4話 フィルとの再会
商会に足を運ぶのは、実に何年ぶりだろう。
「あっ、この匂い。懐かしいわ……」
前世の記憶にある商会の匂い。油と、微かに魔力を帯びた金属の匂いが鼻先をかすめた瞬間、リゼットの胸に懐かしさがこみ上げた。メルシエ商会の裏手にある工房は、リゼットが子供の頃からよく出入りしていた場所だった。しかし、伯爵家に嫁いでからは、実家の商会に立ち寄ることすら許されなかった。
「彼はどこかしら。あっ、あそこね!」
工房の奥。一番日当たりの悪い一角に、彼はいた。
机の上には分解された魔道具の部品が所狭しと並んでいる。その中心で、フィルは眼鏡を額に押し上げながら、小さな機械を睨みつけるように見つめていた。リゼットがすぐそばまで近づいていたというのに、彼はしばらくそのことに気づかなかった。
「フィル」
声をかけると、彼の肩がびくりと跳ねた。
癖のある黒髪はいつも通り無造作にまとめられ、あちこちがぴょんぴょんと跳ねている。分厚い眼鏡に隠れて表情までは分からないが、慌てたように身を起こした。
「あ……お嬢様! 申し訳ございません、お気づきせず……ああっ!」
そのせいで机の端に置いていた工具を落とし、それを拾おうとしてまた別の部品を倒しかける。
その一連の動きに、リゼットは思わず小さく笑ってしまった。
「そのままでいいわ。その……今日は、少し頼みたいことがあって来たの」
「頼み、ですか……僕に?」
フィルは意外そうな顔をした。
無理もない。前世を含めても、リゼットが彼にお節介を焼くことはあっても、何かを頼んだことなど、これまでほとんどなかったはずだ。
「魔導具の中に、遠くの様子を記録したり、証跡を残せるようなものはある? 確か以前、商会の在庫管理のために、そういったものを開発していたと聞いたことがあるのだけれど……」
フィルの表情が、わずかに引き締まった。
「記録用の魔道具でしたら、いくつか。……ただ、用途によって精度も範囲も変わってきます。具体的に、何を記録するつもりですか?」
リゼットは一瞬迷ったが、すべてを話すつもりはなかった。
フィルに話すには、あまりにも私的なことだったからだ。
「その、詳しいことはお話しできないの……。ただ……ある人物が、いつどこで誰と会っていたか、動かぬ形で残せるものが欲しいのよ。できれば、遠くからでも」
「……そうですか」
フィルは、それ以上何も聞かなかった。
ただ静かに頷くと、机の引き出しから手のひら大の水晶を取り出し、リゼットの前へそっと差し出した。
「これは“記憶水晶”の試作品です。魔力を通せば、見た光景を数分間だけ記録できます。まだ改良中ですが……ただ、起動に必要な魔力量が多く、魔導士並みの魔力がないと扱えないんです」
「まあ……そうなの」
リゼットは、ほとんど魔力を持っていない。つまり、この水晶をリゼット一人で扱うことはできないということだ。
思わず肩を落としそうになる。せっかく糸口を見つけたと思ったのに、これでは振り出しに戻ってしまう。
「では、これは使えないのね……」
縋るような声が、思わず漏れた。
「いえ」
フィルは水晶を握った手を、そっと自分の胸元に引き寄せた。
「僕が、お嬢様の代わりに起動させます」
「え?」
「精度を保つためにも、そのほうが確実ですから」
さらりと告げられた言葉に、リゼットは一瞬、返す言葉を失った。それはつまり、密会の現場に、フィル自身が同行するということだ。
「でも、それではあなたにも危険が及ぶかもしれないわ」
「危険、ですか? それなら、尚更です」
フィルはまっすぐにリゼットを見据えた。その声には、迷いの色が一切なかった。
「魔力を扱えるのが僕しかいない以上、僕が行かなければ、その計画自体が成り立ちません。それに――危険があるなら、お嬢様一人にそんなことさせられませんよ」
その真っ直ぐな言葉に、リゼットはしばし言葉を失った。
ここまで踏み込んで力を貸すというのなら、もう誤魔化す訳にはいかない。
