2話 エドガーとセシリア
夫だったエドガーと、親友だと信じていたセシリア。
一体、何処でなにを間違えたのか。
書斎へと向かう間、リゼットはあのふたりとの出会いを思い返していた。
***
リゼットの実家であるメルシエ家は、元々は貴族の家柄ではなかった。
祖父の代から手掛けていた交易業を、父ロベルトの代でさらに大きく発展させ、今では国の経済を支えるとまで言われるほどの商会に育て上げていた。その功績が認められ、メルシエ家が男爵位を授かったのは、リゼットが十五歳になる、ほんの少し前のことだった。
それまで平民だったリゼットに、社交界デビューの必要はなかった。だが、男爵令嬢となったことで、急遽社交界に出ることになったのだった。
成り上がりの男爵家。
社交界の一部では、そう陰口を叩かれることもあった。古くからの血筋を誇る貴族たちの中には、商売で財を成しただけの家柄を、内心で見下す者も少なくなかった。
そのせいもあって、初めて参加した夜会で、リゼットに声をかけてくる相手はほとんどいなかった。
着飾った令嬢たちが、それぞれの輪の中で楽しげに談笑するなか、リゼットはただひとり、壁際で所在なく立ち尽くしていた。
誰かに声をかける勇気もなく、かといってこの場から逃げ出すわけにもいかない。ただ居場所のない気まずさを耐えながら、じっと時間が過ぎるのを待つしかなかった。
そんなリゼットに、はじめて声をかけてくれたのが、セシリアだった。
「あら、あなた、もしかしてメルシエ男爵家の?」
振り返ると、そこには快活そうな令嬢が立っていた。
腰まである真っすぐな茶髪に、鮮やかな紫色の瞳。小柄なリゼットよりいくらか背が高く、すらりとした手足が印象的な、スタイルの良い女性だった。
「はじめまして。私、ハーヴェイ子爵家のセシリアよ。貴方のこと、噂で聞いていたわ。お父様の商会、とても評判なんですって?」
親し気に話しかけてくるセシリアに、リゼットは戸惑いながらも、ほっと胸を撫で下ろした。
「あ……ありがとうございます。リゼット・メルシエと申します」
「そんなに畏まらなくていいのよ。ねえ、せっかくだから、少しお話ししましょう。一人でいるの、寂しいでしょう?」
その言葉に、リゼットの胸の奥が、じんわりと温かくなったのを覚えている。
誰も気にかけてくれなかったなかで、セシリアだけがリゼットに話しかけてくれた。それだけで、どれほど救われたか分からない。
この日を境に、二人は急速に親しくなっていった。デビューしたばかりで右も左も分からないリゼットにとって、社交界に顔の利くセシリアは、頼れる案内人であり、なんでも話せる友人になった。
ある日、「いつもありがとう」と感謝を伝えると、セシリアは目を丸くして、それから悪戯っぽく笑った。
「あら、やだ。私たち、親友じゃない!」
親友。その響きを、リゼットは胸の中で何度も反芻した。嬉しさのあまり、頬が熱くなるのを隠せない。
血筋や家柄を超えて、自分を対等に見てくれる相手がいる。その事実は、慣れない社交界で心細さを抱えていた当時のリゼットにとって、なによりの支えだった。
***
エドガー・オルコット伯爵令息と出会ったのは、それからしばらく経った、別の夜会でのことだった。
「リゼット、紹介したい人がいるの」
セシリアに手を引かれて向かった先に、その青年は立っていた。
「彼はエドガー。私の大切な幼馴染なの」
「はじめまして、リゼット嬢。セシリアから、お噂はかねがね伺っています」
背は高く、すらりとした長身。陽の光を受けて柔らかく輝く金色の髪に、澄んだ青い瞳。整った眉やすっと通った鼻筋、端正な輪郭は、どこか気品を感じさせた。それでいて、冷たさを感じさせるような近寄りがたさはなく、口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
エドガーは、社交辞令を心得た紳士然とした態度で、リゼットに接した。
