第七十七話 もう遅い。そのはずでした
最初に感じたのは、手の温かさだった。
「エイユさん」
目を開ける。
ミリアが、俺の手を握っていた。
白い法衣は泥と煤で黒く汚れ、袖の片方が肘から先まで裂けている。
「エイユさんが、戻りました」
その声が、周囲へ伝わっていく。
顔を上げた。
拠点は、ほとんど崩壊していた。
防壁は半ばから折れ、傾いた支柱が、消えかけた障壁をかろうじて支えている。
その向こうには、来たときにはなかった丘がいくつも見える。
違う。
丘ではない。
原生生物の死骸だった。惑星の眷属と呼ぶべき、山のような巨体が、いくつも横たわっている。
俺は、ひとりずつ顔を探した。
ハイローラーの装甲に寄りかかっているラッツ。煙草をくわえたまま座り込んでいるマリワナ。その横で、ヒマラヤがゆっくり手を振っている。
バンダロもいた。片腕を吊っているが、生きている。
上級パラディンの二人も、剣を地面へ突き立て、立っていた。
全員いる。
全員、ぼろぼろだった。
「……エイユ」
シアーダが歩いてきた。
黒い戦闘装甲は半分以上剥がれ、残った部分も焦げている。
「どうだった?」
「ああ……」
何と言えばいいのか、少し迷った。
「争いになった。倒したよ」
シアーダは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、短く頷いた。
「よくやった」
次の瞬間、野営地から歓声が上がった。
『兄貴!』
ラッツの声が通信回線を割る。
兵士たちが拳を突き上げ、騎士たちが祈りの言葉を叫び、誰かがハイローラーの外部スピーカーで、勝利のBGMを鳴らしていた。
勝ったのだ。
生きて帰れたのだ。
そう言われて、俺も頷いた。
口元を動かそうとしたが、うまくいかなかった。
腕の中で笑った、あの顔が浮かんだ。
――私、格好よかった?
握られている手へ、少しだけ力を込めた。
ミリアは何も聞かず、握り返してくれた。
◇
四勢力の代表が集まったのは、それからしばらく経ってからだった。
学院の会議室。
卓の上には、復旧した観測網の情報が次々に表示されている。
「原生生物の組織的な攻撃は、ほぼ停止した」
ソフィヤが言った。
「神託の石にも、新たな活動は確認されていない」
「なら、ひとまず勝利ね」
アマラが、背もたれへ身体を預けた。
いつもの微笑みは薄く、目元には疲労が残っている。
その隣で、ミリアが膝の上に手を重ねていた。
車椅子に座っている。
障壁が破られた際、崩れた防壁の下敷きになったのだと聞いた。俺が戻ったときは、自分の脚のことなど一言も言わなかった。
シアーダは、交換されたばかりの装甲を指先で確かめていた。
メイの席は、なかった。
「ただし」
ソフィヤが、別の図を表示した。
惑星の断面。
地表から深部へ伸びる無数の線が、ところどころ黒く途切れている。
「この星の状態は、想定以上に悪い」
誰も口を挟まなかった。
「惑星の神経系は、水や大気、生態系の循環も維持していた。その多くが、もう正常に働いていない」
「……俺が、倒したからか」
「それだけではない」
ソフィヤは即座に答えた。
「惑星自身が戦闘のために莫大な資源を動員した。われわれも、それを焼き払い続けた。中枢への攻撃は、その最後の損傷だ」
地図の上で、海の一部が赤く染まった。
「星そのものが砕けるわけではない。だが、人間の暮らせる環境が、あとどれほど維持されるか」
「修復は?」
ミリアが尋ねた。
「試みる。当然だ。だが、それだけに未来を賭けることはできない」
ソフィヤは、惑星の図を消した。
代わりに、細長い船の設計図が現れる。
「次の目標は、ここを出ることだ」
恒星間移民船。
地球から来た人間が、今度は、この星を去る。
「まずは整地と、輸送路と、発電所と、住居の再建だ」
「インフラ整備じゃねえか」
『そうだ。それが間に合わなければ、船を造る前に飢え死にする』
夢も希望もない。
だが、ソフィヤの言う通りだった。
◇
それから、数年が過ぎた。
原生生物の活動は、目に見えて鎮まっていった。
神託の石は、もうどこにも現れない。森は静かに枝を伸ばし、荒野の獣たちは、ただ獣として生きている。
戦争は終わった。しかし静かになった海では魚が獲れなくなり、雨は降らない土地と降りやまない土地とに分かれた。
