第五十九話 二人は生きています。どちらも帰ってきません
第五十九話 二人は生きています。どちらも帰ってきません
月が二つ浮かんでいた。
白い砂の庭の上に一つ。瓦礫の外周路の上に一つ。
同じ形。同じ色。同じように夜を照らしている。
「また、お茶をしましょう」
表のメイが、茶碗を両手で包んでいた。
窓の向こうには三つの石。枠に隠れて、最後まで全体が見えなかった庭。
「ああ」
答えると、背中から別の声がした。
「あたしは?」
先代メイが隣に座っている。
少し考えた。
「酒、飲みすぎ」
「は?」
怒った顔。
先代メイが笑った。
「ちゃんと、あたしを探してね」
返事をしようとした。
赤い霧が視界を覆う。
片方の月が消えた。
慌てて、もう一方を見上げる。
そこにも、もう何もなかった。
握っていた指先から、力が抜けていく。
「待ってくれ」
二人とも動かない。
また、俺だけが残る。
「――メイ!」
跳ね起きた。
白い天井。消毒液の匂い。規則正しく鳴る計測器の音。
全身が汗で濡れていた。呼吸がうまくできない。
「大丈夫。ここは学院よ」
柔らかい声がした。
少し冷たい指先が、俺の手首へ触れる。
「……先生?」
「ええ。ゆっくり息を吐いて。吸うより、吐くほうを長くね」
言われたとおりに息を吐く。一回。二回。三回目で、胸の奥が少しほどけた。
栗色の髪。少し困ったように下がった眉。
グラディエンにいるはずの人が、寝台の横に座っていた。
「なんで、ここに」
「ソフィヤから連絡をもらったの。あなたが帰ってきたけれど、まともに眠れていないって」
リーネは計測器へ目を向けた。
「それに、私の患者だもの」
「もう出番は終わりって言ってたじゃないですか」
「そうね。だから、また出番を作ってくれたのかしら」
冗談めかした声だった。
けれど、手首に当てた指は、いつもの診察より長くそこに留まっていた。
「三晩続けて、同じようにうなされているそうよ」
「三晩……」
「覚えてない?」
「はい」
「そう」
それ以上は聞かず、冷たい布で額の汗を拭いてくれる。
差し出された水を飲んだ。カップを持つ手が、まだ少し震えていた。
「身体の傷は、ほとんど治ってるわ」
「じゃあ、退院できます?」
「身体だけならね」
リーネは俺の顔を見た。
「エイユ。元気になろうとしなくていいからね」
予想していなかった言葉だった。
「でも、いつまでもこうしてるわけには」
「うん。いつかは動かないといけないかもしれない。でも、それは今日じゃなくてもいいでしょう?」
窓の外を見る。
学院の空は青かった。
あそこでも、最後の日は晴れていた。
◇
リーネが別の患者を診に出ていくと、病室は静かになった。
『ねえ』
頭の中で、アレイシアの声がした。
『大丈夫そ?』
「今、起きたところだよ」
『そういう意味じゃない』
いつもの呆れた調子ではなかった。
『……夜になると、名前ばっかり呼んでる』
「悪い」
『謝ってほしいわけじゃないし』
「どうした?」
少し間があった。
『心配してる』
俺は天井を見つめたまま、ずっと考えていたことを口にした。
「なあ、アレイシア」
『何』
「死んだ人間を、生き返らせるスキルってないのか」
千三十二の能力。
雷を操るもの。嵐を呼ぶもの。命を一瞬で断つもの。
あれだけあるなら、一つくらい。
『あるよ』
「……は?」
上体を起こした。点滴の管が引っ張られる。
「あるのか? だったら――」
『でも』
アレイシアが遮った。
『二人は、もう返ってこない』
「どういう意味だよ」
死体が損傷しているからか。時間が経ちすぎたのか。
「条件があるなら、教えてくれ。俺にできることなら――」
『エイユ』
声が、いつになく低かった。
『もう、生まれ変わってる』
その意味を聞こうとしたとき、壁面端末が点灯した。
《国際報道:人民秩序共同体より公式発表》
反射的に身体が固まった。
見覚えのある白い広場。整然と並ぶ人民。
中央の壇上に、一人の女が立っていた。
長い黒髪。黒い瞳。汚れ一つない白い衣服。
「メイ……」
生きていた。
そう思った。一瞬だけ。
《先日の反共同体勢力によるテロ行為により、第一書記ならびに先代個体が殉職しました》
《両名の遺体および記憶記録は、人民の資源として回収されました》
映像が切り替わる。培養槽。神経組織。脳構造の走査記録。
《両個体の遺伝情報、身体組織、記憶、経験を統合し、新たな第一書記が誕生しました》
息が止まった。
壇上の女が、ゆっくりと口を開く。
「人民の皆さん」
表のメイと同じ声だった。
「私は、二名の前任個体の記憶と経験を受け継ぎました。統治者としての知識も、戦闘者としての技能も、すべて私の中で一つになっています」
女が微笑んだ。
茶室で見た笑顔と、同じ角度だった。
そのまま、ほんの少し首を傾ける。
先代メイがよくやっていた仕草。
「先代個体が抱えていた、特定の個人への過剰な執着は、統合の過程で治療されました」
胸の奥が冷たくなる。
酒も飲まなくなって。
怒らなくなって。
個人への執着は治療されました、なんて言い始めても。
――あんた、ちゃんと気づいてくれる?
