第七十六話 その詠唱は、誰よりもダサく、美しかった
どこまでも広い大地。白い大理石と、壁のない神殿。
見覚えがあった。
転生したときも、初めて石に触れたときも、俺はここに立っていた。
だが、あの黄金色の夕暮れはなかった。
空は鉛色の雲に塞がれ、太陽は濁った光の染みとなって、地平線へ沈みかけている。
降りしきる雨の一粒一粒に、文字や数字が浮かんでは消えた。大理石を叩く雨音に、蝉の声と、途切れ途切れのラジオが混じる。
雷が落ちた。
白い閃光の中に見知らぬ都市の影が浮かび、消えた。柱の一本が映像の乱れのようにずれて、元へ戻る。
軌道兵器が撃ち込んでいる記録だろう。
あれほど静かだった世界が、今は情報の嵐に打たれて軋んでいた。
その中央に、少女が立っていた。
白い服。小柄な身体。長い金色の髪。
「……アレイシア」
少女が振り返る。青い瞳に、俺が映った。
「地球よ」
違う。
呼ばれた瞬間に、分かった。
顔も声も知っている。だが、あいつは俺のことをそんな風に呼ばない。
「人類に命を奪われたあなたが、なぜ人類を守るのですか」
「……地球って言われても、まだ実感がないんだよ」
雨音が強くなる。
俺は息を吸った。
「おお、アレイシア。お前の大地は、誰よりも美しい」
少女の眉が、わずかに動いた。
「……何ですか、それは」
「和解の申し込みだ」
言ってから後悔した。絶対に言わないと宣言した台詞を、よりによってここで使う羽目になるとは。
笑ってくれ、と思った。
でも、少女は笑わなかった。
「俺は、人間がそんなに嫌いじゃない」
ミリアと蜂蜜菓子を食べた。
ソフィヤに呆れられ、アマラに振り回され、シアーダに叩きのめされた。
メイと、月を見た。
「前の星でも、今の星でも、あいつらと暮らしてきた。見捨てることはできない」
惑星の化身を、正面から見据える。
「攻撃を止めてくれ。人間が一人残らず滅びるまで、やる必要はないだろ」
「そういう問題ではない」
少女の声は静かだった。
「痛い、苦しい、煩い。あなたなら、この私の内側で増え続ける病を、治してくれると思った。だが、違った」
大理石の下で、巨大な鼓動が響いた。
遠い森の上に、黒い群れが立ち上る。
こうして話しているあいだにも、攻撃は続いている。
「もはや止めることはできない」
少女が、哀れむように俺を見た。
「ああ、哀れな兄様。ご自分が何であったかさえ忘れてしまうとは」
細い腕が、ゆっくりと持ち上がる。
「待ってくれ。俺が間に立つ。人間にも、お前の苦しみを分からせる。だから、もう一度だけ時間をくれ」
少女は、しばらく俺を見つめていた。
「慈悲を乞うには、遅すぎました」
口元が、わずかに歪む。
「神の裁きに、二度目はありません」
◇
「空を翔ける我が眷属よ、来たれ」
少女の髪が、風もないのに広がった。
「古き盟約を思い出せ。汝の翼は天の境、汝の叫びは嵐の始まり。星を侵す者の頭上に、その玉座を取り戻せ!」
雲が裂けた。
「虚空を滑る絶対王者――エターナル・ザ・スカイロード!」
巨大な鳥が、降りてきた。
翼が空の端から端までを覆っている。
青黒い羽の一枚一枚に雷が走り、尾羽の先では、小さな竜巻がいくつも渦を巻いていた。頭部から伸びる角は、王冠のように枝分かれしている。
羽ばたいただけで、神殿の柱が傾いた。
「万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー!」
《虚空を滑る絶対王者 エターナル・ザ・スカイロード》
《攻撃力:999,999》
《防御力:999,999》
《素早さ:999,999》
《解説:惑星の夢において呼び起こされた眷属。天候と天空の支配を担う、嵐の王》
「ふざけんな……」
「あはは。すごいでしょう?」
少女が笑った。
さっきまでの冷たさとは違う、妙に弾んだ声だった。
