いやなにおい
渡辺はふっと息をはき、気を取り直した。
そして、先ほどまでとは打って変わって、饒舌に語りだした。
「僕はさ、彼らと話がしてみたいんだ。見えるのに、こんなにはっきり見えるのに、彼らは呼びかけても知らんぷりだ。他の人に見えないなら、ずっと、あれは僕の妄想なのかと思ってた。でも、君が――」
と、渡辺はそこで一度言葉を詰まらせた。
「君は、彼らが見えるんだろ。そして、話すことさえして見せた。僕も、彼らと話がしたいんだ」
これは、間違いなく彼の本心で、彼の叫びなんだと千佳は感じた。
前髪の間からちらりと覗く彼の目は熱を帯びていて、真っすぐで、見つめ返すのがつらいほどだった。
「君にしか、こんなこと頼めない。君意外、僕のことを分かってくれる人はいない」
「だめ、だよ……、渡辺くん。死者に興味を持っちゃいけない。あたしたちが考えるべきは、生きてる人のことで、あの世の存在に興味を持つことは……」
しゃべりながら千佳は、仁也のことを思った。
この言葉は、丸ごと自分に返ってくる。
会いたいと思うこと、触れたいと思うこと、仁也と話がしたいと思うこと。それらは全て――
「いけないことだよ」
全身から力が、抜けるようだった。
「平行線だね」
渡辺は飲みかけのコップを片付けて、千佳に手を差し伸べた。
「立てる? 送ってくよ」
千佳は彼の手を取らなかったが、足元が下駄だということを忘れて、少しふらついた。
「わ――っと、ありがとう」
渡辺が、とっさに両肩を支えてくれたので転ぶことはなかったが、礼を言ったのに離してくれない。
不審に思って振り向こうとしたら、パッと手を離された。
渡辺は、もうこっちを見ていない。
いくつかあるスーパーの出口のうち、渡辺は迷うことなく、千佳がよく使う出口に向かった。
「あの、送ってくれなくていいよ。ここで平気」
「もう暗いから」
「渡辺くんに家を知られる方が、怖い気がするんだけど」
「家くらい当然押さえてあるよ」
当然なのか。
渡辺に、譲る気はなさそうだった。ここで押し問答するよりは、妥協点を探す方が早い。
「……な、なら、そこの信号のところまで」
異変があったのは、信号機を渡り終えてすぐのことだった。
生垣の陰に、亡者が立っていた。
「あ!」
と声を立てて、渡辺が亡者のもとへ駆け寄ろうとした。
「ちょっ」
千佳は慌てて、渡辺の袖を引っぱるが、彼は止まらなかった。
けれど亡者は、走り寄る渡辺には構わずに、くるりと千佳の方を向いた。
千佳は声にならない悲鳴を上げた。
いつもは固く閉じているはずの亡者の瞳が、うっすらと開いているように見えた。
亡者は渡辺の横をすり抜け、真っすぐ千佳の方へやってくる。
とっさに身をひるがえして逃げた。けれど千佳は浴衣姿で、足元は下駄だ。いつものようには走れない。
そしてこの亡者は、目を開けているせいだろうか、これまで見かけた亡者よりも早い。
逃げきれないかもしれない。
必死で走っても、距離は縮まるばかりだ。
亡者に憑りつかれたところで、体の調子が少し悪くなる程度だと、仁也は言っていた。
それを聞いていてなお、まだ恐ろしいと感じてしまう。
仁也を呼ばなきゃと思うのに、声が出ない。
亡者の指が千佳の肩にかかる。
恐怖のあまり、バランスを崩した。
ドサッと倒れ込みそうになるのを何かに支えられた。千佳を支えたのは、たくましい青い腕で、驚いて見上げると困った顔をした青鬼と目が合った。
「青鬼! そのまま千佳を連れてちょっと下がってて!」
馴染みのある仁也の声に思わず、彼の姿を探した。