星の傷は、毎日の暮らしの中に現れるようになった。
企業連合の工場と発電施設。
学院の科学。
グラディエンの建造技術と輸送部隊。
神々の僕が、奇跡として受け継いできた技術。
かつて互いに隠し、奪い合っていたものが、宇宙船建造という一つの計画へ集められていった。
共同研究の過程で、分かったこともあった。
惑星は、最初からあの状態だったわけではない。
完全に目覚め、排除反応が始まる前なら、働きかける余地はあった。
ただ、それが分かったときには、もう遅かった。
俺も、研究に協力した。
死んだ神経系へ接続し、残っている反応を調べる。星のどこで循環が止まり、どこならまだ戻せるのかを探した。
何か見つかれば、最初に呼びたくなる名前があった。
そのたびに、口を閉じた。
◇
転送ゲートも、変わった。
以前は神々の僕の領内だけで使われる、奇跡の一つだった。
今では学院の研究棟にも、企業連合の工場にも、グラディエンの建造拠点にも設置されている。
その日も、俺は新しく設置されたゲートを使う予定だった。
学院から、企業連合の建造施設へ。
いつもの検査に加え、新型ゲートの通過記録を取らせてほしいと頼まれていた。
「気分が悪くなったら、到着先の職員へ伝えてください」
係員が言った。
「ならなかった場合は?」
「そのまま歩いて大丈夫です」
「分かった」
光の輪へ、足を踏み入れる。
一瞬、身体の感覚が消えた。
いつもと同じだった。
次の瞬間には、床を踏んでいた。
「……あれ?」
見覚えのある通路。
白い壁。検査装置。入口の脇に置かれた椅子。
今、出発した施設だった。
戻されたのか。
係員を探そうとして、動きを止めた。
通路の向こうから、俺が歩いてくる。
同じ服。
同じ歩き方。
係員の前で立ち止まった。
「気分が悪くなったら、到着先の職員へ伝えてください」
「ならなかった場合は?」
「そのまま歩いて大丈夫です」
俺は、声を出せなかった。
「分かった」
もう一人の俺が、光の中へ入っていく。
消えた。
その瞬間、床が傾いた。
膝から力が抜ける。
「大丈夫ですか?」
誰かに肩を支えられた。
顔を上げると、知らない職員が立っていた。
背後には転送ゲート。
大きな窓の向こうで、建造中の宇宙船が骨組みをさらしている。
目的地だった。
今度は、確かに。
◇
「もう一度、最初から話してくれ」
ソフィヤが言った。
三度目だった。
「だから、出た先に、入る前の俺がいたんだよ」
ソフィヤは、俺の証言と通過記録を何度も照合した。
やがて、隣の画面を指す。
「君の退出時刻が、入場時刻より四十一秒早い」
「時計がずれてるんじゃないのか」
「それなら、私も楽だった」
施設の記録。
ゲートの制御記録。
独立した観測装置の時刻。
どれも一致していた。
「身体の移動なのか、意識の現象なのかは、まだ断定できない。だが、少なくとも通常の転送ではない」
ソフィヤは、自分の指先を見つめるように考え込んだ。
「……そういえば」
俺は言った。
「前にゲートを使ったとき、アレイシアが俺の場所を見失ったんだ」
ソフィヤが顔を上げた。
「なぜ、それを先に言わない」
「今、思い出したんだよ」
ソフィヤは椅子を引き寄せ、記録を最初まで戻した。
「惑星の認識が届かない経路……」
小さく呟く。
その目から、疲労が消えていた。
「エイユ。もう一度、ゲートを通ってもらう」
「……故障してるかもしれないんだろ?」
「故障なら、直せる」
ソフィヤは画面から目を離さなかった。
「だが、故障でないなら」
その先は、言わなかった。
◇
それから、また時間がかかった。
何度も検査を受け、ゲートをくぐった。ほとんどの場合、何も起こらなかった。
一秒にも満たないずれが記録された日、ソフィヤは一晩眠らなかった。
ミリアが呼ばれた。
企業連合から、新しい機材が届いた。
俺には理解できない数式が、研究室の壁を埋めていった。
宇宙船の建造は続いていた。
その傍らで、誰もがまだ名前をつけようとしない、別の研究が進んでいた。
ある日、ソフィヤに呼ばれた。
研究室へ入ると、彼女は端末を閉じた。
珍しく、すぐには話し始めなかった。
「……何か、分かったのか」
「ああ」
ソフィヤが頷く。
「時間を遡る方法を、見つけた」




