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ハンドクリーム

「あ、千佳ちゃん、それ使ってくれてるんだあ!」


 カバンから教科書を取り出した拍子に、ころりと転がったハンドクリームを目ざとく見つけ、村上が華やいだ声を上げた。


「あ、うん」

 頷きながら、千佳はヒヤリとした。

 ハンドクリーム、特に香りの強いものは中学校に持ち込むものとしてはグレーゾーンなのではと、千佳自身が感じてしまうからだった。


 けれど村上たちにとってはそうでもないらしい。

「どうだった? 使ってみて。肌荒れない?」

 と、サイドテールを整えながら山下が尋ねてきた。


「うん。大丈夫そう」

「香りは? 好き嫌いあるから、あすかには確認してからにすればって、言ったんだけど」

「え? チョコ嫌いな人いるかな!?」

 と、中田が気遣いを見せ、村上は大げさに驚いた。


「あたしも好きだよ。チョコの香り」

「よかったあ」

 と、村上が大げさに胸をなでおろすのを横目に、見つつ、千佳の思考はちょっとそれる。


 それに――。

 昨日、仁也に味見をしてもらったとき「おいしい」って言ってたし。

 千佳は少し、昨日のことを思いだしていた。


   ◇

 夏祭りの後、仁也に玄関先まで送ってもらったあと、彼はもう一度夜に来ることを約束して去っていった。

 仁也が来たのは千佳がすっかり寝る準備を済ませたころで、遠慮がちに部屋に入ってきた。


「仁也、時間ある? 少し話せない?」

 仁也が頷いたので千佳はベッドに腰かけ、隣に仁也を誘った。

「座って」


 しかし、仁也は落ち着かなげにあたりに視線を走らせ座ろうとしない。千佳が左隣をポンポンと叩いて示すと、ようやく諦めたようだ。仁也は千佳の隣に座った。



「渡辺くんのことだけど……」

 仁也は続きを促すように千佳を真っすぐ見つめた。

「本当はあたし、彼に、仁也を紹介してって言われてたの」


「――っ! なんで、そんな大事なこと黙ってたんだ」

「仁也が来ないから」

「あ……、でも、一彦たちが」


「雪永って人はできれば話もしたくないし、一彦さんはその、ほら……、あたし緊張しちゃうし」

 一彦の色香は、千佳にはちょっと刺激が強すぎる。

「……千佳までそんな」

 と、仁也がちょっとすねたようにそっぽを向いた。


 見た目だけなら十歳くらいの仁也が、そういう顔をすると、これはこれで可愛い。

 こっそり観賞していたら、仁也はくるりと振り返った。


「言っておくけど、一彦と俺なら、たぶん俺の方が年上だからな! 子供のころ、俺とだいたい同じくらいだったし、雪永なんて赤ん坊だったんだからな!」

「……地獄って、赤ちゃん生まれるの?」


「言わなかったっけ? 生きている限り、生老病死からは逃れられないって」

 生きている限りか。仁也には仁也の家族があり、暮らしがあるということだろう。胸がチクリと痛んだ。

 それをごまかすように、千佳は仁也に笑いかけた。


「仁也の話す地獄って、楽しそうだよね」

「地獄で生きるから不幸になるわけじゃない。天道にいるから安泰なわけでもない」

「天道? 天国のこと?」

「天道は天道だよ。天国はまた管轄が違う。天の獄という意味ならば、まあ頷けるけど」


 と、そこで仁也は急に声のトーンを落とした。

「――そして、人間として暮らしながら、地獄に近づきすぎるものもいる」


「それが、渡辺くんだっていうの?」

「ああ。あいつからは、そういうにおいがした」



 千佳は内心、ちょっと首を傾げた。

 別に仁也を疑うわけではないが、どうにもピンとこなかった。

 千佳にとっては、渡辺は、おとなしい部類の男の子だ。


