ごちそうさま
部室に戻ると、村上はまだ寝ていたが、軽くゆすると目を覚ました。
マリ先輩と知宏先輩ももう落ち着いたらしい。二人で何か話していた。おかえりと手を振ってくれる。
「うわ! 千佳ちゃんどうしよう。なんか大事な話してたような気がするんだけど全然覚えてない! 夢にすっごいイケメンが出てきたのは覚えているんだけど」
一彦さんのアレには、記憶を混乱させる作用があるらしい。そういえば亡者を目撃したはずのクラスメイト達から、何も言われていない。
慌てる村上の頭に、千佳は手を置いた。なでるのがうっかり癖になっている。
「いいよ。覚えてなくても、言ってくれたことは、覚えているから。だから、ありがとう。あすか」
村上が目を真ん丸にして千佳を見上げた。千佳はちょっと困って尋ねた。
「あの、あすかって呼んでいい?」
「待ってた!」
目をキラキラさせて村上は言った。
「すっごい待ってた! キリンになるかと思った! 嬉しい!」
輝く笑顔でそういわれ、千佳も嬉しかった。けれどなぜか、村上はぐりんと首を巡らせて渡辺に喧嘩を売りはじめた。
「渡辺、ざまあ! 呼んでもらったことないでしょ!」
「……あるよ」
「え? うそ!? っていうか渡辺の下の名前ってなんだっけ?」
村上は首を傾げた。
「しんや君だよ」
千佳が答えると、村上はばっとこちらを振り返った。
「まさか渡辺も名前で呼ぶの?」
「うーん」
千佳は首をひねった。
万が一、また地獄のゲートが開くようなことがあった場合、普段から呼んでいては、名前の効果が薄れたりしないだろうか。
「渡辺くんは、渡辺くんかな」
「ざまあ!」
あすかと呼びかけたときより嬉しそうだ。一体なぜそんなにも対抗意識を燃やしているのか。そしてなぜ渡辺は傾いでいるのか。よく分からないがちょっと面白い。
千佳は笑ったのだが、なぜか村上に心配そうにのぞき込まれた。
「千佳ちゃん、なんか元気ないね? また渡辺に変なことされた?」
「またって。あすか、渡辺くんのこと誤解してない?」
「え? してないよ。千佳ちゃんがカンヨウすぎるんだよ」
お互いに首を傾げあっていたら、マリ先輩が吹き出して、そのまま笑い転げた。先輩は少し笑い上戸なところがあると思う。
二週間が過ぎた。あれから外でも学校でも、亡者を見かけることはなかった。
本当に日常が戻ってきたんだなと、千佳はようやく実感した。
最近、登校時に渡辺とよく会う。
会ったのに離れて歩くのは変だと指摘され、何となく一緒に登校する流れになっている。
毎日一緒に登下校などしていては、付き合ってる云々でからかわれそうなものだが、不思議なくらい何も言われない。なので渡辺が、何かしたのではないかと疑っている。
辟易するような暑さが数日続き、夏休みがそこまで迫っていた。
いつの間にか、野球部を引退していた知宏先輩が、部室でマリ先輩と机を並べて受験勉強するようになっていた。
一年生と村上がちょっとはしゃいでいる。
渡辺は嫌がるかと思ったが、あっさりと「前例があれば自分たちのときも利用できる」と受け入れた。
会話をしても、図書館のようにうるさく言われないし、程よく集中できるらしかった。
「千佳はかたくなだよね」
帰り道、渡辺が唐突にそう言ったので、千佳はちょっと身構えた。何がと問い返すことはしなかった。渡辺の視線の先に何があるのか、千佳には痛いほどわかっていたから。
そこは、仁也と初めて会った場所だ。通りかかるたびに見上げてしまうのが嫌で、いつも早足に通り過ぎている。
「渡辺くん家そっちだよ。すぎちゃうよ?」
渡辺は曲がるべき場所で立ち去らず、よりによって公園の前で立ち止まった。
しかもわざわざ千佳の進行を邪魔する形で立つ。
「渡辺くん、背、伸びた? 男の子の成長はすごいね~。――痛っ」
軽く頭を小突かれた。
「やめて。男の子とか、し――成長期とか言われると寒気がする」
今、思春期と言いかけた。その言葉は彼のトラウマを刺激するらしい。
「うちの窓から、この公園が見えるんだ」
「うん」
渡辺は千佳の手を引いて、狭い公園に踏み入った。
木があって、ベンチがあるだけの最低限の公園だ。少し歩いただけで、端にたどり着いてしまう。
「なに? どうしたの?」
「地獄のゲート、開けないかなって思って」
「またあのへんてこな踊りを見たいの!?」
「いや、ごめんだけど。たださ、この辺にあいつらの出入り口があるっぽいんだよな。もうすでに存在しているゲートを開くんなら、ありだろ」
「なしだよ! なんだって急にそんなこと言いだすの」
「急にじゃないよ。あの日からずっと考えてた。会いたいんだろ? あいつに」
千佳は慌てて首を振った。
「そんなこと――」
「あるだろ」
「ないよ」
「だったらなんでそんな顔してるんだよ」
「そんな顔?」
「君は……、あいつに会う前に、戻ったみたいだ。うつむいて、感情を殺して、平気なふりしてる」
「ふりだなんて」
「上でさえ気づくんだ。僕が気づかないと思う? ……ずっと、見てきたんだから」
「……そっか、ごめん。心配かけてたんだね。渡辺くんにも、あすかたちにも」
