第六十六話 死んでも、夢から覚めません
「アレイシア……ありがとう」
気づけば、彼女の腕を強くつかんでいた。
「俺、怖くて……」
「……ほんと、子供じゃあるまいし」
俺は黙って頷いた。
「……痛いんだけど」
「あ、ごめん」
「別に、離せとは言ってないけど」
アレイシアはため息をつき、それから得意げに胸を張った。
「ふふん。見た? パーフェクト・ゴッド・シールド。天地を揺るがす、究極の神盾よ」
「……名前、ダサくない?」
「次から助けるのやめとこうかな」
「すみませんでした」
アレイシアは窓の外の、二つの月を見上げた。
「あんたの身体は今、セレスタの館で寝てる。起きれば戻れるんじゃない?」
「どうやって」
頬を引っ張ってみる。痛い。なのに、何も変わらない。
「普通、夢だって気づいたら起きちゃわない?」
「セレスタに何かされたのかもな。星の意識に呑まれる石を崇めてるんだろ」
「うーん……でも、ここは星の意識っぽくないよ」
転生のときに見た、あの白い空間を思い出した。光に満ちていて、天国のようだった。こんなに湿って、黴臭くはなかった。
「あんた、いつもどうやって夢から覚めてるの?」
「夢の中で死んだときとか。あとは話がなんとなくまとまって、気づいたら」
だが、この夢は違う。埃の匂いも、床の冷たさも、本物よりずっと本物らしい。
「じゃあさ、あの影に捕まってみたら?」
「嫌だ。もう戻れなくなる気がする」
ここにいてはいけない。
それだけは、はっきり分かった。
◇
廊下へ出た。
さっきの墨を流したような闇ではなかった。薄暗いだけの、長い廊下だ。
壁には大きな絵画が並び、その合間に人ひとり入れるほどのアルコーブが口を開けている。絵は全部、同じ森を描いていた。歩くたびに、木が一本ずつ増えている気がした。
「アレイシア、出口はどっちだと思う?」
返事はなかった。
振り返ると、誰もいなかった。最初から一人で歩いていたような気もした。
廊下の先で、何かが動いた。
薄暗がりの中で、そこだけがひときわ黒い。
「……あの男を……食べてしまわねば……柔らかいうちに……骨まで……」
低い声が、ゆっくり近づいてくる。
俺はアルコーブへ身体を押し込み、息を止めた。
黒いものが、目の前を通り過ぎていく。
黒いローブ。結い上げた黒髪。赤い組紐。
セレスタだった。
いや、セレスタに似た何かだった。ローブの裾から覗く足は、木の根のように床へ食い込みながら進んでいた。
「……食べてしまわねば……」
声は廊下の奥へ遠ざかり、消えた。
◇
廊下を抜けると、玄関ホールに出た。
埃をかぶった甲冑が並び、壁際で大きな柱時計が鳴っている。針は十三時を指し、逆向きに回っていた。
玄関の扉に手をかける。
開かない。
「鍵、かかってるね」
すぐ後ろに、アレイシアがいた。
ずっとそこにいたように、当たり前の顔で。
「でもこれ、本当に鍵がかかってるわけじゃないでしょ。あんたの夢なんだから。開くのが当然、くらいに思ってみたら?」
開いている。
この扉は、最初から開いている。
そう信じて押すと、扉は軋みながら外へ開いた。
墓地だった。
傾いた墓石の間で、ねじれた木々が身をよじり、根を地面から引き抜こうともがいている。
どこからか、電子音が聞こえた。
コンビニの入店チャイム。駅の改札が鳴らす、ピッという音。電車の発車メロディ。
懐かしい音だった。
懐かしすぎて、吐き気がした。
「アレイシア、駄目だ。ここも通れない――」
「エイユ!」
振り返った。
黒い影が、アレイシアの足首に絡みついていた。
小さな身体が、床を引きずられていく。
手を伸ばすより早く、彼女はホールの暗がりへ呑み込まれた。
背後で、玄関の扉が閉まる。
「アレイシア!」
◇
もう一度、扉を開けた。
今度は、地下の洞窟だった。
湿った岩肌に、青白い苔が光っている。その真ん中に、フードを被った女が立っていた。
顔は見えない。だが、セレスタだと分かった。
さっきの黒いローブとは違う。この女からは、何の敵意も感じなかった。
「アレイシアは、あちらへ」
細い指が、洞窟の奥を指した。
俺は走った。
洞窟はいつの間にか食堂になっていた。長いテーブルの上に、無数の肉が吊るされている。揺れる肉の間を、頭を低くして駆け抜ける。
次の部屋には、人形が並んでいた。何十体もの人形が、みんな同じ方向を向いている。俺が通り過ぎると、首の向きがこちらへ揃った。
次は、大きなクローゼットの中だった。服の奥に、腰ほどの高さの小さな扉がある。這うようにしてくぐり抜けた。
そして、大広間に出た。
白い大理石が、どこまでも敷き詰められている。
その中央に、巨大な白い石があった。
苔むしてはいない。光を吸い込むように、ただ白い。
石の表面から、アレイシアの上半身だけが突き出していた。両腕も、金色の髪も、半分石に埋まっている。
「エイユ……」
「くそっ……壊れろ!」
手をかざした。
スキルの名前も、何も唱えなかった。ただ、壊れろと強く思った。
白い石に、亀裂が走った。
次の瞬間、轟音とともに砕け散った。
破片の中から、アレイシアがよろよろと立ち上がる。
「ありがとう、エイユ。怖かった」
彼女は俺の胸に顔を埋めた。
小さな肩が震えている。
よかった。
そう思って、髪を撫でようとした。
手が止まった。
髪が、白い。
さっきまで金色だった髪に、石と同じ色が混じっている。
「ねえ、エイユ」
胸の中で、アレイシアが言った。
「どうして、惑星のために戦ってくれないの?」
「……急に、何だよ」
「私は、あなたが協力してくれると思ってた」
あなた。
アレイシアは、俺をそう呼ばない。
「それと、今の状況に何の関係がある?」
アレイシアが顔を上げた。
顔立ちは、アレイシアのものだと分かった。
けれど、細部を見ようとすると、白い光に滲んでしまう。
それでも、その表情だけは、さっきの絵の女と同じに見えた。
「……もういいよ」
小さな手が、俺の胸に触れた。
光が弾けた。
痛みはなかった。熱もなかった。ただ、身体の輪郭がほどけて、白い光の中に溶けていく。
消える直前、遠くで柱時計が鳴った気がした。
十三回。
◇
目が覚めた。
天井の木目が見えた。
部屋が赤い。
窓の外には、ねじれた森。
空には、赤い月が二つ。
扉の向こうから、くぐもった呟きが聞こえた。
「……だって、しょうがないじゃない……」