「あちらです」
青鬼が、長い爪で亡者の方を示す。
ちょうど、笠をかぶった仁也が、飛び上がって亡者の顔面に蹴りを叩きこむところだった。
千佳は身をすくめたが、亡者は、身じろぎ一つしなかった。
仁也はすぐに亡者から距離を取った。
「赤鬼! 思いっきりやれ!」
仁也の指示で、レモンサイズだった赤鬼が、みるまに大鬼になった。
細マッチョの青鬼とは違い、まあるい腹と丸太みたいな筋肉の持ち主で、やはりパンイチだった。
赤鬼が、二メートルはありそうな金棒を亡者の頭に叩き込む。
脳天にめり込んだ気がして、千佳は思わずひえっと情けない悲鳴を上げて、青鬼にしがみついた。
「まだだっ!」
鋭い声を上げたあと、ちらりと仁也がこちらを見た気がして、千佳はハッと青鬼を見上げた。
「青鬼さん、仕事があるんじゃ! ああああたしのことはいいから!」
「そのように、震えながらおっしゃられても……。それに、もう終わります」
仁也は、腰のベルトポーチから、お札のようなものを取り出した。亡者はそれに気づいたのか、手を振り回して抗おうとした。
仁也はひらりと飛び上がった。亡者の頭に着地すると、しゃがみこんで、お札を額にはりつけた。意外と余裕があるようだ。
お札の効果か、亡者は少し大人しくなった。
その隙を逃さず、仁也は腕から数珠のようなものを外し、亡者をぎりりと縛り上げた。
「青鬼! 赤鬼!」
仁也の声に応じて、いつの間にか小さくなった青鬼と赤鬼が、亡者めがけてすっ飛んでいく。
彼らは亡者の周りをくるくると回り、その軌跡が檻となり、亡者を閉じ込める。赤鬼がその檻を、小さな体に器用に乗せ、どこかへ飛んでいった。
仁也はそれを確認すると、千佳の名を呼びながら、こちらへ駆け寄ってきた。
仁也を追うようにして、渡辺も駆け寄る姿勢を見せた。
「河原さんっ!」
「寄るな!」
仁也は、渡辺に対して牽制するように、戦う構えを取った。千佳はぎょっとして止めに入る。
「よ、仁也? あの人一応、あたしのクラスメイトだから」
「クラスメイト?」
仁也は渡辺を睨んだ。
「ああ、なんだ人間か」
「……え?」
「何でもない。行こう千佳」
「あ、うん。渡辺くん、それじゃあここで……」
仁也に手を引っ張られ、千佳は慌ててそれだけ告げる。
暗がりにポツンと佇む渡辺が、どんな顔をしていたのか、長い前髪に阻まれて分からなかった。
仁也に手を引かれて歩きながら、千佳は少しぼんやりしていた。
色々ありすぎてくたくただった。
走ったせいで髪も乱れてしまったし、汗だくだった。
千佳がため息を押し殺すと、仁也がゆっくりと立ちどまった。少し気まずそうに振り返る。
「ごめん、ちょっと早かった?」
それから仁也は、初めて千佳の格好に気が付いたように、上から下まで見た。
「その浴衣、良く似合ってる」
不意打ちに照れかけて、千佳ははっと気が付いた。
「こんな暗くて見えるの?」
「明るいより良く見える」
「そ、そうなんだ」
今度こそ、ため息をこらえられなかった。
「もう少し、ヨレヨレになる前に見て欲しかった」
思わずこぼれた本音に、仁也は笑い交じりに「ごめん」と言った。
やはり、ひどい格好のようだ。
それからは、しばらく黙って歩いた。そして千佳の家を目前にして、仁也は再び口を開く。
「千佳、さっきのあいつだけど」
仁也の声は、いつもよりもずっと暗かった。
それに驚いて、千佳は恐る恐る聞き返す。
「渡辺くん?」
「……関わらない方がいい。あいつから、いやなにおいがする」




