1話 死に戻り、これからの計画
冷たい水の中に沈んでいくような感覚があった。
息ができない。手足が動かない。誰かの声が、ひどく遠くで笑っている。
「――これで、全部あなたのものねっ!」
セシリアの声だった。優しく、甘く、リゼットが十年来信じてきた親友の声。
「ああ、これでようやく邪魔者が消える……」
その声に応えるエドガーの低い笑い声を、リゼットは最後に聞いた。
(ああ、そうか。わたしは、殺されたんだ……。)
意識が完全に途切れる寸前、リゼットは不思議なほど冷静にそれを理解していた。悲しみよりも先に来たのは、静かな諦めだった。愛したはずの夫と、信じたはずの親友。二人にとって自分は、最初から邪魔な障害物でしかなかったのだと。
闇が、すべてを覆った。
***
ぴちち。
鳥のさえずりが聞こえる。
「お嬢様、そろそろ起きてくださいませ」
懐かしい声に、リゼットはゆっくりと目を開けた。
窓辺から差し込む朝日が、部屋の中を優しく照らしていた。
「……え?」
思わず声が漏れる。見慣れた天井ではなかった。
伯爵夫人の部屋とは名ばかりの、あの寒々しい寝室ではなく、大きな寝台に磨き上げられた家具。クリーム色の壁紙に、小花模様の可愛らしいカーテン。窓辺には花が飾られた花瓶が置かれている。
それは伯爵家ではない。男爵家の屋敷に住んでいた頃の、自分の部屋だった。
「ど、どうして……わたしは……っ!」
死んだはずなのに――。
呆然と呟きながら、リゼットは慌てて身体を起こし、鏡台に映った自分の姿を見て息を呑んだ。
そこにいたのは、まだ十代のリゼット・メルシエだった。
ふわりと波打つピンク色の髪に、若葉を思わせる緑色の瞳。頬にはまだ少女らしい丸みが残っている。夫に疎まれ疲れた肌ではなく、張りと艶のある肌をしていた。
何が起きたのか。
恐る恐る、自分の頬に触れた。確かな体温が、指先に伝わってくる。……生きている。
「お嬢様? 何をぼんやりしているんですか?」
不思議そうな声に、リゼットは顔を上げた。視線を向けると、そこには若い侍女が立っている。
その顔を見た瞬間、懐かしさに胸が締め付けられるようだった。結婚後は会うことも叶わなかった、長年身の回りの世話をしてくれた専属侍女のアメリアだった。
「昨夜の婚約発表のパーティーで、まだお疲れでしょうけれど、そろそろ起きてくださいませ」
「婚約発表パーティー……」
侍女の言葉に、リゼットの心臓は止まりそうになった。
「さあ、いつまでもぼんやりなさらず。支度をいたしましょう」
そう促されるまま、鏡台の前へと連れていかれる。なすがままに、身支度をされていく。
髪を丁寧に梳かされ、乱れていた毛先を整えられる。髪飾りをつけられ、顔まわりも手際よく整えられていった。続いてドレスに着替えさせられる。背中の編み上げを締められ、襟元や袖口を整えられる。
侍女が部屋を出ていくと、リゼットはようやく呟いた。
「わたし、戻ったの……?」
死んだはずなのに……。死に際を思い出して、ふるっと震える。
まるで神が、もう一度だけやり直す機会を与えてくれたかのように、人生が巻き戻っている。婚約発表の翌日まで――。
「どうして、どうやって……? ううん、なんでもいいわ。こうしてチャンスを貰えたんだもの」
もっと早くに戻れていたら、と思わなかったと言えば嘘になる。エドガーに出会う前、あの人に恋をする前まで時間が巻き戻っていたなら、すべてはもっと簡単だったはずだ。
婚約すらせず、最初から距離を置けばいい。傷つくこともなく、ただ別の人生を歩めたかもしれない。
けれど現実は、婚約発表の翌日。もう、後には引けない場所まで来てしまっている。
リゼットは深く息を吸い、それをゆっくりと吐き出した。
「いえ、――今からでも、遅くはないわ」
鏡の中の自分に向かって、リゼットははっきりと言い聞かせた。
まだ、結婚していないのだから。婚約破棄をすればいい。まだ、莫大な支度金も支払う前で、実家からの援助はされていない筈。今この瞬間から動けば、失わずに済むものが、まだたくさん残っている。
「二度目の人生では――あの男とは結婚しない」
***
さて。問題は、どうやって婚約を解消するかだ。
リゼットの方から一方的に婚約を破棄すれば、貴族令嬢としての体面に傷がつく。下手をすれば、リゼットだけでなく実家にまで累が及びかねない。
けれど、リゼットは知っている。
エドガーとセシリアは、婚約中だった今も、すでに互いに裏切っていた。その確信があるのは、死の間際にセシリアが吐き捨てた言葉を覚えているからだ。
『エドガーはずっと、私のものだったのよ。あんたと出会う前から、ずっと前から』
あの言葉が真実だったのなら……。自分と婚約したあとも、二人は密かに逢瀬を重ねていたのではないだろうか。
ならば、話は簡単だ。
非があるのはエドガーの方だと、誰の目にも明らかな形で証明して婚約破棄してやればいい。
「今度は絶対に、あなたたちの思い通りにはさせないわ」
手帳に書き込むように、これから取りかかるべきことを頭の中で一つずつ整理していく。
その一頁目に、リゼットはこう記した。
一、婚約中の不貞の証拠を集めること。
二、実家からの援助と支度金の契約を、即時譲渡ではなく条件付きのものに変更すること。
三、しかるべき場で、エドガーの非を公にすること。
四、婚約破棄と同時に、慰謝料を請求すること。
頭の中で整理し終えて、リゼットは身体の震えが、いつの間にか止まっていることに気づいた。
悲しみも、絶望も、まだ胸の奥には確かにある。けれどそれ以上に、はっきりとした目的が、リゼットの中に芽生えていた。
復讐、と呼ぶには、あまりに正当な要求ばかりだ。
実家の財産を守り、裏切られた分だけ、正しく報いを受けさせる。ただそれだけのことだった。
することが決まれば、あとは行動に移すだけ。
リゼットは父がいる書斎へと向かった。