「ですが、これだけではありませんよ」
今度は、大理石の床が黒く染まった。
「其は奈落の底、光すら届かぬ淵に棲まう飢え。地獄の雷を喰らい、夜の骨を噛み砕くもの」
黒い染みの奥で、何かが身じろぎする。
「汝に終わりはなく、汝に満足はなし。我が前に立ち塞がるすべてを、その牙への供物とせよ!」
巨大な前脚が、這い出した。
「ダークネス・ハングリィ・タイガー!」
虎、なのだろう。
輪郭だけなら。
黒い身体のあちこちに顎があり、その奥で紫の雷が明滅している。肩から伸びた触手が床をなぞるたび、大理石が音もなく消えていった。
《ダークネス・ハングリィ・タイガー》
《攻撃力:999,999》
《防御力:999,999》
《素早さ:999,999》
《解説:惑星の夢において呼び起こされた眷属。際限なき捕食によって、異物を虚無へと還す》
「絶望せよ、人間!」
少女の笑い声が、雷鳴に重なる。
俺は、表示された一文を見ていた。
惑星の夢。
夢。
金色の髪。赤い月の部屋。
何もないところから現れた釣り竿。
――便利だな、夢って。
怪鳥が翼を打った。
空そのものが崩れるように、雷と暴風が降ってくる。
俺は、両手を前へ突き出した。
「万象を拒絶せし究極の神盾――パーフェクト・ゴッド・シールド!」
光の盾が、広がった。
雷が砕け、暴風が左右へ裂ける。
足元の大理石は吹き飛んでいた。
俺の立っている場所だけが、残った。
「……なっ」
少女の笑いが止まった。
覚えていない。
このスキルは、まだもらっていない。
それでも、できた。
あの夢の中で、アレイシアがやったように。
「そうか」
ここでは、思ったことが形になる。
ただし、ここは俺ひとりの夢ではない。
恐れて負けを認めれば、あいつの描く結末に呑まれる。
ならば。
俺は怪鳥を見上げ、片手を掲げた。
「天を駆ける者よ。古の鎖は、今ここに断たれた」
少女の眉が動く。
「見よ。あの虎は雷を貪り、あの星は空を塞ぐ。王たる汝が、何ゆえ他者の膝下にある!」
自分でも、何を言っているのか分からない。
ダサい。
だが、俺は知っている。
こういう台詞は、気持ちが乗れば乗るほど、威力が高い。
「汝の空を取り戻せ――共に翔けようぞ!」
腹の底から、叫ぶ。
「簒奪の契約――ユーザープ・パクト!」
怪鳥が、銀色の光に包まれた。
大きく翼を広げ、空高く舞い上がる。
「何を――」
少女が手を伸ばす。
その指先へ、怪鳥が雷を吐いた。
少女が飛び退く。
虎が、空を仰いだ。
全身の顎が開く。
雷を喰おうと跳び上がった虎へ、怪鳥がさらに稲妻を放ち、雲の向こうへ飛び去っていく。
二体の巨影が、空の彼方でぶつかった。
「くっ……やりますね、人間」
少女が唇を噛んだ。
「ですが、その程度の口上で、この私に勝てると思わないことです!」
口上。
今、口上って言ったか。
こいつ、眷属を奪われたことより、詠唱で負けたことを悔しがっていないか。
「次こそ、真の神威をお見せしましょう!」
少女が両腕を広げた。
「天蓋に刻まれし不滅の律よ。我が血を印とし、罪ある者の名を天より抹消せよ。慈悲は尽き、審判は満ちた――」
雲の内側で、雷が束ねられていく。
「跪け。これが、神の答えです!」
白い柱となった雷が、俺へ落ちた。
「神罰の雷霆――ディヴァイン・ヴァーディクト!」
俺は片手を掲げた。
「……遅い」
雷光が迫る。
「光が速いのではない。お前が、時の流れに囚われているだけだ」
指を鳴らした。
雷が、止まった。
すぐ目の前で枝分かれした光が、白い亀裂のように静止している。
「……なっ!?」
「時よ、眠れ」
俺は告げた。
「永劫静止――エターナル・ゼロ」
雷光が砕け、無数の星となって散った。
ゆっくりと、目を閉じる。
「……これが、運命だ」
「…………」
少女が固まった。
死にたくなってきた。
