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第六十五話 夢の中で、女神を呼びました

 目が覚めた。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 セレスタの館の、あてがわれた客間だった。眠る前と同じ部屋。同じ寝台。同じ窓。


 それなのに、何かが違う。


 部屋が赤い。


 窓から差し込む光は、夕焼けより濃い血のような色をしているのに、部屋の隅には夜の暗さが溜まっている。


 寝台を降り、窓へ近づく。


 外に、あの森があった。


 蛇のようにねじれた木々が、館のすぐそばまで迫っている。昨日森を抜けたときには、もっと遠くにあったはずだ。


 空を見上げる。


 赤い月が、二つ浮かんでいた。


 ◇


 扉の外から、声が聞こえた。


「……だって、しょうがないじゃない……」


「あぁ……やだ……やだやだ……」


 くぐもった声。男なのか女なのかも分からない。誰かと話しているのではない。同じ言葉をこね回すような、ひどく不安定な呟きだった。


 扉の下の隙間を、明かりが横切った。


 一瞬だけ。


 何かが、廊下を通っていった。


 息を殺し、おそるおそる扉の隙間へ顔を寄せる。


 何も見えなかった。


 暗い、という言葉では足りない。廊下そのものが、黒く塗りつぶされたようだった。


 目を凝らしても、壁がどこまで続いているのか、床がどこにあるのかさえ分からない。


 その闇の奥に、小さな火が浮かんでいた。


 ランタンの明かりだ。


 火の届く場所だけ、湿った壁と、剥がれかけた壁紙が浮かび上がる。


 照らされたところはすぐ闇へ戻り、火の周りのわずかな輪だけが、ゆっくりと動いていく。


 持っている者の姿は見えない。


 ただ、火の高さがおかしい。俺の頭より、ずっと上で揺れている。


 ずる、と何かを引きずる音がした。


 ずる。ずる。


 火は少しずつ遠ざかり、やがて闇に呑まれて消えた。足音だけが、しばらく残っていた。


 この廊下は、怖い。


 理由はない。ただ、そう思った。


 ここを通ってはいけない。


 扉から離れる。


 部屋の中も赤い月に照らされて不気味だったが、廊下よりはましだった。


 少なくとも、ここには光がある。


 これは、悪夢だ。


 直感した。


 だとしても、目を覚ます方法が分からない。


 改めて部屋を見回す。


 壁に、絵が掛かっていた。


 昨日は、なかったはずだ。


 黒い額縁の中に、二人の女が描かれていた。


 一人は椅子に腰かけ、膝の上で両手を重ねている。だが、その顔には何もなかった。


 もう一人は同じ椅子。同じ女。


 ただし、こちらの女には上半身がなかった。


 目をそらす。


 そのとき、部屋の奥に扉があることに気づいた。


 廊下へ続く扉とは別の、小さな木の扉。


 浴室だろうか。昨日、こんな扉があっただろうか。


 取っ手に手をかける。鍵はかかっていなかった。


 開けると、埃の匂いがした。


 隣の部屋だった。窓はなく、赤い光も届かない。床は積もった埃で白く、天井の隅には蜘蛛の巣が幾重にも張っている。長いあいだ、誰も入っていない部屋だった。


 その暗がりで、二つの影が話していた。


「月は、留まっています」


「月は、もう沈んだよ」


「沈んだので、留まっています」


「留まってたから、沈んだんでしょ」


 声は、確かにメイのものだった。


 一つは凪のように穏やかで、一つはひび割れたように荒い。


「お茶が冷めてしまいましたね」


「まだ淹れてないよ」


「ええ。だから、冷めています」


「熱いね。舌が焼けた」


「あなたには、舌がありませんから」


「あんたには、上半身がないけどね」


 くすくすと、どちらかが笑った。


 どちらが笑ったのか分からなかった。


「エイユは、まだエイユのままですか?」


「エイユは、もうエイユじゃないよ」


「よかった」


「よかったね」


「エイユ」


「エイユ」


 声が重なった。


「どちらを、選びましたか?」


「どっちも、選ばなかったんでしょ」


「はい。だから、両方殺しました」


「うん。だから、両方生きてる」


 影の顔が、こちらを向いた。


 目も、口もなかった。


 それでも、笑っているのが分かった。


 二つの影が、ゆっくりと近づいてくる。


 足音はしない。埃も舞わない。


 俺は後ずさり、元の部屋へ飛び込んだ。


 扉を力いっぱい引き、鍵をかける。


 直後。


 どん、と扉が鳴った。


 どん。どん。どん。


 古い木の扉が、こちらへたわむ。


 音が大きすぎる。


 壁を伝い、床を伝い、館じゅうへ響いていく。


 まずい。


 こんな音を立てたら、さっきの廊下のやつに聞こえる。


 そう思った瞬間。


 遠くで、引きずる音が止まった。


 息が詰まる。


 ずる。


 また、音がした。


 ずる。ずる。


 さっきより近い。


 今度は、こちらへ向かってくる。


 気づかれた。


 廊下側の扉の下に、細い光の線が現れた。


 闇の中で、そこだけが橙色に滲んでいる。


 光が近づくにつれ、線は少しずつ太くなっていった。


「……しょうがないじゃない……だって……あぁ……」


 呟き声が、すぐ外にあった。


 姿も見ていないのに分かる。


 あれは、俺を殺すつもりでいる。


 廊下側の扉が、ゆっくりと開いた。


 灰色の影が、身をかがめて入ってくる。


 使用人のような服を着ていた。けれど、身体が大きすぎる。肩は扉の枠につかえ、ランタンを提げた腕は膝より下まで垂れていた。


 その首の上に載っているのは、人間の顔ではなかった。


 巨大なくちばし。森で見た、あの鳥の頭。


 充血した目が、ぎょろりとこちらを向く。


「……やだ……やだやだ……」


 くちばしの奥から、くぐもった声が漏れていた。


 一歩。


 また一歩。


 背後では、まだ影たちが扉を叩いている。


 逃げ場がない。


 捕まったら、終わりだ。


「アレイシア!」


 気づけば、叫んでいた。


 その瞬間、部屋が白く染まった。


 赤い月の光を押し流すように、まばゆい光が俺の前へ集まっていく。


 光の中に、人影があった。


 金色の髪。


 小柄で白い服。


 あれは確かに、転生するときに見た。


 少女は、俺と怪異の間に立った。


 片手を、まっすぐ前へかざす。


「万象を拒絶せし究極の神盾――パーフェクト・ゴッド・シールド!」


 光の盾が広がった。


 鳥頭の使用人が、盾に触れた端から白くほどけていく。悲鳴もなかった。ランタンが床へ落ち、火が消える。


 扉を叩く音も、止んでいた。


 静まり返った部屋で、少女の金色の髪だけが、ゆっくりと揺れている。


「……慈悲を乞うには遅すぎた。神の裁きに、二度目はない」


 少女は、「決まった……」と言わんばかりの顔で満足気にこちらを振り返った。


「……アレイシア?」


 顔はなぜか思い出せそうになかったが、その呆れたような表情だけは、よく分かった。


「呼んだの、あんたでしょ」


 金色の髪の先が、光の粒になってほどけ始める。


「いい? 私は、あんたの頭の中から、ちょっとだけ入れてもらっただけ」


 窓の外では、二つの赤い月が、まだ沈まずに浮かんでいた。


「起こしてはあげられない。ここはまだ、あんたの夢の中だから」

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