第十五話:ポケットの中の猫
合同訓練の休憩中、一禾が少し残念そうに口を開いた。
「来週からさ、災害支援の任務で数週間いなくなるんだ。瓦礫の除去とか、橋の敷設とか。力自慢の出番だって」
柚祈は、手に持っていた水筒を止めた。
「……いなくなるの?」
「うん。だから、約束してたカフェ、明日行かない? 予定の日だと行けなくなっちゃったから」
一禾の提案に、柚祈は少しだけ考え、それから隣に立つ悠人を見た。
悠人は穏やかに頷き、快諾した。
翌日、四人は雑貨屋が併設されたカフェにいた。
一禾と柚祈は、棚に並ぶ色とりどりの雑貨を眺めて歩く。
これまでの外出では、一禾に勧められるものを肯定するばかりだった。
けれど、ある棚の前で、柚祈の足が止まった。
柚祈は自分から手を伸ばし、一つの刺繍ワッペンを手に取った。
それは、かつて公園で見かけた、あの猫にそっくりの模様だった。
「それ、気に入ったの?」
隣で見ていた一禾が、驚いたように声を上げる。
「…………気に入ったのかは、分かんない。けど、公園にいる猫と同じだと思って」
感情を言葉にする術は、まだ持たない。
けれど、それは今までにない明確な、柚祈自身の感想だった。
柚祈が自分の感覚で物を手に取ったことに、一禾は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、これでお揃いにしよ! 私もこれ買う!」
「……うん。いいよ」
会計の際、悠人が当然のようにカードを出すことに、一禾も海も、もう何も言わなかった。
店を出て、四人で居住区の入り口まで歩く。
別れ際、一禾が名案を思いついたように笑った。
「これ、隊服に着けようよ。外から分からない場所なら大丈夫。ポケットの内側に着けて、フラップを開けた時だけ猫が見えるようにするの。可愛くない?」
「……いいかも。悠人、付け方分かる?」
「分かるよ。帰ったらやってみようか」
悠人の言葉に、柚祈は小さく頷いた。
「今日はありがとう。災害支援、頑張ってね、一禾」
「うん! 柚祈も無理しないでよ。……いってくるね」
「いってらっしゃい」
一禾の元気な声を見送り、二つのペアはそれぞれの帰路についた。
部屋に戻ると、柚祈はすぐに隊服を広げた。
ジャケットの胸にある、フラップ付きのポケット。
悠人が手伝おうと手を伸ばしたが、柚祈はそれを静かに、けれど確かに制した。
「……自分で、やりたい」
「分かった。……まずは、ここに針を通すんだよ」
悠人の教えを受けながら、柚祈は真剣な面持ちで針を動かした。
自分の考えで、自分の持ち物を整える。
一生懸命にワッペンを縫い付ける柚祈の姿を、悠人は深い満足感とともに見守っていた。
柚祈が世界を広げているといっても、それはまだ悠人の視界の中に収まる、ごく小さな範囲のことだ。
一禾や海という存在さえも、悠人にとっては管理可能な背景の一部に過ぎない。
自分の目の届く場所で、彼女が自身の領域を少しずつ整えていく。
たとえ限定的な自由でも、それを謳歌しようとする柚祈の変化が、悠人は純粋に喜ばしかった。
出来上がったワッペンは、少しだけ傾いている。
けれど、柚祈はそれを「自分で選んだものだ」という確かな心強さを持って見つめていた。
一禾たちが任務へ向かった後。
特別過酷な訓練が続いているわけではない。
戦場を舞う柚祈の羽も、相変わらず鮮やかで、鋭い。
けれど、帰宅した柚祈の足取りは、どこか重かった。
「大丈夫? ……どこか、すっきりしない感じ?」
悠人の問いに、柚祈は曖昧に首を振った。
「分かんない。……でも、なんか、変な感覚」
ガイディングはいつも通り、完璧に行われている。
けれど、柚祈の胸の奥にある「すっきりしない感じ」は消えなかった。
その感覚が「寂しさ」という名前であることを知らないまま、一禾から届く何気ないメッセージを今日も待っていた。
自分から何かを伝えるという選択肢は、今の柚祈の中にはまだ存在しない。
自分からメッセージを送れば、その正体不明の感覚が少しだけ解消されるかもしれないということに、彼女はまだ気づいていなかった。
それでも、一禾や海という存在について、彼女は自分自身の頭で考え始めていた。
眠りにつく前、柚祈は自分の感覚について考える。
悠人のガイディングは、いつも通り完璧だ。
けれど最近は、それが以前のような「完全な凪」ではないような気がしている。
それが大丈夫なことなのかどうか、柚祈には分からない。
ただ、前よりも少しだけ、自分の内側から言葉にならない何かが漏れ出しているような。
そんな新しい感覚を抱えたまま、柚祈は静かに目を閉じた。




