第六話 異世界の町は、思ったより暗黒時代だった(前編)
長くなったので分割しました。内容は以前と同じです。
門をくぐった瞬間、頬を撫でる風が変わった。
熱気と硫黄の臭いが消え、代わりに湿った土と若草の香りがする。
目を開けると、そこはもう荒野ではなかった。
穏やかな春の日差しが、緑に覆われた谷間へ降り注いでいる。
白い花。
赤や黄色に色づいた低木。
斜面には果樹らしき木々が並び、その間を澄んだ小川が流れていた。
つい先ほどまでいた赤黒い世界が悪夢だったのではないかと思うほど、優しい景色だった。
谷の奥には、大きな城壁に囲まれた町が見える。
白や茶、赤い衣をまとった人々が、城門の内外を行き交っていた。荷車を引く者、籠を抱えた者、巡礼者らしい一団。
町を守る城門は、周囲の木々を見下ろすように雄々しくそびえている。
壁には補修の跡が幾重にも刻まれていた。
傷つくたびに石を積み直し、何世代にもわたって守り続けてきたのだろう。
人間の暮らす場所だ。
怪物の縄張りでも、軍隊の野営地でもない。
その事実だけで、泣きそうになるほど安心した。
「これから、我らの家へ入ります」
隣に立つミリアが言った。
ただし、その表情は少し硬い。
「その前に、エイユさん。お願いがあります」
「何でしょう」
「あなたと私は、遠縁の親族ということにします」
「親族?」
「はい。あなたはロア・アーグの出身で、幼少期に洗礼を受けた巡礼者です。私は旅の途中であなたと再会し、療養のため連れ帰った。そういうことにしてください」
設定が細かい。
「ロア・アーグって、どこですか?」
「ここから遠く離れた、北方の小さな教区です。戦乱で記録の多くが失われました。あなたが土地について詳しくなくても、それほど不自然ではありません」
用意がいい。
裏を返せば、これほど準備しなければ俺を町へ入れられないということだ。
「それから、女神について話すことは避けてください」
ミリアは一瞬言いにくそうにしてから、続けた。
「あなたの、その……独特な祈りもです」
「独特な祈り」
「キング・オブ・プレッシャー、でしたか?」
「忘れてください」
ミリアの口元が、かすかに緩んだ。
「人前で唱えるのは控えてくださいね。あなたの力は、とても……異なっています」
言葉を慎重に選んでいる。
「異端とか、そういう?」
ミリアは答えなかった。
ただ、静かに俺を見つめている。
どうやら正解らしい。
◇
町の入口では、衛兵たちが通行人を調べていた。
荷物を開かせ、身分証らしき金属板を読み取り、手のひらへ青い光を当てている。
だが、シスター・ミリアの姿を見ると、衛兵たちは一斉に姿勢を正した。
「お帰りなさいませ、聖女様」
「ご苦労さまです。変わったことはありませんでしたか?」
「南門で異端者の密告が一件。現在、審問官が確認に向かっています」
ミリアの表情が一瞬だけ曇った。
「……分かりました」
ギデオンとボアズも、ほとんど顔を見せるだけで通された。
俺だけは別だった。
手のひらへ光を当てられ、目を調べられ、首筋に小さな器具を押しつけられた。
「登録情報がありません」
衛兵が言う。
「ロア・アーグの者です」
ミリアが自然に答えた。
「戦乱で教区記録が失われているのでしょう。私が身元を保証します」
衛兵は俺とミリアを交互に見た。
やがて姿勢を正し、道を開ける。
どうやら、ミリアの信用はかなり大きいらしい。
俺は頭を下げ、ようやく城門をくぐった。
そのとき、視界に見慣れない文字が浮かんだ。
《称号を獲得しました――滅びし教区からの巡礼者》
身分偽装にわずかな補正。居住区域への侵入成功率に補正。
不名誉な称号を獲得した気がする。
その瞬間、鐘の音が聞こえた。
高く澄んだ音が、町中へ響き渡る。
石造りの建物。
狭い路地に渡された色とりどりの布。
焼きたてのパンを並べる店。
どこからか、軽やかなバイオリンの音が流れてくる。
酒場では木製のジョッキがぶつかり合い、大声で笑う男たちの声がした。その奥からは喧嘩らしき怒鳴り声まで聞こえる。
「おお……」
思わず声が漏れた。
そうだよ。
こういうのでいいんだよ。
怪物と銃撃戦をして、精神寄生虫に襲われるような世界ではない。
異世界へ転生したなら、まずは石畳の町へ来るべきなのだ。
酒場で情報を集め、冒険者として依頼を受ける。
謎の美少女と出会い、魔物の巣を攻略する。
ようやく、俺の異世界転生が始まった気がした。
「シスター・ミリア!」
通りの向こうから、籠を抱えた老婆が声をかけた。
「いただいた薬のおかげで、ずいぶん楽になりました」
「それはよかった。ですが、無理に重いものを持ってはいけませんよ」
今度は、数人の子供がミリアのもとへ駆け寄ってきた。
「聖女様、おかえりなさい!」
「お土産は?」
「お祈りは忘れずにしていましたか?」
「した!」
ミリアは笑いながら、子供たちの頭を順番に撫でた。
誰もが親しげに彼女へ声をかける。
ミリアも名前を覚えているらしく、一人ひとりに言葉を返していた。
本当に、この町の人々から愛されているようだ。
俺は感心しながら大通りを歩いた。
その途中、道端で話す女たちの声が耳に入った。
「聞いた? あの女、とうとう誘惑に負けたらしいわよ」
「あれだけ信心深い顔をしていたのに?」
「男におだてられて思い上がって、最後には捨てられたんですって。恥知らずにもほどがあるわ」
「前から鼻持ちならないと思っていたのよ」
楽しそうに笑っている。
どこの世界にも、こういう噂話はあるらしい。
少し先では、痩せた老人が教会の前に腰を下ろしていた。
擦り切れた服に、骨ばった手。
見るからに裕福とは言えない。
だが、その膝の上にはまだ温かそうなパンが置かれていた。
通りかかった女が足を止める。
「今夜は冷えるそうですよ。毛布はありますか?」
「昨日、隣の家からもらったよ」
「ならいいけど。足りなかったら教会へ言いなさいね」
女はそう言って、老人の手に小さな果物を押しつけて去っていった。
貧しい。
けれど、飢えてはいない。
少し進むと、路地の奥から激しい物音が聞こえた。
何かが床へ落ち、砕ける音。
「違う! 違うんだ!」
男の叫び声が響いた。
「あれは俺のものじゃない! 誰かが置いたんだ! 何かの間違いだ!」
黒い外套を着た男たちが、家の中から一人の住民を引きずり出す。
「俺は異端なんかじゃない!異端なんかじゃ――」
外套の男が、住民の顔を地面へ押しつける。
先ほどまで笑っていた女たちも、急に声を潜める。
ミリアの足が一瞬止まった。
だが、何も言わずに再び歩き始める。
俺も黙って後に続いた。
あれ?
ここ、思っていたより、暗黒時代?




