紐が指の間を抜けていく。
それに気づいた悠人が、さらっと彼女の前に膝をついた。
「貸して。僕がやるよ」
「……大丈夫。自分で、」
「いいから。ほら、できた。行こう」
悠人は手際よく紐を結び直すと、何事もなかったようにまた前を歩き出した。
スーパーに着き、まずは野菜と果物のコーナーへ向かう。
そこで、鮮やかな生のイチゴが柚祈の目に留まった。
(……あ、)
一瞬だけ、今朝の出来事が頭をよぎる。
瓶を割った感触、手のひらに走った熱。
意識が数秒ほど過去に囚われ、柚祈の足が止まった。
それに気づいた悠人が、彼女の視線を追う。
「……これなら、瓶じゃないから割れる心配もないし、そのまま食べられるね。家に帰ったら食べよっか」
悠人はそう言ってパックを手に取った。
その後も肉や魚を選ぶ。
最後にジャムのコーナーにたどり着いた。
「ジャム、どれにする?」
「……同じの」
柚祈は、朝に壊したものと同じ瓶のいちごジャムを指した。地味にお気に入りだった味だ。
けれど、伸ばしかけた手が止まる。
(また、割ったら。……あの掃除を、またさせちゃう)
自分が怪我をすることより、悠人に後始末の手間を負わせることへの忌避感が勝った。
柚祈は反射的に手を引っ込め、視線を逸らす。
「……やっぱり、いい。こっちで」
柚祈は、割れないプラスチック容器の安価なジャムを掴んだ。
「……どうして? このジャム気に入ってると思ってたけど」
悠人が不思議そうに問いかけ、瓶のジャムに手を伸ばす。
柚祈はそれを止めようとして、けれど理由を説明する言葉が見つからず、視線を泳がせた。
「……こっちでいい。……大丈夫だから」
悠人は一度、柚祈の包帯に巻かれた右手に目を落とした。
それから、瓶のジャムをカゴに入れる。
「やっぱり瓶のにしよう。力の制御に慣れるまでは、僕が開けて渡すから大丈夫。」
「……でも」
「もし壊しても、また僕が片付けるだけだから心配しないで。……あ、でも、怪我をされるのは困るから。このジャムは僕がいる時だけ食べるようにしてね。約束だよ?」
「……、……うん」
戸惑いながらなんとか言葉を飲み込み、柚祈は小さく頷いた。
会計を終えて帰宅した。
悠人は早速イチゴをボウルに入れて洗い始めた。
視覚特化型の柚祈の目には、イチゴに跳ね返る水滴の一粒一粒が、宝石が弾けるように克明に映る。
いつもなら処理しきれない情報の山は脳を削る「ノイズ」になるはずなのに、なぜか今日は、その光景をずっと見ていたいような感覚があった。
「はい。どうぞ」
皿に盛られたイチゴが目の前に置かれる。
一粒口に運ぶと、みずみずしい甘さが広がった。
向かい側では悠人も同じようにイチゴを食べている。
「甘いね」
「……うん。甘い」
それだけの時間。
その夜。
ベッドに入った柚祈の脳内には、今日起きた出来事が溢れていた。
今まで関わってきたどの大人とも違う、悠人の対応。
(……もしかしたら。ここなら……)
私を、受け止めてくれるのかな。
真っ暗な天井を見つめながら、柚祈の心に、ほんの少しだけ期待が滲み始めた。




