↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/84

第六十一話 自然は、癒やしてくれません

 山を越えた先に、沼が広がっていた。


 水面は濁った緑色で、腐った草と泥の臭いが鼻にまとわりつく。


 一歩踏み込むたび、靴が足首まで沈んだ。引き抜けば、泥が名残惜しそうにまとわりついてくる。


 湿気で服が肌に張りつく。雲が切れると急に日差しが照りつけ、隠れれば汗が冷えて寒くなった。


 顔の周りには、羽音を立てる虫が群がっている。


「自然って、もっと癒やされるものじゃなかったのか」


 ケルベロスは泥の浅い場所を選んで進む。ノインは何度も沈みかける俺の腕をつかみ、引き上げた。


 午前のうちに、首筋へ鋭い痛みが走った。


「痛っ」


 黒い虫が飛び去る。叩いた場所が、すぐに熱を持って腫れ始めた。


 数歩進んだところで、景色が揺れた。


 ノインが俺を支え、その場へ座らせる。指先から針を出し、首筋の傷へ当てた。


《護衛対象に毒性物質を検出》

《任務継続に支障あり》

《中和剤を投与》


 冷たい液体が流れ込むと、動悸が少しずつ収まった。


「ありがとう」


 ノインは針を収納し、立ち上がるよう手を差し出した。


 俺はその手を借り、また歩き出した。


 ◇


 昼には、湿原を覆っていた霧が消えた。


 強い日差しが降り注ぐ。


 朝の寒さが嘘のように蒸し暑い。


 汗と泥で服が身体へ貼りついた。


 日が傾くと、今度は冷たい風が吹き始めた。


 濡れた服から急速に体温が奪われる。


 脚は重い。


 足の裏はとっくに痛みを通り越していた。


 それでも、歩いた。


『休んだほうがいいんじゃない?』


 アレイシアの声がした。


「中和してもらったから大丈夫」


『そういう意味じゃないんだけど』


「じゃあ、どういう意味だよ」


『……別に』


 しばらく、泥を踏む音だけが続いた。


『あんた、ずっと歩いてるよね』


「旅なんだから当たり前だろ」


『歩いてるほうが楽なら、歩けばいいと思う。じっとしてたら、いろいろ思い出すんでしょ』


 足が一瞬止まりかけた。


 白い床。二つの月。笑っていた先代メイ。


「前だけ見てればいいから」


『そっか』


 アレイシアは否定しなかった。


『じゃあ、私もいる』


「どこに?」


『ここ。あんたの頭の中』


「いつもいるだろ」


『いつもより、ちゃんといるってこと』


「何だよ、それ」


『話したくなったら話して。話したくないなら、黙って歩けばいいから』


「暇じゃないのか?」


『あんたを見張るくらいには暇』


「珍しく優しいな」


『妹はいつだってお兄ちゃんに優しいけど?』


「都合よく記憶を書き換えるな」


 しばらくして、付け加える。


「ありがとう」


『……別に』


 前を行くケルベロスの尾が揺れる。


 何も答えは出なかった。


 それでも、足を前へ出しているあいだだけは、少し呼吸が楽だった。


 ◇


 夕方には沼を抜け、岩山の洞窟へたどり着いた。


 入口に、人がいた。


 痩せた男だった。泥と獣皮を重ねた服は腐りかけ、離れていても酸っぱい臭いがした。


 伸びた髪の隙間から、充血した目がこちらを睨んでいる。


「違う。俺じゃない。勝手に入ったのは、向こうだ」


 男は誰もいない壁へ話しかけていた。


「俺は返した。全部返しただろ。まだ足りないっていうのか」


「あの――」


 男の顔が突然こちらへ向いた。


「聞いてたのか?」


「いや、洞窟を借りられないかと思って」


「ここは俺のだ」


 腰の刃物へ手を置く。


「出ていけ。お前もそいつらも、みんな出ていけ」


「分かった。近づかない」


「嘘だ。知ってるぞ。夜になったら入ってくる。俺の中にも入ってくる」


 会話を続けるほど、何をするか分からない。


 男の意識に、ほんの一瞬注意を払ってみた。


 恐怖の奥で、男のものではない何かが、静かにこちらを見ている気がした。


 俺たちは洞窟を離れた。


 ◇


 少し離れた岩陰で野営した。


 夜警はケルベロスに任せた。ノインは休止状態に入り、俺は簡易寝袋へ潜り込んだ。


 遠くで虫の鳴く声がしていた。


 それも次第に意識の外へ遠ざかり、いつしか眠りに落ちた。


 ――ガタン。


 続いて、何か重いものを引きずるような、金属の擦れる音。


 目を開けた。


 すぐそばに、あの男が倒れていた。


 首が不自然に傾き、胸がかすかに上下している。


 開かれた荷袋。散らばった食料。男の手には刃物が握られていた。


 ケルベロスが、その横に立っている。


「お前が、やったのか?」


 赤い観測灯が俺を向いた。


 返事はない。


 物資を盗もうとしたのか。


 俺を襲うつもりだったのか。


 どちらもあり得た。


 だから排除した。ただ、それだけなのだろう。


 沼では俺を安全な道へ導いた。


 危険を知らせ、尾まで振った。


 いつの間にか、頼れる仲間のように思っていた。


 だが、こいつは学院の機械だ。


 必要なら、人間も迷わず壊す。


「おい。聞こえるか」


 男の瞳が、わずかに動いた。


 口から血の泡がこぼれる。


「みんな……」


「何だ?」


「みんな、森に飲まれる……」


 それきり、胸は動かなかった。


 風が木々を揺らした。


 遠くで、森全体が息を吐いたような音がした。


 ケルベロスは何事もなかったように、暗闇へ視線を戻した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。