プロローグ 夫と親友の裏切り
リゼットが死を悟ったのは、紅茶を飲み終えた直後だった。
「……っ!」
喉の奥が焼けるように熱く、胃が捩じ切られるように痛んだ。手からカップが滑り落ち、甲高い音を立てて砕け散る。白い陶器の破片が飛び散った。
身体に力が入らず、ずるずると床へ崩れ落ちる。冷たい絨毯に爪を立てながら、震える指を前へ伸ばした。
その先にいる人物を見つめる。夫である、エドガーを。
彼は椅子に腰掛けたまま、まるで他人事のような冷めた目でリゼットを見下ろしていた。
「どう……して……?」
震える声で問いかける。
エドガーは自分のカップをソーサーへ戻すと、小さく息をついた。
「リゼット、お前はもう用済みだからだ」
用済み……?
「君の実家からは十分に金を引き出した。そのおかげで、領地も立て直った。商会との繋がりも手に入った。これ以上、愛してもいない妻を置いておく理由がない」
リゼットは目を見開いた。
「そんな……っ! わたし……たち……」
呼吸が苦しい。それでも必死に声を絞り出す。
「あい、……し……」
(――わたしたち、愛しあっていたじゃない!)
結婚前は、あんなにも優しく、慈しむようにわたしに接してくれた。貴族らしく洗練された、誰よりも素敵な人。リゼットはすぐに恋に落ちた。そして、彼から請われるように求婚され、リゼットは喜んでその手を取った。
なのに、結婚してからというもの、エドガーは少しずつ冷たくなっていった。その変化に戸惑いながらも、きっと領地運営の苦労や、仕事の忙しさのせいなのだと、リゼットは自分に言い聞かせた。
いつかまた、結婚前の優しいあなたに戻ってくれる。そう信じて、リゼットはずっと、彼だけを一途に想い続けていた。
「久しぶりに二人でお茶を楽しまないか」と誘われた時、少しだけ嬉しかったのだ。
ここ最近、すれ違ってばかりだった夫婦関係が、少しは戻るのではないかと。ほんの少しだけ期待していた自分が、滑稽で仕方がなかった。
「勘違いしないでくれ、お前との結婚は最初から金目当てだったよ」
そう言って、エドガーはリゼットの背後へ視線を向けた。振り返る力もないリゼットの耳に、聞き慣れた声が届く。
「エドガー!」
――セシリア。
貴族になったばかりで戸惑っていたわたしを、幾度も手助けしてくれた、心を許した数少ない親友。セシリアの声だと、疑いようもなく分かった。
(そのセリシアが、どうして……今、ここに。)
エドガーは彼女を見るなり、先ほどまでの冷たい表情が嘘のように、柔らかな笑顔を浮かべる。
「セシリア! ああ、会いたかったよ」
あんなにも愛おしそうな眼差しを、わたしは一度でも向けられたことはあっただろうか。
セシリアは床に倒れるリゼットを見下ろし、唇を歪めた。
「あらぁ、まだ息があったの? しぶといわね」
「そう言ってやるな。ちょうど今、この愚かな女に教えてやったところだ」
エドガーが立ち上がり、セシリアのもとへ歩み寄る。
二人の距離は、ただの幼なじみのものではなかった。当たり前のように肩を寄せ合い、当たり前のように微笑み交わすその様は、まるで長年連れ添った恋人同士のようで。
ようやく、リゼットは理解した。
(夫と、親友。ふたりは裏で愛し合い、わたしを裏切り続けていたのね……。)
思い返せば、兆しはいくつもあった。目を逸らしていたのは、リゼット自身だ。二人が視線を交わす一瞬の温度も、示し合わせたような沈黙も、気づかないふりをして飲み込んできた。
そして、ずっと前から――おそらく、リゼットが気づかないところで、二人はこの瞬間のために時間をかけてきたのだ。
「セシリア、あなた……いつから……」
「リゼット。恨むなら、自分の鈍さを恨んでね」
セシリアは、これまで見せたことのない、ぞっとするほど冷たい笑みを浮かべていた。
「エドガーはずっと、私のものだったのよ。あなたと出会う前からずっと前から」
「嘘、そんな……」
「利用されてるだけとも今まで気が付かないなんて、ほんとに世間知らずのおまぬけさん」
嘲るような声が、鼓膜を刺す。
「これでようやく私が伯爵夫人になれるのね!」
セシリアは嬉しそうにエドガーの腕へ抱きつく。
「ああ、長かったな」
「本当に目障りだったわ。商人風情の小娘が伯爵家の女主人気取りなんて」
エドガーも自然に彼女の肩を抱き寄せた。二人こそ本当の夫婦のように微笑み合う。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
エドガーはセシリアの肩を抱き寄せながら、事もなげに言った。
「お前の死は、病死として届け出る。お前の実家には、後日改めて挨拶に行く。心配するな、悲しむふりくらいは、うまくやってみせるさ」
セシリアがエドガーの腕の中で、くすくすと笑う声。二人の幸せそうな囁き。
それらが遠くの水面の向こうから聞こえてくるように、次第に小さくなっていく。
(ああ……。わたしは……ふたりを信じていたのに)
怒りよりも先に込み上げてきたのは、深い絶望だった。
大好きだったふたりに裏切られたという悲しみ。一緒に過ごした時間も、彼らの優しさも、信じていたものすべててが最初から偽りだったという事実だけだ。
泣きたいのに、涙は出なかった。ただ、息を吸うたびに喉の奥が痛くて、血を吐くたびに何かが空っぽになっていく。
(もし――もう一度、やり直せるのなら)
薄れゆく意識の底で、リゼットは願った。
(今度は、絶対にこの男と結婚なんてしない)
甘い囁きに耳を貸したりしない。わたしは馬鹿だった。誰の言葉が真実で、誰の言葉が偽りなのか――今度こそ、見誤らない。
願いにしては、あまりにも遅すぎる祈りだった。
夫と親友の睦言を聞きながら、リゼットは意識を手放した。
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