第六十一話 自然は、癒やしてくれません
山を越えた先に、沼が広がっていた。
水面は濁った緑色で、腐った草と泥の臭いが鼻にまとわりつく。
一歩踏み込むたび、靴が足首まで沈んだ。引き抜けば、泥が名残惜しそうにまとわりついてくる。
湿気で服が肌に張りつく。雲が切れると急に日差しが照りつけ、隠れれば汗が冷えて寒くなった。
顔の周りには、羽音を立てる虫が群がっている。
「自然って、もっと癒やされるものじゃなかったのか」
ケルベロスは泥の浅い場所を選んで進む。ノインは何度も沈みかける俺の腕をつかみ、引き上げた。
午前のうちに、首筋へ鋭い痛みが走った。
「痛っ」
黒い虫が飛び去る。叩いた場所が、すぐに熱を持って腫れ始めた。
数歩進んだところで、景色が揺れた。
ノインが俺を支え、その場へ座らせる。指先から針を出し、首筋の傷へ当てた。
《護衛対象に毒性物質を検出》
《任務継続に支障あり》
《中和剤を投与》
冷たい液体が流れ込むと、動悸が少しずつ収まった。
「ありがとう」
ノインは針を収納し、立ち上がるよう手を差し出した。
俺はその手を借り、また歩き出した。
◇
昼には、湿原を覆っていた霧が消えた。
強い日差しが降り注ぐ。
朝の寒さが嘘のように蒸し暑い。
汗と泥で服が身体へ貼りついた。
日が傾くと、今度は冷たい風が吹き始めた。
濡れた服から急速に体温が奪われる。
脚は重い。
足の裏はとっくに痛みを通り越していた。
それでも、歩いた。
『休んだほうがいいんじゃない?』
アレイシアの声がした。
「中和してもらったから大丈夫」
『そういう意味じゃないんだけど』
「じゃあ、どういう意味だよ」
『……別に』
しばらく、泥を踏む音だけが続いた。
『あんた、ずっと歩いてるよね』
「旅なんだから当たり前だろ」
『歩いてるほうが楽なら、歩けばいいと思う。じっとしてたら、いろいろ思い出すんでしょ』
足が一瞬止まりかけた。
白い床。二つの月。笑っていた先代メイ。
「前だけ見てればいいから」
『そっか』
アレイシアは否定しなかった。
『じゃあ、私もいる』
「どこに?」
『ここ。あんたの頭の中』
「いつもいるだろ」
『いつもより、ちゃんといるってこと』
「何だよ、それ」
『話したくなったら話して。話したくないなら、黙って歩けばいいから』
「暇じゃないのか?」
『あんたを見張るくらいには暇』
「珍しく優しいな」
『妹はいつだってお兄ちゃんに優しいけど?』
「都合よく記憶を書き換えるな」
しばらくして、付け加える。
「ありがとう」
『……別に』
前を行くケルベロスの尾が揺れる。
何も答えは出なかった。
それでも、足を前へ出しているあいだだけは、少し呼吸が楽だった。
◇
夕方には沼を抜け、岩山の洞窟へたどり着いた。
入口に、人がいた。
痩せた男だった。泥と獣皮を重ねた服は腐りかけ、離れていても酸っぱい臭いがした。
伸びた髪の隙間から、充血した目がこちらを睨んでいる。
「違う。俺じゃない。勝手に入ったのは、向こうだ」
男は誰もいない壁へ話しかけていた。
「俺は返した。全部返しただろ。まだ足りないっていうのか」
「あの――」
男の顔が突然こちらへ向いた。
「聞いてたのか?」
「いや、洞窟を借りられないかと思って」
「ここは俺のだ」
腰の刃物へ手を置く。
「出ていけ。お前もそいつらも、みんな出ていけ」
「分かった。近づかない」
「嘘だ。知ってるぞ。夜になったら入ってくる。俺の中にも入ってくる」
会話を続けるほど、何をするか分からない。
男の意識に、ほんの一瞬注意を払ってみた。
恐怖の奥で、男のものではない何かが、静かにこちらを見ている気がした。
俺たちは洞窟を離れた。
◇
少し離れた岩陰で野営した。
夜警はケルベロスに任せた。ノインは休止状態に入り、俺は簡易寝袋へ潜り込んだ。
遠くで虫の鳴く声がしていた。
それも次第に意識の外へ遠ざかり、いつしか眠りに落ちた。
――ガタン。
続いて、何か重いものを引きずるような、金属の擦れる音。
目を開けた。
すぐそばに、あの男が倒れていた。
首が不自然に傾き、胸がかすかに上下している。
開かれた荷袋。散らばった食料。男の手には刃物が握られていた。
ケルベロスが、その横に立っている。
「お前が、やったのか?」
赤い観測灯が俺を向いた。
返事はない。
物資を盗もうとしたのか。
俺を襲うつもりだったのか。
どちらもあり得た。
だから排除した。ただ、それだけなのだろう。
沼では俺を安全な道へ導いた。
危険を知らせ、尾まで振った。
いつの間にか、頼れる仲間のように思っていた。
だが、こいつは学院の機械だ。
必要なら、人間も迷わず壊す。
「おい。聞こえるか」
男の瞳が、わずかに動いた。
口から血の泡がこぼれる。
「みんな……」
「何だ?」
「みんな、森に飲まれる……」
それきり、胸は動かなかった。
風が木々を揺らした。
遠くで、森全体が息を吐いたような音がした。
ケルベロスは何事もなかったように、暗闇へ視線を戻した。




