第十七話:死角の画角
一禾たちとの電話から数日が過ぎた。
まだ二人は帰還していないが、あの夜から柚祈には新しい習慣ができていた。
一禾に、一日に一枚の写真を送ること。
それは猫だったり、空だったり、道端に咲く花だったりと様々だった。
その日の午後、二人は買い出しのために居住区内を歩いていた。
柚祈はいつものカラーサングラスをかけ、悠人の少し後ろを静かに歩く。
「体調は、変わりない?」
「……うん。大丈夫」
悠人は歩きながら、さらりと彼女の顔色を確認する。
強い光を避けるサングラス越しでも、彼女の視線が安定していることが分かった。
目的地のスーパーへ着く手前、手入れの行き届いた花壇が目に留まる。
色とりどりの花が、午後の陽光を浴びて咲き誇っていた。
「綺麗だね」
悠人が声をかけると、柚祈は足を止めてじっと花を見つめた。
「……うん、きれい。写真、撮っていい?」
「もちろん」
柚祈がスマートフォンを構えるのを、悠人は隣で見守る。
彼女は視力がいいだけでなく、色の捉え方も繊細だ。
彼女の撮る写真はいつも構図が整っていて、悠人の目にも「美しい」と感じられるものばかりだった。
帰宅後、夕食を終えたリビングに穏やかな時間が流れる。
ソファでスマートフォンを操作している柚祈に、悠人は淹れたてのお茶を差し出した。画面には、昼間に撮ったあの花の写真が映っている。
「今日の写真も、きれいだね」
「……ありがとう。一禾に送るものだから」
「……一禾さんに、ね」
悠人はその言葉をなぞるように、納得させるように復唱した。
なぜかその言葉が耳に残ったのだ。
柚祈は悠人の僅かな声音の変化には気づかず、今日撮った写真を一枚ずつ確認している。
悠人は背後からその画面を覗き込み、ふと、違和感をおぼえた。
そこには、先ほどの花の写真だけでなく、もっと違う構図のものが並んでいた。
花びらの一枚だけを極端にアップにしたもの。葉っぱの独特な曲線だけを切り取ったもの。さらには、ハートの形に見える地面の影や、アスファルトの亀裂。
(……それは、いつの間に?)
今日の外出中、彼女が立ち止まったのはあの花壇の前だけだったはずだ。それ以外の時間は、ずっと自分の隣で、自分の歩調に合わせて歩いていたはずなのに。
「……うん」
柚祈は出来栄えに満足したのか、小さく呟いてスマートフォンをサイドテーブルに置いた。
「お風呂に入ってくるね」
彼女がリビングを去り、脱衣所のドアが閉まる音がする。
テーブルにはスマートフォン。
彼女が戻ってくるまで、少なくとも三十分はある。
悠人は、当たり前のような動作でそのスマートフォンを手に取った。
指先ひとつでロックを解除し、写真フォルダを開く。
フォルダの中には、昨日一禾に送る用だと言って撮っていた、日向ぼっこをしている猫の写真があった。
彼女が「一禾に送る」と口にした通りの、愛らしくて平和な一枚。
けれど、その横には、猫の尻尾だけ、耳の先端だけ、あるいは複雑な毛並みの模様だけを写した断片が並んでいる。
それだけではない。
いつ撮ったのか、どこで撮ったのかさえ判別できない、無機質な風景の断片。
悠人の胸の奥で、正体の知れない冷たいものが僅かに波立った。
柚祈には自由に羽ばたいてもらっているはずだった。
それも、見守れる範囲で。
けれど、どこかにヒビが入っている。
一番近くで、ずっと彼女を見てきたはずだった。
最近では、彼女の主体性を育むための場として、一禾や海さえもその「手の届く範囲」に加えたつもりでいた。
それなのに、自分の知らない柚祈が、すぐそこにいる。
同じ道を歩き、同じ景色を見ていたはずなのに、彼女は悠人の知らない瞬間に、悠人の知らない「意味」を見出し、記録していた。
どれほど目を凝らして見守っていても、柚祈が何を見つめるかまでは、悠人の手には届いていなかった。
「…………っ」
悠人はスマートフォンを元の位置に戻し、そのままソファに深く背を預けた。
彼女の主体性が伸びていることは、喜ばしいことだ。でも……
「完璧に、把握できていると思っていたのに…………」
天井を見上げたまま、悠人は動けずにいた。
ずっと見ていたはずなのに。
手の届くところにあると、疑いもしなかった。
その確信が、解読不能な断片を前にして、音もなく軋んだ。




