第七十話 それが私の声で呼んでも
背後で、まだ煙が上がっている。
振り返らずに、森へ飛び込んだ。
「アレイシア、聞こえるか」
『聞こえるよ』
「くそ……またこの森か」
ねじれた幹。肉のように脈打つ根。前に黒い影に追われた、あの森だった。
そして、また聞こえ始めた。
軽やかなチャイム。自動ドアの開く音。
ピッ、ピッ、と規則正しく鳴る電子音。人の流れが改札を抜けていく足音。
頭上から降ってくる、やたらと明るい広告の声。クラクション。誰かの笑い声。
知っている音だった。知っているはずなのに、どこで聞いたのか思い出せない。
耳を塞ぎたくなるのをこらえて、まっすぐ進んだ。とにかく、まっすぐに。
「いったい何が起きたんだ。……この期に及んで、まだ隠し事があるのか」
『……ごめん』
それだけだった。
問い詰めようとした、そのとき。
遠くの木々の間で、空気が揺らいだ。陽炎のような、透明な靄。
『伏せて!』
身体が先に動いた。
頭上を、何かが弾丸のように駆け抜けていく。背後の幹が、乾いた音を立てて抉れた。
靄がほどけていく。
金色の粉が、さらさらとこぼれ落ちるように。
いや、粉じゃない。虫だ。光を映し込む丸みを帯びた、砂粒ほどの虫の群れ。それが一斉に飛び散ると、その奥から人影が現れた。
セレスタだった。
片腕は焼け焦げ、漆黒の甲冑はところどころ割れている。それでも、青い瞳だけは今朝と同じように穏やかだった。
「逃げないで、エイユ。まだ、お話の途中でしょう」
彼女が指を向ける。
虫の群れが渦を巻き、凝縮し、無数の弾丸となって放たれた。
「――万物を跪かせし絶対王者の威圧、キング・オブ・プレッシャー!」
見えない圧が、前方の空間を押し潰す。
虫の弾丸が、地面に叩き落とされていく。
その隙に、俺は駆けた。
「俺だって、原生生物と話せるんだよ!」
足元の根に、意識を流し込む。
応えろ。
大地が鳴った。
何本もの幹がねじれ合い、絡み合い、ひとつの巨大な塊へと変わっていく。枝が爪になり、根が指になる。禍々しい怪物の脚が、セレスタの頭上へ振り下ろされた。
轟音。
土煙の中から、金色の光が噴き出した。
「やったか?」
『そういうこと言うと、大体やってない!』
巨大な木の脚が、内側から裂けた。
銀色の光が幹を切り刻み、無数の木片が弾け飛ぶ。
セレスタが傷一つない姿で飛び出した。
駄目だ。逃げるしかない。
枝から枝へ跳び移り、一番高い梢の陰に身を沈める。心臓がうるさい。
「アレイシア、駄目だ。強いスキルを、今すぐくれ」
『スキルじゃ駄目。私自身の力を使うしかない』
下の方で、葉擦れの音がした。近づいてくる。
『もう一度、私を呼んで』
「呼ぶ?」
『夢の中でやったでしょ』
目の前の空気が、揺らいだ。
金色の粉がほどけ、セレスタが現れる。
俺は叫んだ。
「アレイシア!」
次の瞬間、地平の向こうまで届くような光の壁が立ち上がった。
津波だった。
白く輝く光の大波が、ねじれた木々を根こそぎさらっていく。
あのときの、夢の光だ。
花も、幹も、虫も、あの騒がしい音も、全部まとめて押し流された。
◇
気がつくと、森は消えていた。
どこまでも平らな、白い大地。風の音しか聞こえない。
少し離れたところに、セレスタが横たわっていた。
近づくと、彼女はゆっくりと目を開けた。
「……ああ。あれが、惑星の力なのね」
声が、違った。
あの澄みきった、聖職者のような響きがない。どこにでもいる、少し疲れた女の人の声だった。
たぶん、これが本当のセレスタなのだ。石に触れる前の。
「エイユ。あなたのことは、森から聞いていたわ」
セレスタは、かすかに笑った。
「あなたは、鳥とも、虫とも、星とさえ話せるのに。いつも、話す前に終わらせてしまうのね」
「……何の話だ」
「あなたは企業のために、たくさんの生き物を巣から追い出した。この地に来てからも、出会った子たちと、一度も言葉を交わさずに命を奪った」
山で戦った、甲殻に覆われた四つ足の獣。森で倒した、鳥のような怪物。
どちらも、俺に向かってきた。だから――。
「あの子たちはね、家を守っていただけなのよ」
「でも、俺だって――」
「そう。あなたも生きたかった」
セレスタは静かに認めた。
「だから、どちらかが死ぬ。それが、この星であなたが選び続けてきた対話なのでしょう」
血に濡れた手が、俺へ伸びる。
指先は届かず、地面へ落ちた。
「本当の怪物は、あなたよ。エイユ」
青い瞳に、強い憎悪が浮かんでいた。
「地獄へ落ちても、彼らの声を聞き続けなさい。あなたが奪った命に、永遠に詫び続ければいい」
それが最後の言葉だった。
セレスタの瞳から光が消える。
セレスタの瞼を、閉じてやった。
何かを言うべきだと思った。
何も出てこなかった。
風のない大地に、沈黙だけが残った。
◇
「アレイシア。今度こそ、全部教えてくれ」
『……うん』
長い沈黙のあと、アレイシアは言った。
『あんたはね、惑星なの。滅びた星。――地球の』
「……は?」
星?
何かのたとえか?
俺が星とか、随分と夢のある話になってきたな。
『この星の、私の、兄弟みたいなものだった』
「待て。俺は、この星に来た初期の移民じゃないのか」
『身体はそう。でも、魂は違う』
アレイシアの声は、静かだった。
『地球が死んでいくとき、私がその魂で転生させた』
森の中で聞こえた音を思い出す。チャイム。改札。広告の声。
あれは、地球の記憶だったのか。
「どうして、そんなことをした?」
『消えてほしくなかったから』
単純な答えだった。
『この星が、もうすぐ完全に目覚める』
声が、ところどころかすれている。
「なら、助ける方法を――」
『聞いて』
初めて、強い声で遮られた。
『惑星と命を懸けて戦うとき、そこにいるのは今の私じゃない。それが私の声で話して、私の記憶を持っていても、絶対に私だと思わないで』
「アレイシア」
『少しでも手を緩めたら、あんたの大切な人が死ぬ。だから、迷わないで』
返す言葉が見つからなかった。
『……あのさ』
ふっと、声が柔らかくなった。
『いつも私が名前つけたスキル、叫んでくれてありがとね』
「なんだよ急に」
『だって、私が考えたものを、あんたがずっと使ってくれてるんだよ。嬉しいに決まってるじゃん』
「叫ばないと、威力が出ないからな」
どれも、馬鹿みたいに大げさな名前だった。
俺が嫌がるたびに怒ったくせに、実際に叫ぶと、アレイシアはいつも少しだけ嬉しそうだった。
姿を持たない彼女にとって、それは自分も一緒に戦っている証だったのかもしれない。
『ふふ。そうだったね』
いつもの調子だった。それが、少しだけ救いだった。
「それより、さっき石に触れたとき、何か見えたんだ。あれは――」
『それはね――』
声が、途切れた。
「アレイシア?」
返事はない。
「おい、途中だぞ」
返事はない。
「……アレイシア?」
いつもなら、呼べば答えた。
眠っていても、拗ねていても、怒っていても。
何度呼んでも、最後には答えてくれた。
それが初めて、返ってこなかった。




