第十八話:やさしさの仮面
居住区の入り口。
数週間ぶりに触れた一禾の体温は、柚祈が思っていたよりもずっと暖かかった。
「ゆーずーきー!! 会いたかったー!! 大変だったんだよ、もう!」
「おかえり、一禾。お疲れ様」
飛びついてきた一禾を、柚祈は少し戸惑いながらも受け止める。
その背後で、悠人が一歩前に出た。
これまで一禾や海に向けてきた拒絶は微塵もない人当たりの良い笑顔で声をかける。
「一禾さん、海さん。本当にお疲れ様です」
「あ……お疲れ様です、悠人さん」
海は本能的な恐怖から、露骨に頬を引き攣らせる。
悠人はその反応を気にも留めない様子で、穏やかな笑みを深めた。
「よければ、このあと僕たちの部屋で夕飯を食べませんか。柚祈も、お二人と話したがっていますから」
「……うん。悠人のご飯、美味しいから。食べよ?」
柚祈の、淀みのない言葉。
それに重なるように、悠人が静かに言葉を添えた。
結局、二人は一度自室で砂埃を落としてから、柚祈たちの部屋を訪ねることになった。
一度自分たちの部屋に戻った、一禾と海。
着替えながら一禾は、海に話しかける。
「ねえ、なんか悠人の態度変わったよね?」
「変わった。確実に」
海は、不安を振り払うように頭を振る。
「俺たちがいない間に何かあったのかな。俺、今怖くて仕方ない」
「臆病だね。さすがに食事に毒を盛るようなことはしないだろうから大丈夫よ」
「頼むから、悠人さんと二人っきりにしないでよ」
「……善処はする」
そんな会話が繰り広げられているとは知らず、柚祈は悠人に呑気に話しかけていた。
「……元気そうで良かった。みんなでご飯食べるの、楽しみだね」
「そうだね。一応、二人が好きそうなものを作ってみたけど足りるかな?」
悠人は完璧な手際で、テーブルの上に料理を並べていく。
ーー三十分後。
部屋のインターホンが鳴り、入ってきた一禾たちは玄関で立ち尽くした。
「……うわ、なんかすごいね。私たちの部屋と、全然違う」
「……悠人が、リフォームしてくれたから」
当たり前のように事実を言う柚祈。
だが一禾は、その整いすぎた空間の裏にある悠人の思惑を想像し、顔を引き攣らせた。
「……そうなんだね」
ダイニングに案内されると、その表情はさらに一変した。
テーブルを埋め尽くす、色鮮やかな料理。
「これ、悠人さんが全部作ったんですか?」
「柚祈にも手伝ってもらいましたから、全部ではないですよ」
「……悠人の料理は、なんでも美味しいよ」
一禾と海は、顔を合わせてクラッカーの上にチーズやトマトが乗ったスナックを食べる。
「美味しい……」
「海の料理も美味しいけどこれはすごいね。柚祈いつもこんな美味しいもの食べてるの? 羨ましい……」
「……うん? うん。悠人の料理は、なんでも美味しいよ」
そんな光景を、悠人は少し離れた位置から微笑ましく見守っている。
自分の整えた静寂の中に、他者の声が混ざる。
しかし、かつては拒絶していたノイズも、今は柚祈のために必要なものに思えていた。
四人が椅子に座ると、一禾の話が止まらなくなった。
派遣された先での災害支援がいかに過酷だったか、朝から晩まで続いた泥のかき出し。
その九割は、現場を知らない本部への愚烈な不満だったが、柚祈は楽しそうに相槌を打つ。
「それは大変だったね」「うん、一禾頑張ったんだね」
久しぶりに会う友人の熱に当てられながら、柚祈は穏やかに会話を楽しんでいた。
悠人はその合間に、さりげなく大皿の料理を取り分け、空いたグラスを絶妙なタイミングで満たしていく。
賑やかで、幸福な夕食の時間。
「あ、でも、柚祈からの写真は嬉しかったよー! 構図とか色の感じが、プロみたいで」
「そう! 柚祈ちゃんにしか撮れない写真ばかりでさ」
「……良かった。一禾、疲れてたから」
無邪気に喜ぶ一禾。
だが悠人の耳には、その会話が別の意味を持って響いていた。
(プロみたいな構図か。僕の知らない、柚祈の視点……)
悠人は微笑みを崩さず、新しい水を海のグラスに注いだ。
「海さん、足りないものはありますか。遠慮なく言ってくださいね」
「あ、ありがとうございます……」
海の瞳に、得体の知れない困惑が浮かぶ。
かつての悠人なら、外部の人間をこれほど丁寧に迎え入れることはなかった。
その変化の正体を、誰も言葉にできないまま、食事は進んでいく。
「あ、悠人さん、俺も片付け手伝いますよ」
「いえいえ。お誘いしたのはこちらですから、大丈夫ですよ」
海が席を立とうとするのを、悠人は丁寧に、けれど鉄壁の拒絶で制した。
悠人がキッチンへ食器を運び、少し距離ができた隙に、一禾が柚祈へ顔を寄せた。
一禾は周囲を気にするように、低く、声を潜めて聞く。
「ねえ、悠人の雰囲気変わった気がするけど何かあった?」
「ん? 変わったかな。いつも通りだよ?」
柚祈の瞳には、何の陰りもなかった。
「そっか」
それ以上何も聞けずにいるうちに、悠人が戻ってきた。
運ばれてきたデザートのプリンアラモードは、専門店のような仕上がりだった。
「え、すごい。プリンも悠人さんが?」
「はい。蒸すだけですから、簡単ですよ」
「海も作れるようになってよ!」
「俺、正確に量るの苦手だから無理だよ」
賑やかに言い合うペアとは対照的に、二人は静かに感覚を共有する。
「……ホイップ、甘くない」
「そう。プリンに合わせて、控えめに作ったんだ。おいしい?」
「……うん」
一禾たちの目には、それがひどく、透明な膜に包まれた異世界のように映っていた。
同じ空間にいるのにそこだけが違う世界に見えた。
夜も更け、お開きになる。
一禾と海は自分たちの部屋に戻り、玄関のドアが閉まると同時に深い溜息をついた。
「あー怖かったー……。悠人さん、 何であんなに態度が優しくなってるの」
「分かんない。柚祈に聞いても何も変わってないって言うし」
「うん……一禾、多分これ、考えない方がいいやつだと思う」
「えー! 無理だよ。こんなに人が変わることある?」
「無理かもしれないけど、悠人さんの考えていることは一生分かんないから。もう、受け入れよう」
「そうだよね……考えると地雷踏みそうだし。よし、今日は楽しかった! 以上!」
二人は無理やり、思考を打ち切った。
一方、静まり返ったリビング。
悠人は満足そうに食器を洗い終え、ソファの柚祈を振り返った。
(これは大丈夫だな。羽ばたける場は広いほうがいい)
悠人は、自分の指輪の石を静かになぞった。
柚祈が自由に羽ばたける場を静かに整えていく。