「……分かった。ちゃんと話すわ」
リゼットは一度、深く息を吸った。
「エドガー様には、わたしという婚約者がありながら想いを寄せている女性がいるみたいなの。名前は、セシリア。わたしの……親友よ」
フィルの眉が、わずかに動いた。
「ふたりは、人目を忍んで会っている。おそらく今も。わたしはその現場を、誰の目にも動かしようのない証拠として残したいの。婚約破棄をするにも、慰謝料を求めるにも、私の証言だけでは足りない。……エドガー様本人にも、言い逃れをさせないだけのものが要るの」
「……どうして、そこまで確信をお持ちなんですか」
フィルが訊ねる。詮索というより、純粋な疑問のようだった。
リゼットは一瞬、答えに詰まった。前世で見たのだと言ったところで、信じてもらえないだろう。
「……勘、みたいなものだと思って! 女の勘は、案外馬鹿にできないものなんだから!」
「分かりました」
我ながら苦しい誤魔化しだと思ったが、フィルはあっさりと納得した。
「勘であろうとなかろうと、お嬢様が確信を持っておられるのなら、僕はそれを信じます」
その言葉に、リゼットは思わず目を瞬かせた。
「……信じてくれるの?」
「勿論ですよ」
フィルは水晶を大切そうに手の中で転がしながら、静かに続けた。
「……お嬢様が、思いつきや我儘で誰かを困らせるような方ではいと……知っています、から。今こうして僕に頼むということは、それだけの理由があるということでしょう。それで……十分ですよ」
飾り気のない、けれど揺るぎのない信頼の言葉だった。胸の奥が、じんと熱くなる。
「……ありがとう、フィル」
込み上げるものを堪えながら、リゼットはようやくそれだけを口にした。
「日時が決まったら、すぐに知らせるわ。準備をお願いできる?」
「ええ、もちろん」
フィルは水晶を丁寧に布にくるみ、引き出しの奥へとしまった。
「くれぐれも、お一人で先走らないでくださいね。危険な役目は、僕が引き受けますから」
「でもね、あなたに危ない思いをさせるつもりはないわ。そんなことまで、フィルに頼れないもの」
「いいえ」
フィルは穏やかに首を横に振った。
いつもの頼りなげな雰囲気は、そこにはなかった。まっすぐな声ではっきりと言う。
「頼ってください。……お嬢様のためなら、なんでもしますよ」
リゼットは、今度こそ言葉を失った。
(――あら?)
胸の内に、戸惑いが浮かぶ。目の前にいるのは、本当にわたしの知っているフィルなのだろうか。
工房では髪を跳ねさせ、眼鏡をずり下げながら魔導具に夢中になっている。話しかけても、どこかおどおどしていて、頼りなげに見えることさえある。
そんな彼が、今はまるで別人のように見えた。
揺るぎのない信頼。
そして、自分のためなら何でもすると言い切るほどの想いが伝わってきた。
婚約者であるエドガーの甘い言葉とは違って、フィルの言葉には飾り気がなかった。
そこには、嘘も打算もないように感じられる。
口先で安心させるのではなく、必要なときには自分が危険を引き受ける。何があってもわたしを信じると、まるで当然のことのように言ってくれる。
(……こんな顔をする人だったのね。)
知らなかった一面を見たような気がして、リゼットは少しだけ戸惑った。
「……あ、ありがとう」
ようやく、それだけを口にする。それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
フィルは目を細めて柔らかく笑んだ。
「はい」
その短い返事が、なぜだか心に残った。
工房を出る頃には、陽はもう沈みかけていた。これから始まる、長く険しい戦いを思うと胸の内は重い。けれど、味方が一人でもいるという事実は、思っていた以上に心強かった。
いよいよヒーローの登場です!
ほぼ執筆済、毎日1話投稿します! 全20話、6万文字の予定です。
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