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第六十三話 森の中に、俺がいました

「誰だ?」


 木々の間で動いた影を見据える。


 人の形に見えた。


 黒い輪郭だけが、ねじれた幹の向こうに立っている。


「ケルベロス。ノイン。あれ、見えるか?」


 二体は何も反応しなかった。


 ケルベロスの観測灯は前方を走査し、ノインも俺の隣で静止している。


 新種の怪物か。


 それとも、幽霊。


「万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー」


 何も表示されない。


 生物名も、能力も、警告さえ出なかった。


「アレイシア! アレイシア!」


『何? 聞こえてるよ』


 返事があった。


「あそこに誰かいないか?」


『あそこって?』


「正面の木の間だよ!」


『誰もいないけど』


「そんな馬鹿な……」


 一瞬だけ、ノインへ目を向けた。


 再び前を見る。


 影が消えている。


 今度は右側。


 離れた木々の間に立っていた。


 歩いた様子はない。


 瞬きした一瞬で、場所だけが変わっている。


 見たことがある。


 先代メイが、俺の目の前へ移動したときと同じだった。


「メイ……?」


『エイユ?』


「メイだ」


 黒い影の輪郭が、乱れた長い髪に見えてくる。


「生きてたんだ。でも、何で隠れてる?」


『落ち着いて。そこには何も――』


 影の手に、細長いものが見えた。


 刃物。


「俺を殺しに来た」


『違う! エイユ、聞いて!』


 背を向けて走り出した。


 アレイシアが何か叫んでいる。


 言葉は聞こえているのに、意味が頭へ入ってこない。


 曲がった木々を避け、蔦を飛び越える。


 足が根に引っかかった。


「うわっ!」


 顔から地面へ突っ込む。


 口の中に泥が入った。頬が裂け、手のひらから血が滲む。


 それでも、すぐに立ち上がった。


 止まれば追いつかれる。


『エイ……そっち……』


「聞こえない!」


『森……』


 アレイシアの声が、途切れ始めた。


 コンビニの入店音。


 駅の発車音。


 女の笑い声。


 いくつもの音が重なり、声を押し潰していく。


『エイユ――』


 そこで、何も聞こえなくなった。


「アレイシア?」


 返事はない。


「アレイシア!」


 静寂。


 自分の荒い呼吸だけが聞こえる。


 周囲を見渡した。


 影は、もういなかった。


 ◇


 ケルベロスが足を止めた。


 頭部を左へ向け、木々の奥を凝視している。


 低い駆動音。


 威嚇するように牙を見せた。


「何かいるのか?」


 ノインを見る。


 こちらは反応していない。


 次の瞬間、ケルベロスが森の奥へ駆け出した。


「待て!」


 呼び戻そうとしても止まらない。


 俺はその後を追った。


 木々の隙間に、誰かが立っていた。


「誰だ?」


 返事はない。


 ケルベロスの背中が、さらに奥へ消える。


「戻れ! 護衛対象は俺だろ!」


 反応はなかった。


 俺はケルベロスの後を追った。


 木々の隙間に、誰かが立っていた。


「誰だ?」


 返事はない。


 いつから走っている?


 同じ形の木。


 同じ赤い花。


 同じ場所を回っている気がする。


 俺はケルベロスの後を追った。


 木々の隙間に、俺が立っていた。


「誰だ?」


 返事はない。


 携帯端末が震えた。


《ケルベロスより通信》


《護衛対象から離脱》


《脅威を誘導中》


「ケルベロス?」


 森の奥で、銃声が響いた。


 一発。


 二発。


 獣の咆哮に似た駆動音。


 続いて、巨大な金属が押し潰される音がした。


「おい……」


 通信は、それきりだった。


 木の向こうにいた俺も消えている。


 助けに行かなければ。


 そう思うのに、どちらへ向かえばいいのか分からない。


 ノインが俺の腕をつかんだ。


「離せ。ケルベロスが――」


 昨夜、こいつを怖いと思った。


 今は、置いていくことが、ひどく怖かった。


 ノインは進行方向を指した。


 木々の向こうから、白い光が差している。


 俺は動けなかった。


 ノインはもう一度、強く俺の腕を引いた。


「……分かったよ」


 ケルベロスが作った時間を無駄にはできない。


 俺とノインは、光へ向かって歩き出した。


 背後から、何かがついてくるような気配がした。


 それでも、もう振り返らなかった。


 ◇


 森を抜けた。


 突然、視界が開ける。


 絡み合う木も、目玉のような花もない。


 なだらかな土地に、石造りの集落が広がっていた。


 質素な民家が並び、その奥にはひときわ大きな館が建っている。


「人がいる……」


 救われたような気持ちになった。


 俺たちに気づいた住民が、足を止める。


 泥と血にまみれた俺。


 その隣には、武装した人型ロボット。


 住民たちは蜘蛛の子を散らすように、次々と家の中へ駆け込んだ。


「待ってくれ! 怪しい者じゃ――」


 今の姿では説得力がない。


 道の奥に、一人だけ逃げない老人がいた。


 椅子に腰かけ、ぼんやりと空を眺めている。


 その周囲を、銀色の生物が飛び交っていた。


「ソウル・フライ……?」


 何十匹ものソウル・フライが、老人の肩や腕へ止まっている。


 だが、襲ってはいない。


 まるで懐くように、穏やかに羽を動かしていた。


「助けてください。影が……影が追ってきて」


 老人は答えない。


 もう一度、近くで呼びかける。


 ようやく俺に気づき、目を細めた。


 耳も目も、かなり悪いらしい。


 老人は首を傾げたあと、集落の奥にある館を指さした。


 ◇


 館へ入ると、一人の女性が待っていた。


 豊かな黒髪を複雑に結い上げ、赤い組紐で束ねた女性だった。


 幾重にも重ねた深紅の首飾りが褐色の肌を彩り、切れ長の青い瞳には、どこか物憂げな光が宿っていた。


 女性は俺の姿を見て、わずかに眉を寄せた。


「……ずいぶん、深く森へ入ってしまったようですね」


「あんたが、セレスタか?」


 女性は小さく頷いた。


「ともかく助けてくれ。森で、影に追い回されて……今も、視線を感じるんだ」


女性は少し考え込んだ。


「それは影かもしれない。記憶かもしれない。あるいは、あなたが置き去りにしてきたものかも」


「……何を言ってる?」


「私には、それが何なのかは分かりません。でも、知る方法はあります」


「それは……」


『エイユ!』


突然、アレイシアの声が戻った。


アレイシア!


『よかった! 全然つながらなくなって……』


こっちもだ。森の中で変なものを見て、それから――


『……ちょっと待って』


「――ああ、ずっと待っていました」


セレスタは、俺の顔から少しだけ視線を外した。


まるで、そこにもう一人いるかのように。


「あなたを歓迎します、星の巡礼者よ」


そして、穏やかに微笑んだ。


「それから――アレイシア」

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