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第六十七話 悪夢の終わりに、魚を焼きました

 気がつくと、アレイシアが目の前にいた。


 赤い月の部屋。鍵をかけた扉。壁の二枚の絵。


 また、ここだ。


「あー……」


 アレイシアが、俺の顔をのぞき込む。


「死んでもダメだった感じ?」


「……ああ」


 寝台に腰を下ろし、さっき起きたことを話した。


 光の中から現れたアレイシアが、廊下の闇へ引きずり込まれたこと。追いかけた先の広間に、白い石が立っていたこと。あれさえ壊せば終わると思って、叩き割ったこと。


 そして、砕けた石の向こうから現れたアレイシアに、殺されたこと。


「ふうん」


 アレイシアは腕を組み、しばらく天井を見ていた。


「石は、黒幕じゃないのかも」


「どういうことだ?」


「セレスタ。鳥の怪物。メイみたいな影。それから、石」


 一つずつ、指を折る。


「たぶん、みんな今あんたが怖がってるものでしょ?」


 何も言い返せなかった。


 さっき俺を殺したのは、今ここにいるアレイシアなのか。


 聞こうとして、やめた。


 ◇


 それから、いろいろ試した。


 まず、眠ってみた。夢の中でさらに眠れば、一枚ずつ浅いところへ戻れるかもしれない。


 目を閉じる。


 目を開ける。


 赤い月の部屋だった。


 次に、出口を探した。


 扉を開ける。顔のない女が、椅子ごとこちらを向いていた。閉める。


 別の扉を開ける。廊下に、あの使用人が十人並んでいた。閉める。


 浴室だと思った扉の先は、天井まで鳥の羽で埋まっていた。閉める。


「ドアってさ、開けるたびにろくでもないね」


「言うな」


 夢の住人にも聞いてみた。


 廊下の隅にしゃがみこんでいた、顔の半分が影の男に尋ねる。


「どうすれば起きられる?」


「朝ごはんは、三回まで」


「は?」


「三回目は、冷めてる」


 意味が分からない。


 絵の中の女にも聞いた。答えはなかった。代わりに、額縁から細い指が伸びてきた。閉めるものがないので、走って逃げた。


 最後に、窓を開けて大声で叫んだ。


「誰か! 助けてくれ!」


 館のどこかで、誰かがくすくす笑った。


 一人ではない。いくつもの笑い声が、壁の向こうで重なっていく。


 窓を閉めた。


「うーん……」


 寝台に倒れこむ。


「どうしても出られない」


「だね」


 アレイシアも隣に寝転がった。


 赤い天井を見上げる。


 ここは、俺の夢だ。


 さっき、アレイシアはそう言っていた。


 だったら。


 俺は起き上がり、何もない壁の前に立った。


 目を閉じて、念じる。


 ここに、扉がある。


 外へ出るための、普通の扉が。


 目を開けると、そこに木の扉があった。


 取っ手をひねる。


 開いた先は、うねった木々の森だった。


 蛇のような幹。目玉のような花。どこからか、コンビニの入店音。


「……うるさいな」


 思わず呟いた。


 アレイシアが、俺の前へ一歩出る。


 片手を、軽くかざした。


 次の瞬間、地平の向こうまで届くような光の壁が立ち上がった。


 津波だった。


 白く輝く光の大波が、ねじれた木々を根こそぎさらっていく。花も、幹も、入店音も、全部まとめて押し流された。


 あとには、平らな地面だけが残った。


「……これが神の力か」


「ちょっと本気出しただけだけど」


「めちゃくちゃだな」


 アレイシアは得意げに笑った。


「それで、次はどうするの?」


「このまま、逃げてみるか」


「いいね」


 アレイシアが、俺の手を握った。


 足が、地面から離れた。


 ◇


 館が小さくなっていく。


 森の跡が、黒いしみのように遠ざかる。


 空は、夜と朝の境目だった。


 地平線のあたりが橙色に溶け、その上を紫が染めている。色の境目はどこにもなくて、少しずつ、少しずつ、夜が朝へ変わっていく。


 そのグラデーションの中に、まだ星が残っていた。


 手を伸ばせば届きそうなほど近くで、白い星がまたたいている。


 眼下には、知らない世界が広がっていた。


 切り立った崖。霧をまとった山々の稜線。斜面にしがみつくように並ぶ、石造りの町。


 その間を、大きな運河がゆったりとうねっていた。薄明かりを映した水面が、銀色の帯のように光っている。


 風は冷たかった。


 けれど、握った手だけは温かかった。


「どこに降りる?」


 アレイシアが聞いた。


 どこへ降りてもいい。


 ここは、俺の夢なのだから。


 どこが、いいだろう。


 しばらく考えて、遠くに見えた草原を指さした。


 ◇


 降り立ったのは、広い草原だった。


 膝くらいまでの草が、風にそよいでいる。すぐそばを、浅い川が流れていた。


