第六十話 旅の仲間は、一言も話しません
退院が決まった日の朝、ソフィヤに呼び出された。
研究棟へ入ると、壁一面に緑環同盟の地図が表示されていた。
大陸南西部。
山脈と湿地に囲まれた、深い緑色の領域。
「人民秩序共同体へ向かう前に、約束したな」
ソフィヤのホログラムが地図の前に立っている。
「遺伝子改変ウイルスの件が片づけば、君が追う“目覚める怪物”を、学院の最優先研究対象に指定すると」
「ああ」
「調査の結果、兆候らしきものを発見した」
地図の一点が赤く点滅する。
《緑環同盟――シンビオン》
「黒曜石が現れた際、周囲で特殊な振動が観測されていた。音でも、通常の電波でもない。君の耳に埋め込まれていた通信装置と、よく似た仕組みだ」
「頭の中へ、直接届く信号?」
「その可能性が高い」
赤い点から、波紋が広がっていく。
「同じ波長を、緑環同盟の地下から検出した。強度は日ごとに増している」
「そこに、目覚める怪物がいるのか?」
「断定はできない。だが、何かが目覚めようとしている」
嫌な言い方だった。
「緑環同盟には連絡したのか?」
「何度も試みている。以前は応答があったが、十日前から完全に途絶えた」
「セレスタは?」
「彼女からも応答がない」
部屋の隅で話を聞いていたミリアが、表情を曇らせた。
「ミリアは、セレスタと知り合いなんだよな」
「ええ。以前、一緒に環境修復の研究をしていました」
「どんな人?」
ミリアは少し考える。
「優秀な生命科学者です。汚染された土地を、人間の技術で再生しようとしていました」
「まともそうだな」
「最初は」
「最初は?」
「自然を調べるうちに、この生態系には人間とは異なる意思がある、と言い始めました」
急に怪しくなった。
「人間は自然を支配するのでも、守るのでもない。その意思へ参加できるのだと」
「参加?」
「詳しく尋ねると、人間の身体にどこまでこだわる必要があるのでしょう、と聞き返されました」
「かなり怖いな」
「悪い方ではありません」
ミリアがすぐに付け加える。
「ただ、研究を続けた結果、私たちとは異なる境地へ到達したのだと思います」
「なるほど」
全く分からない。
ソフィヤが地図を切り替える。
「緑環同盟の中心地へ直接入る転送設備は使えない。山脈の手前までは輸送するが、そこからは陸路になる」
「一人で?」
「まさか」
背後の扉が開いた。
四本の脚を持つ黒い機械が入ってくる。
大型犬ほどの胴体。頭部らしき部分には、複数の観測装置が並んでいた。
その後ろから、人間と同じ形をした白いロボットが続く。
《KRB-03 ケルベロス》
《NEUN-09 ノイン》
「ケルベロスって、首が三つある怪物じゃなかったか?」
「一つで十分な性能がある」
ソフィヤが答えた。
「学院の野外調査用機体の中でも、特に高性能な二体だ。護衛、運搬、索敵、地形調査を行う」
「話せる?」
「音声機能はない」
ケルベロスが俺を見上げた。
ノインも無言で立っている。
「ずいぶん静かな旅になりそうだな」
ケルベロスが俺の荷物をくわえ、背部の収納区画へ載せた。
少なくとも、働く気はあるらしい。
◇
学院の輸送機を降りると、冷たい風が頬を撫でた。
目の前には、空へ突き刺さるような山々が連なっている。
斜面を覆う深緑の森。
岩肌から落ちる細い滝。
雲の切れ間から光が差し、遠くの湖を青白く輝かせていた。
人民秩序共同体の街は、すべてが人間の都合に合わせて整えられていた。
ここには、まっすぐな道さえない。
木々は好きな方向へ枝を伸ばし、岩の隙間から名も知らない花が咲いている。
美しかった。
同時に、人間などいなくても完成している場所に見えた。
「行くか」
ケルベロスが先頭を歩く。
ノインは荷物を背負い、俺の後ろについた。
山道へ入ってすぐ、ケルベロスが足を止めた。
頭部の光が黄色く点滅する。
直後、斜面の上から岩が落ちてきた。
「うわっ!」
ノインが俺の襟をつかみ、後ろへ引く。
目の前を岩が通過し、谷底へ消えていった。
「今のが危険察知か」
ケルベロスは何事もなかったように歩き始める。
「助かった。ありがとう」
二体とも返事はしない。
だが、ケルベロスの尾に似たアンテナが、一度だけ左右へ動いた。
道が崩れている場所では、ノインが倒木を橋のように渡した。
急な斜面では、ケルベロスが地面へ爪を固定し、背中の牽引索を伸ばす。
俺はそれにつかまり、どうにか岩場を登った。
疲れればノインが荷物をすべて持つ。
川へ出ればケルベロスが浅い場所を探す。
一言も話さないのに、二体がいるだけで旅は驚くほど楽だった。
◇
山の中腹へ差しかかったころ、ケルベロスが低く姿勢を落とした。
頭部の光が赤く変わる。
茂みが揺れた。
現れたのは、甲殻に覆われた四足の原生生物だった。
体長は二メートルほど。
鎌のような前脚を持ち、涎を垂らしながらこちらを見ている。
一体。
二体。
三体。
「この程度なら、まだ歓迎できるな」
学院から渡されたライフルを構える。
ケルベロスが地面を蹴った。
一体の喉元へ飛びつき、そのまま岩壁へ叩きつける。
ノインは振り下ろされた鎌を腕で受け止めた。
白い装甲に傷一つつかない。
相手の前脚をつかみ、軽々と投げ飛ばす。
残る一体が、俺へ向かってきた。
「万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー」
《原生生物》
《外殻は硬質》
《頸部側面の呼吸孔は防御が薄い》
照準を合わせる。
一発目で動きを止める。
二発目が呼吸孔へ入った。
巨体が勢いを失い、俺の足元へ滑り込んでくる。
ノインが投げた個体へ、ケルベロスがとどめを刺した。
戦闘は、それだけで終わった。
三体の原生生物が、地面に倒れている。
ケルベロスは周囲を確認し、再び歩き始めた。
ノインも荷物を背負い直す。
「待ってくれ。少しくらい余韻とかないのか?」
二体は振り返らない。
俺は倒した原生生物を見る。
以前なら、姿を見ただけで逃げ道を探していた。
今は、その死骸を背にして歩き出す。
「行こう」
ケルベロスの尾が、一度だけ揺れた。