今のは意味が分からなすぎた。
運命と何の関係があるんだ。
「…………っ」
少女の肩が震えた。
「あ……あはは……」
顔を上げる。
「何それ。かっこよすぎるんだけど」
声が、変わった。
俺の知っている声だった。
「お兄ちゃん、さすがだわ」
少女が、両手で頬を押さえる。
「かっこよすぎて、ますます殺したくなっちゃう!」
背筋が冷えた。
懐かしさと恐怖が、同時に胸へ流れ込んできた。
――それが私の声で話して、私の記憶を持っていても。
分かっている。
分かっているのに。
「じゃあ、これならどう?」
少女が笑う。
「天に満ちる理よ、去れ。地に眠る原初の法よ、甦れ。我はここに禁断の門を開き、その漆黒をもって、創世以前の闇を呼ぶ!」
空に、黒い穴が開いた。
柱が浮かぶ。床が剥がれる。
砕けた破片は穴へ近づく前に、存在していたことさえ忘れたように消えていく。
「痛みを感じる時間すら、貴様には残さぬ」
少女が指を振り下ろした。
「虚空の彼方に――去ね!」
黒い穴が、落ちてくる。
「虚空断罪・零式――ヴォイド・ジャッジメント・ゼロ!」
「マ〇カンタ!」
「ちょっと! それは駄目でしょ!」
俺の前に浮かんだ鏡が、黒い穴を跳ね返した。
「伏せたからセーフだ!」
「そういう問題じゃない!」
少女は笑いながら、迫る闇を両手で引き裂いた。
裂け目から白い光が噴き出す。
その向こうで、金色の髪が揺れていた。
彼女は笑っていた。
心の底から、楽しそうに。
だから、気づくのが遅れた。
その頬に、細い光が走っていることに。
雨ではなかった。
雨は、もう止んでいた。
「……アレイシア」
「いまさら、命乞い?」
青い瞳から、また一粒こぼれた。
口元は、笑ったままだった。
「駄目だよ。まだまだ、これからなんだから」
彼女が手を掲げる。
無数の剣が現れた。
「もっと見せてよ。あんたの、最高にかっこいいところ」
剣の切っ先が、一斉に俺へ向く。
俺は、息を吸った。
あの声が、戻ったわけではない。
ここにいるのは、人間を滅ぼそうとする惑星だ。
それでも。
その頬を流れるものまで、偽物だとは思えなかった。
「……いいぜ」
俺は言った。
「最後まで、付き合ってやるよ」
少女が、嬉しそうに目を細めた。
◇
俺は両手に意識を集中させる。
右手に、光の剣が現れた。
そして、左手に闇の剣が現れた。
「光が闇を生むのなら、俺は、その両方を消し去るだけだ」
何の解決にもなっていない台詞だった。
だが、目の前の妹は、息を呑んで俺を見ていた。
これでいい。
今だけは。
「来なさい、人間!」
少女の背後で、無数の剣が輝いた。
剣が放たれた。
俺は前へ踏み込む。
肩を裂かれた。
脚を貫かれた。
痛かった。
夢なのに、どうしようもなく痛かった。
それでも、足を止めなかった。
両手の剣を、胸の前で交差させる。
少女は、逃げなかった。
「眠れ」
声が、震えた。
「永遠という名の、虚無の中で」
笑われてもよかった。
意味なんて、なくてもよかった。
せめて最後まで、こいつの好きな言葉で。
「カオス・ゴッド・ブレイク!」
光と闇の斬撃が、重なった。
少女は、逃げなかった。
少女の身体を通り抜け、雲を裂き、地平線の向こうまで走っていく。
空を埋めていた剣が、音もなく消えた。
少女の膝が折れる。
俺は駆け寄り、その身体を受け止めた。
軽かった。
川の中で、よろけていた。
あのときと、同じ身体だった。
「……宇宙一、面倒くさい妹だ」
金色の髪が、俺の腕へこぼれる。
少女が、ゆっくりと目を開けた。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「格好よかったでしょ?」
俺は頷いた。
「最高に格好よかったよ」
「……へへ。やった」
アレイシアは、嬉しそうに笑った。
「……よかった」