 そりゃ、不愉快なことをされたこともある。発言にちょっと毒があるとか、目つきが怖いとか、気に障るようなあだ名をつけたりもする。

 けれど、そこまで悪い人だとも思えない。

 だから、千佳はあいまいに頷いた。


「渡辺くんは、仁也や亡者に興味があるみたいなの。話がしてみたいんだって」

「話?」

「うん。見えるのに、知らんぷりされるのが嫌だって」

「そりゃ、あんなの、俺だって関わりたくない。ああいうのは、亡者よりもたちが悪い。人間だから、俺たちとしても手が出せないし」


「そう、なんだ。……気を付けてね」

「いや気を付けなきゃいけないのは千佳のほうだよ!!」


「うーん。でも。あたしが渡辺くんに近づかないようにするのは、無理だよ。クラス一緒だし、班も一緒だし。部活までいっしょなんだよ? あたしは部活やめる気はないし、彼に辞めろという権利もない」

 千佳がきっぱりと言い放つと、仁也は困ったように眉を寄せ、それから何か考え込んだ。

「なら、ならせめて……。学校にも香りのするものを持っていけないかな。俺たちはちょっと、学校には入りづらいんだけど……」


「え? うちの学校何かあるの!?」

「いや、千佳の学校というか、学校そのものの仕組みというか、あり方というか」

「亡者は入ってたけど?」

「まあ、亡者は浮いてるから。いや、そうじゃなくて! その練り香水、持ち歩けないか」


「さすがに学校に持っていくのは。ハンドクリームなら……、ギリギリかな。これ、貰いものだけど」

 千佳は一度立ち上がり、机の引き出しから、村上に貰ったハンドクリームを取り出した。

 それを持って仁也の隣に座り直す。


 手のひらに少し取り、ゆっくりと伸ばしていく。

 チョコレートの甘い香りが漂った。

 千佳は嫌いではないが、仁也はどうだろうか。


「これでもいい?」

 何気なく左手を掲げると、仁也は千佳の手首にそっと手を添えた。そしてそのまま、千佳の中指に唇を寄せた。

「うん。おいしい」


 と、いたって普通の顔で言われたのだが、千佳は顔から火を噴きそうだった。

「い、いきなり食べないでよ!」

「ん? 味見していいよってことじゃなかったのか?」

「そ、そうだけど! 心の準備とか!」


 恥ずかしさで、顔に手を持っていきかけて気が付いた。

「あれ? 本当に味見なんだ」

 いつもなら、仁也が食べた後の香りは全然残らないのに、今は、手の甲にチョコレートの香りが残っている。


「うん。舐めた程度」

 その単語に、過剰に反応したのは千佳だけで、仁也は相変わらずけろりとしている。

「さて、俺、もうそろそろ行かなきゃ」

 と、仁也が立ち上がり、大きく伸びをした。


 伸ばした手を頭の後ろにやり、彼はちらりと千佳を見下ろす。

「なんか、千佳にちゃんと伝わったのかどうか、ものすごく不安だけど……」

「ハンドクリームは持ち歩くことにする。それと、渡辺くんのことも一応気に掛けとく」


「一応……」

 仁也は、ちょっと目を据わらせて千佳を睨み、それから大げさにため息をついた。

 かと思うと、急に真面目な顔つきになって、千佳の両肩に手を置いた。


「千佳、約束して。亡者を見かけても、前みたいに無視するんだ。

 それでも、どうしても亡者の注意を向けてしまったときはすぐに俺を呼んで」


「地獄にいても、聞こえるの」

「……聞こえるよ」

 答えるまでにちょっと間があった。気にはなったが千佳が尋ねる前に仁也が圧をかけてきた。


「で、約束してくれる?」

「……わかった。約束する」

 なるべく。

 心の中で付け足したのがバレたのだろうか、仁也はちょっと不服そうにこちらを見て、やがて諦めて去っていった。


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