「ここなら大丈夫そうだね」


 アレイシアが伸びをした。


 空を見上げる。


 橙色が紫に変わり、紫がまた橙色へ戻っていく。朝焼けと夕焼けを、何度も早回しで繰り返しているような空だった。


 二人で、川べりに座った。


 水は澄んでいて、川底の小石が一つずつ見えた。その上を、大きな魚影がゆっくりと横切っていく。


「……魚、いるな」


「いるね」


 釣り竿があればいいのに。


 そう思った瞬間、手の中に重みがあった。


 使い込まれた竹の竿。糸の先には、小さな毛針まで結んである。


「便利だな、夢って」


「あんたの夢だからね」


 岸辺の石に腰を落ち着け、糸を投げる。毛針が水面に落ち、流れに乗って下っていった。


 しばらく、どちらも黙っていた。


 川の音。草が風に擦れる音。遠くで鳴く、名前も知らない鳥の声。


「ねぇ」


「ん?」


「そっちの夕焼けって、どんな色だった?」


「……そっち?」


「地球」


 糸の先を見つめたまま、考える。


「夕焼けは……赤だったと思う」


「こっちも赤いよ」


「そうなんだけど、違うんだよな」


「何が?」


「……わからん」


 アレイシアは、ふうん、と鼻を鳴らした。


「じゃあさ、コンビニって、何売ってたの?」


「何って……なんでも」


「なんでもって何」


「弁当とか。飲み物とか。雑誌とか」


「夜中でも?」


「ああ」


「ずるい」


「何がだよ」


「肉まんって、おいしいの?」


「普通」


「絶対嘘。あんなに作品に出てくるじゃん」


 そのとき、竿先が大きくしなった。


「うわっ」


「エイユ! 引いてる!」


「分かってる!」


 竿が折れそうなほど曲がる。


 魚は何度も水面を跳ね、ようやく浅瀬へ寄ってきた。


 腕の長さほどもある、大きな鮭だった。


 アレイシアが靴のまま川へ飛び込み、両腕で抱え上げた。


「冷たい!」


「川なんだから当たり前だろ」


「知ってるよ。でも、こんなに冷たいんだね」


 鮭が大きく身をよじった。


 アレイシアがよろけ、二人とも膝まで水に浸かった。


 それでも、彼女は鮭を離さなかった。


 ◇


 河原で火を起こした。


 鮭をさばき、枝に刺して焼く。どこで覚えたのか分からないが、手は勝手に動いた。


 やがて、香ばしい匂いが漂い始めた。


 アレイシアは膝を抱えて、じっと火を見ていた。


「ほら、焼けたぞ」


 枝を一本抜いて渡す。


 アレイシアは両手で受け取り、恐る恐る、ひと口かじった。


 熱かったらしい。はふはふと息を吐く。


 それから、黙った。


「……どうだ?」


「おいしい」


 小さな声だった。


「すごく、おいしい」


 俺もかじってみる。皮は香ばしく、身には脂が乗っていた。


 しばらく、二人とも夢中で食べた。


 アレイシアが、骨だけになった枝を見つめた。


「あのさ」


「なんだ?」


「さっきまで、川を泳いでたんだよね、この子」


「ああ」


「それで、今は私たちの中にいる」


 火が、ぱちりと鳴った。


「命って、こうやって回ってるんだなって」


 責める口調ではなかった。


 ただ、初めて知ったことを、確かめるように言っていた。


 俺は、残りの身を見た。


「……ごちそうさまでした」


 誰に言うでもなく、そう言った。


 アレイシアが、少しだけ笑った。


「肉まんより、おいしい?」


「比べるもんじゃない。それに肉まんは普通だ」


「絶対嘘」


 アレイシアが、楽しそうに笑っていた。


 俺も、笑っていた。


 いつぶりだろう。


 何も考えずに、笑ったのは。


 このまま、ここにいられたらいい。


 そう思った。


 でも、現実には帰らなければならない。


 セレスタがいる。石がある。まだ、何も終わっていない。


「また、ここに来よう」


「来れるよ」


 アレイシアが、濡れた前髪をかき上げた。


「あんたの夢なんだから」


アレイシアは、濡れた自分の手を見ていた。


「帰りたい?」


「……ああ」


 そのとき、足元の水が、ゆっくりと回り始めた。


 小さな渦だった。


 不思議と、怖くはなかった。


「出口、かな」


「たぶんね」


 アレイシアが、手を差し出した。


 俺はその手を取った。


 二人で、渦の中へ足を踏み入れた。


 ◇


 目が覚めた。


 セレスタの館の、客間だった。


 窓の外は、白い朝だった。月は見えない。


 部屋には、俺しかいなかった。


「アレイシア」


『うん』


 姿はない。いつもどおりの、声だけのアレイシアだった。


「肉まんは、普通だからな」


『絶対嘘』

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