エピローグ
仁也に会えた。
だけど、会えてうれしいだけじゃ収まらなかった。このことを伝えたかった。心配かけてごめんと謝りたかった。真っ先に浮かんだのは渡辺の顔だった。もっとも、仁也の話をできるのは彼以外いないのだけど。
時計を見ると、もうすぐ十九時になるところだった。
クローゼットを開けて、服を取り出す。ちょうど走りやすそうなやつをこの間買ったばかりだ。
いてもたってもいられなくなって、大急ぎで着替えて外へ飛び出した。
塾の階段を下りてくる渡辺の姿を発見して、千佳は声をかけた。
「渡辺くん!」
「千佳っ!? どうしたのこんな時間に」
渡辺が慌てたように階段を駆け下りてくる。
「仁也に会えた! それだけ言いたくて、この時間なら塾かもって思って。……ごめん、迷惑だった?」
「迷惑ではないけど、危ないからあんまり夜フラフラ出歩かないで。しかもそんな薄着で」
睨まれてしまったが、薄着、というほどのものだろうか。このあいだ、村上たちと一緒に買い物に出かけたときに選んだショートパンツとスニーカーで、上はTシャツだから、山下や中田の格好に比べれば、おとなしい方だと思う。
まあいつも履いているスカートに比べれば、確かに丈は短いが。格段に走りやすかった。
自分の格好を見下ろして首を傾げていると、渡辺がため息をついた。
「送ってく」
「え? いいよ。まだ十九時だし、遠回りになっちゃうし」
「いいから」
何やら怒っているようなので、おとなしく従っておく。
渡辺はしばらく無言で歩いた。スーパーの前を過ぎ、横断歩道に差し掛かったあたりで、ようやく口を開く。
「で? 話はできたの。あいつと」
「聞いてくれるの?」
「状況は把握しておきたいから」
「理由が、なんか」
「で?」
「はい。あの、お話しできました」
「何で敬語」
怒っていると思ったからだが、それを言うより、さっさと話してしまうことにする。
「仁也ね、また会おうって言ってくれた」
「あいつまた来んの? まあ、そんなことじゃないかと思ったけど」
「うん。一年後か、十年後か分からないけど。壁がまた壊れて、亡者が人間界に逃げ出したら、また香りを提供して欲しいって、言ってくれた。渡辺くん――?」
信号が青になったのに、渡辺はうつむいて歩きださなかった。
青信号が赤になってようやく、彼は顔を上げたけど、そっぽを向いていた。
「いや、悔しいなって思って」
「何が?」
「千佳が元気になって嬉しいけど。久しぶりにそんな笑顔見たけど、でもやっぱ……」
渡辺は急に「ああああああっー!」と叫んだ。そんなに大きな声ではなかったけど。驚いた。
車が何台も行きかって、再び青になると、彼は「悔しい」と呟きながら歩きだした。
千佳も横に並ぶ。
「結局君を変えるのは、いつだってあのガキなんだよな」
そんな風に言われて、千佳は考え込んだ。
横断歩道を渡り切って、夏祭りの日、亡者が佇んでいた生垣の脇を抜けて、街灯の前で千佳は足を止めた。
「そうでもないよ」
渡辺が、なんとも心もとない顔で千佳を見るので、思わず笑った。
「前にね、マリ先輩がおばあさん亡くして落ち込んでた時、渡辺くんが言ったじゃない。何かしないのって」
「ああ、言ったね」
「あの時、あたし思ったの。あたしに何ができるんだろうって。仁也のことはきっかけの一つだったかもしれない。だけど渡辺くんのあの一言がなかったら、あたし、あの時何もしなかった。うつむいて、本だけ読んで、マリ先輩のことだけ盲目的に信じて、あすかたちの好意にもきっと気づかなかった。あたしが変わったとすれば、変えたとすれば、それは渡辺くんなんだよね」
