3話 父との交渉
そうこう考え事をしているうちに、書斎の前に着いた。
控えめに扉をノックする。
「お父様? お話しがあるのですが、よろしいですか?」
「ああ、いいぞ。入っておいで」
父――ロベルト・メルシエ男爵の書斎は、リゼットが子供の頃から変わっていなかった。壁一面を埋める書棚には、領地の帳簿や古い契約書がぎっしりと並んでいる。
窓際の机に向かっていた父は、白髪の交じり始めた髪を几帳面に撫でつけ、いつものように背筋を伸ばして書類に目を通していた。
「リゼット? どうしたんだい、なにか用かい」
父が顔を上げる。
年齢を重ねてもなお衰えない眼光は、商人たちの間では「メルシエ男爵の目には嘘が通じない」と噂されるほどだったが、娘の前ではいつも穏やかに緩んだ。
「お父様にご相談があって……」
「相談?」
父は眼鏡を外し、指先でこめかみを揉みながら、娘の顔をまじまじと見つめた。昨日、婚約発表を終えたばかりの娘が、こんなにも硬い表情で書斎を訪ねてくるとは、思ってもいなかったのだろう。
その目には、戸惑いと、隠しきれない父親らしい心配の色が浮かんでいた。
「お父様、単刀直入に言うわ。エドガー様との婚約はお受けしましたが、支度金と伯爵家の事業への援助は、しばらくのあいだ待っていただきたいの……」
一瞬、部屋の空気が止まった。
「……一体、どういうことだ? 確かに伯爵家からは、援助してほしいと打診があったが……」
父はリゼットを見る。
娘を値踏みするような、けれど同時に何かを探るような視線だった。伊達に商会を成長させ、一代で莫大な財を築いた男ではない。
「はい。支度金は、式の日取りが決まってから。援助については、結婚した後からにしていただきたいのです」
父の眉間に深い皺が刻まれた。指を組み、その上に顎を乗せる。
「……リゼット。エドガー君と何かあったのかい?」
その問いに、リゼットは一瞬だけ言葉に詰まった。
すべてを話すことはできない。前世の記憶を、殺された記憶を、どう説明したところで信じてもらえるはずがなかったからだ。
「いえ、何かあったわけではないの。……ただ、確かめたいだけです。婚約とは、互いを見極める期間でもあるはずよ。結婚してから後悔するよりは、今のうちに慎重になっておきたい。それだけのことです」
父はしばらく黙って娘を見つめていた。
その沈黙は長く、書斎の古びた振り子時計の音だけが、やけに大きく響いた。やがて父は椅子の背にもたれ、小さく息を吐いた。
「エドガー君と結婚できると、無邪気に喜んでいた娘の台詞とは思えないな」
「……」
父は目を細め、しばらくリゼットの表情を探るように見つめていたが、そこに嘘や気まぐれの色を見出せなかったのだろう。やがて、諦めにも似た、しかしどこか娘を信じるような笑みを浮かべた。
「……分かった。支度金と援助については、慎重にするとしよう」
そう言って、父は再び眼鏡をかけ直した。長年の商才と、娘への愛情との間で揺れる父の姿は、リゼットの記憶にあるものと少しも変わっていなかった。
***
書斎を出た後、リゼットは自室に戻り、改めて頭の中の手帳を開いた。今朝書き記した四つの目標を見つめながら、それぞれをどう実行に移すか、頭の中で組み立て直していく。
一つ目、婚約中の不貞の証拠を集めること。
これが最も重要であり、もっとも慎重を要する項目だった。
前世の記憶によれば、エドガーとセシリアは結婚後も、そして恐らくは結婚前から、密かに逢瀬を重ねていた。だが「知っている」という記憶だけでは、何の証拠にもならない。婚約を破棄するには、誰の目にも明らかな、動かぬ証拠が必要だった。
二つ目、財産と援助を渡さないこと。
これは先ほど父に頼んだ通りだ。結婚するまでは、と粘り続ければいい。婚約破棄に持ち込めれば、そもそも渡さずに済む。
三つ目、しかるべき場での公表。
これは証拠が揃ってからでなければ動けない。
四つ目、慰謝料の請求。
これもまた、証拠と婚約破棄が済んではじめて意味を持つ。
結局は、一つ目の証拠集めにかかっている。
前世の記憶を辿れば、エドガーとセシリアが密会していた場所には、いくつか心当たりがある。
王都郊外の別荘で会っていたか、あるいは夜会の合間に抜け出して密会していたのではないか――。
しかし、現場を押さえて問い詰めたところで、婚約破棄の証拠としては弱い。誰もが納得する、動かぬ証拠が必要だ。
リゼットの脳裏に、一人の男の姿が浮かんだ。
地味で不器用で、いつも隅にいるような、実家の商会で働く若い青年。身なりに無頓着なせいで、黒髪はいつも無造作に伸びたまま。
分厚い眼鏡のせいで、その瞳の色すら分からない。本来なら背は高いのだろうに、いつも猫背で身を縮めるようにしているせいか、実際よりずっと小柄に見える男だった。
「フィル……」
その名を、リゼットは久しぶりに口にした。
フィル。一世紀に一人の逸材と称される、天才魔導士。
彼は平民でありながら豊富な魔力を持ち、とりわけ魔道具の開発に優れた才能を発揮していた。メルシエ商会に勤める彼が生み出した魔道具は、商会の発展に大きく貢献し、今の財を築けたのも彼の功績によるところが大きい。
けれど、本人はそんな評価など気にする様子はなかった。
人付き合いが得意ではないらしく、いつも一人で工房の隅に籠もり、魔道具の開発に没頭している。商会の従業員や他の魔道具師とも交流はなかったが、リゼットとは多少なりとも言葉を交わす愛柄だった。
確か、彼の扱う魔道具の中には、遠見や記録に使えるものがあったはずだ。商会の警備や在庫管理のために開発しているものだと聞いた覚えがある。もしあれを借りることができれば、エドガーとセシリアの密会を、動かぬ証拠として残せるかもしれない。
「――そうよ。フィルを頼りましょう!」