「謝ってほしいわけじゃない」
「ごめん。だけど、ゲートを開くなんて、言うのはやめて。渡辺くんにまで、会えなくなるのは嫌だから」
渡辺は何か言いかけて、首に手をやり、結局口を閉ざした。そしてそのまま背を向けた。
「帰るの?」
「うん。また来週」
渡辺は、振り返らずに手だけを振って去っていった。少し、落ち込んでいるみたいに見えた。
その週の土曜日は、朝から蒸し暑く、勉強も読書も集中力が続かず、千佳は机の引き出しから練り香水を取り出した。
仁也たちが来なくなってから、出番のなくなった練り香水は、底の方に、わずかに残るだけになっていた。
使い切ってしまおうか、と思い立つ。
村上からもらったハンドクリームはすでに使い切った。夏にチョコレートの匂いは暑苦しいからと、みんなでレモンの香りのものを新しく買った。
この練り香水も使い切って、捨ててしまおう。
さっきまで読んでいた本に、金木犀は秋の花だと載っていた。
もともとこの辺りでは咲かない花だから、あまり気に留めていなかったが、季節感がちぐはぐだったんだなと嫌になった。
それでも、すでに懐かしいと感じる香りを嗅いでいたら、ほろりと涙が零れ落ちた。
指の先でそっと拭って、千佳は目を閉じた。
このまま、泣いてしまおうか。
泣いて、薄めて、忘れ去ってしまおう。
そう思った矢先のことだった。
「千佳?」
窓の外から、遠慮がちに声をかけられた。
まず、目を開けた。信じられなくて、そのまま三秒ほどそうして、次に振り向いた。
窓枠からそっとこちらを覗き込む、仁也の姿があった。
「泣いてるの?」
とまどうようにそう言って、仁也は千佳の部屋に入ってきた。
「仁也、もう、会えないかと思った」
「うん。弥枝はそうするつもりだったみたいだな。ちょっと、妨害された」
「妨害、それで、来られなかったの?」
「いや、それだけじゃない。ちょっと、人殴って謹慎くらってた」
「なぐっ」
予想外にやんちゃな理由だった。
「なんで、殴っちゃったの」
「それは言えない」
仁也はきっぱりと言ってから、眉を寄せた。
「遅くなってごめん。ようやくこれた。千佳にはどうしても、会ってお礼を言いたかったんだ」
「お礼?」
「うん。形式的には、これまでの協力に感謝しますって言うやつだけど……、でもそれより」
仁也はそっと千佳の手を取った。
「千佳、ありがとう。千佳のおかげで助かった。色々迷惑もかけちゃったけど、俺も、千佳と話すの楽しかったよ」
形式ではなく、仁也の素直な言葉で、心の底から言ってくれているのだと思った。
だから千佳も素直になった。
「仁也、来てくれてありがとう。嬉しい。もう会えないと思ってたから、寂しかったし正直ちょっと恨んだ。忘れてしまおうとも思った」
「……それは困る」
「困るの?」
「だって千佳、これが今生の別れじゃないよ?」
「え? どういうこと?」
「壁の修理は念入りにしたけど、死者は毎日やってくるし、地獄はすでにパンクしてる。穴はまた開くよ。そうなったときに、千佳にはまた香りを提供して欲しいんだ」
仁也があっさりそういうので、千佳は笑い出したくなった。
さんざん悩んだのに。なんなの、と。
「それが一年先か十年先かは分からないけど、そう遠くないうちに千佳にはまた会うことになるよ」
「一年と十年じゃだいぶ違うと思うけど……。だいたい、十年たったら、あたしすっかり大人になっちゃうよ」
「うん。千佳はきっと、きれいになるよ」
「そう?」
「請け負う」
仁也がそう言ってくれたので、千佳はちょっと嬉しかった。くすくすと笑いあう。
「ねえ、仁也は?」
「ん?」
「十年後の仁也」
「俺はあんまり、変わらないと思うよ」
「じゃあ十年後も、あの弥枝さんて人にショタショタ言われてるんだ」
「うっ」
仁也は顔をひきつらせた。
「そ、そう言えば弥枝にひどいことされなかった?」
「あたしより、渡辺くんが被害を受けてた」
「それはどうでもいいや」
「扱いひど」
まあ、分かってたことだけど。
「あ、もう行かなきゃ。さっきも言ったけど、来るとき弥枝に妨害されてさ。青鬼と赤鬼にだいぶ助けてもらったんだけど、千佳あいつらに何かした? ずいぶん協力的だったけど」
「何かというほどのことは、してないと思うけど」
床に吐き捨てられたとき、拾ってあげたくらいだろうか。
「今もちょっと頑張ってくれてるけど、限界っぽいから」
「そうなの。じゃあ、早く行ってあげて」
「うん。あ、ちょっと待って。さっきから気になってたんだけど」
何が、と聞きかけた千佳の頬に、仁也が軽くキスをした。
驚いて頬に手をやる千佳を見て、仁也はいたずらっぽく笑った。
「変なところに香りがついてるから」
「なっ!」
さっき、涙を拭いたとき、指先に残っていた練り香水でもついたのだろうか。
これはたぶん、ショタ呼ばわりしたことの意趣返しだ。
「ごちそうさま!」
憎らしいほどさわやかな笑みを浮かべて、仁也は窓から飛び出していった。
慌てて窓辺に駆け寄っても、もう姿は見えなかった。