渡辺が急にふらついた。二、三歩後ろに下がったかと思うと、後ろを向き、体を二つ折りにして顔を覆ってしまった。
「なに、具合悪いの!?」
「いや、ちがう。ちょっと待って」
待てと言われたので待つが、本当に大丈夫だろうか。
手のひらをこちらに向け、見るなのポーズをとられてしまったので、何となく視線を外す。
しばらくそうしていたら、渡辺は長く息を吐いて、呆れたようにつぶやいた。
「千佳は時々、ほんととんでもないな」
と、よく分からない感想を漏らす。
「えーと、続けていい」
「うん」
「どこまで話したっけ? だからね、渡辺くん。中学卒業までは、こうして話を聞いてくれると嬉しいなって」
「今の流れで、それ? 何で期間を限定したの?」
渡辺の機嫌が急降下したので、千佳はちょっと慌てた。
これ以上立ち止まっているのも何なので、歩きながら言った。
「だって高校は離れちゃうでしょう?」
「千佳、どこの高校行くつもりなの?」
千佳は家から一番近い、公立高校の名を告げた。
「なら問題ない。僕もそこ行くから」
「でも渡辺くん、この間、なんか忘れたけど賢い人が行くような高校勧められてなかった? 廊下で」
「千佳が覚えてられないくらいの学校なら、たいしたことないよ」
「さりげに馬鹿にしてない?」
「した」
悪びれなくそう言われ、千佳はちょっと口を尖らせた。
「物わかりが悪すぎるからだよ。まだ逃げられると思ってるんだもんな」
「うえ?」
「村上みたいな声出すなよ」
「ああ、なんか癖になるよね。あすかのあれ。うえええって」
「やめろって」
渡辺が本気で嫌そうにするのが、ちょっと面白い。
千佳の家まであと少しというところで、千佳はカバンを漁った。
「そうだ渡辺くん。これあげる。話聞いてくれたお礼。コンビニ行ってくるって言ったから、手ぶらで帰るのもなんだな、と思って買ったんだけど、あたしコーラ飲まないし」
「それだと、結局手ぶらで帰る羽目になるけど」
「は、確かに!」
「千佳って時々馬鹿だよな」
渡辺は笑ったが、嫌味な感じではなく、楽しそうだったので馬鹿と言われても許すことにした。
「ところで、さっきから頬を気にしてるけど、どうしたの? 虫にでも刺された?」
「え!?」
完全に無意識だった。
仁也に、香りを食べられたところ。そんなはずはないのに、まだ感触が残っている気がして無意識に触れていたらしい。
千佳は慌てて、頬から手を離した。その手を後ろで組んで、渡辺から目をそらす。
「な、なんでもない」
「さっきまで、あのガキといて、それで頬を気にしてるってことは」
「やめて、分析しないで!」
「キスでもされた?」
「ち、違うって! だからっ」
「ああ。食べただけ?」
不意に優しい声色になって、ちょっと頷きそうになったけどこれは罠だ。さすがに千佳にも分かった。
「の、ノーコメントで!」
「よし、頬をさしだせ」
「いや。ダメダメ。せめて、こっちでお願いします」
反対の頬を差し出してぎゅっと目をつぶる。
だが、いつまでたっても反応がないので恐る恐る目を開けると、渡辺が顔を押さえて沈黙していた。
「……自分のやってること、意味わかってる?」
「え、あ、……ん?」
何度目かの長いため息をついて、渡辺は千佳に手を差し出した。
「それ、ちょうだい」
千佳が渡辺にペットボトルを渡すと、彼はそれを額に当てた。
ほっとして気を抜いたら、その隙に指で頬を拭われた。
「今日はこの辺で勘弁してやる!」
捨て台詞みたいな言葉を残して、渡辺は千佳に背を向けた。
「あ、送ってくれてありがとう」
慌てて礼を告げると、彼はちらっとこちらを見た。早く入れよという様に、玄関を指さす。
笑って頷いて、千佳は家に帰った。
―― 完 ――