これまで平民として暮らしてきたリゼットにとって、こんなにも華やかで洗練された青年と向き合うのは初めてのことだった。
整った容姿も、堂々とした立ち姿も、自然に相手を気遣うような振る舞いも――何もかもが、自分の知らない世界のものに思える。
「……っ」
その眩しさに、リゼットは思わず頬を赤らめた。
「セリシアの……幼馴染、なのですね」
「ええ。家同士の付き合いが古くて、物心つく前から一緒なのよ」
セシリアが、どこか誇らしげにそう説明した。
幼い頃からの絆を思わせるその紹介に、リゼットは何の疑いも持たなかった。むしろ、大切な親友の、大切な幼馴染。それだけで、自然と好意的な目で見てしまっていた。
それに、新興の男爵家という出自を気にする様子もなく、対等な相手として接してくれる。その態度にも、リゼットは好感を抱いた。
「メルシエ男爵家のご令嬢とお会いできて、光栄です。お父上の商会のご活躍は、私の耳にも届いておりますよ」
「畏れ入ります……」
リゼットは少し照れながら頭を下げると、エドガーが自然な動作で手を差し出した。
「良かったら、私と一曲踊って頂けませんか?」
「は、はい……」
差し出された手に、自分の手を重ねる。そのままエスコートされてダンスの輪へ向かうと、リゼットの頬がまた熱くなった。
エドガーのリードは心地よく、はじめて踊る相手だというのに、不思議なほど安心して身を任せることができた。
(――素敵な人。)
それが、そのときのリゼットがエドガーに抱いた第一印象だった。
そう。最初の頃、リゼットがエドガーに抱いていたのは、あくまで淡い好意だったはずだ。
けれど、“ある事故”を境に、その感情は急速に膨らんでいった。気がつけば、自分から父に婚約を願い出るほど、リゼットはエドガーに惚れ込んでいた。
***
今にして思えば、違和感がなかったわけではない。
リゼットとエドガーが婚約した後も、夜会の合間、二人が示し合わせたように席を外すこと。
セシリアが、エドガーの好みや癖について、婚約者であるリゼットよりも詳しく知っていたこと。それ自体は、幼い頃から共に過ごしてきた幼馴染なのだから、当然なのかもしれない。
けれど、セシリアは時折、それを鼻にかけるように話した。
「エドガーって、昔からこういうものは苦手なのよ」
「エドガーは、こういうときには必ず――」
まるで、自分こそが誰よりも彼を理解しているのだと言わんばかりに。
それだけではない。幼馴染というには、二人が交わす視線があまりにも親密に見えることがあった。
ふと目が合えば、言葉を交わさずとも通じ合っているように微笑み合う。その様子に、リゼットが引っかかりを覚えたことも一度や二度ではなかった。
けれど――。
当時のリゼットは、それらすべてを「幼馴染同士だから」という、都合の良い解釈で片付けてしまっていた。
社交デビューの日、右も左も分からない自分に、真っ先に手を差し伸べてくれたセシリア。あの日の感謝が、リゼットの目を曇らせ続けていたのかもしれない。
親友が、自分を裏切るはずがない。それに自分を助けてくれた恩人である婚約者が、自分を利用するためだけに近づいてきたはずがない。
(そう信じていたからこそ。殺される瞬間まで、何ひとつ気づくことができなかったのよね……。わたしって、馬鹿ね……。)
死に戻ったリゼットは、改めて思う。
あの夜会で声をかけてくれたセシリアの笑顔も、エドガーの人当たりの良さも。すべては、成り上がりの男爵令嬢という、御しやすい獲物を見定めた上での、周到な演技だったのかもしれない、と。
あの日、本当にセシリアが親切心だけで声をかけてくれたのか。それとも、既にその時から、メルシエ家の財産に目をつけていたのか。
それを知ることに、今はまだ術はない。
けれど――これが神から与えられたチャンスなのかは分からないが、死んだはずの自分がこうして過去へ戻ってきたからには。
「今度は、絶対に見誤らない」
リゼットは、そう心に誓った。