「……気づくよ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
二人とも、そこにいる。
だが、どちらでもなかった。
表のメイが最後に見せた、寂しそうに崩れた笑顔はない。
子供みたいに笑って、俺の名前を呼んだ先代メイもいない。
二人が最後に残した、いちばん二人らしかったものだけが、きれいに取り除かれていた。
「個人の境界に意味はありません。私たちは一つです」
「違う」
声が出た。
最後まで、あいつらは別々だった。
別々のまま、隣にいた。
「前任者たちの死は、終わりではありません。彼女たちは、私の中で生きています」
モニターを殴った。
鈍い音が響く。
拳が痛い。
画面には何も起きていない。女は笑ったままだった。
「それを、生きてるって言うのかよ」
「エイユ」
戻ってきたリーネが、俺の腕をつかんだ。
端末の映像を見て、それから俺の拳へ目を落とす。
「消す?」
首を振った。
見なければならない気がした。
『死者を蘇らせるスキルは、損傷した身体を蘇生して魂を元の身体へ戻すもの』
アレイシアが言った。
『でも、二人の身体は一人の身体に作り替えられた。もう、どちらの身体でもない』
何も言えなかった。
『記憶も、身体も、自分たちに都合のいいところだけ残して』
少しの沈黙のあと、アレイシアが吐き捨てた。
『……それで、二人が生きてるなんて。よく言えるよね』
ARIAを思い出した。
学院に残っていたARIA。人民で生きていたARIA。
二つを合わせた。
俺たちも、やった。
おかえり、と笑ったあの顔。
「俺たちと……何が違うんだ」
リーネは答えなかった。
アレイシアも。
端末の中で、人民が一斉に拍手を始めた。
揃いすぎた音だった。
◇
リーネが寝台の横へ腰を下ろし、俺の手を取った。
「……先生。俺、大丈夫です」
「そう」
「もう、分かってたことなので」
「そう」
手は離れなかった。
「前に言ったこと、覚えてる?」
「……我慢できることと、我慢すべきことは違う」
「ええ」
リーネが、少しだけ困ったように眉を下げた。
「今のあなたは、我慢できるかもしれない。でも、これは我慢しなくていいことよ」
視界がにじんだ。
リーネは急かさなかった。
脈を測るときと同じ静かさで、ただ隣に座っていた。
◇
どれくらい経っただろう。
報道は別の話題へ移っていた。
《グラディエン、神々の僕の共同作戦により、ウル=ラグナの討伐に成功》
顔を上げた。
荒野に横たわる巨大な骸。その前に、黒い戦闘装甲を纏った褐色の女が立っている。
「大佐……」
「ええ。無事よ」
リーネが微笑んだ。
「ぼろぼろだったけど、検査ではどこも異常なし。あの人らしいわ」
《これにより、両国の境界地帯は正常化へ向かう見通し》
《作戦を指揮した聖女ミリアは、枢機卿会の全会一致により、教団の最高指導者に就任》
映像が切り替わった。
白と金の法衣。無数の信徒が跪く大聖堂。
その中心に立つ、小柄な赤い髪の女性。
「……最高指導者?」
ついこの前まで、軟禁されていたはずだ。
それが今は、国を率いる立場になっている。
「緊急事態だったのです」
背後から声がした。
振り返る。
病室の入口に、白い旅装の法衣を着たミリアが立っていた。
両脇には、銀の甲冑を着た大男が二人。
「……本物?」
「その確認が必要な出来事でもあったのですか?」
「ありすぎた」
ミリアの笑みが、少しだけ曇った。
「そう、ですか」
法衣の裾をつまみ、丁寧に頭を下げる。
「お久しぶりです、エイユさん」
「最高指導者って……。軟禁はどうなったんだ?」
「ウル=ラグナの復活で、状況が変わりました。詳しいことは、またいつか」
それ以上は言わなかった。
後ろの二人が、無言で胸へ拳を当てる。
俺は右側の男へ頭を下げた。
「ギデオンさんも、その節は――」
「私はボアズだ」
また逆だった。
◇
リーネが席を外すと、ミリアは寝台の横へ来た。
端末に残っていた白い広場を、しばらく黙って見つめる。
「ソフィヤ博士から、おおよそのことは伺いました。亡くなられた方々は、遺伝子を作り替えられた方だったそうですね」
胸の奥が冷えた。
「異端だって、言うのか」
「教義に照らせば、そうなるのでしょう」
ミリアは否定しなかった。
「ですが、以前申し上げましたね。人が神の御心を正しく理解しているとは、限らないと」
緑色の瞳が、俺を見る。
「あなたが名前を呼んで泣く方を、私は異端とは呼びたくありません」
寝台の傍らに膝をつき、胸元の聖印へ手を添えた。
「お名前を、伺ってもよろしいですか?」
「……メイ」
「お二人とも?」
「ああ。どっちも、メイだった」
「そうですか。祈っても、いいですか」
「俺、信者じゃないけど」
「知っています」
小さく笑って、ミリアは目を閉じた。
「神々よ。異なる道を歩み、異なる心を抱き、それでも同じ名を持って生きた二人を、どうか御心に留めてください」
静かな声だった。
「その喜びも、過ちも、愛したものも、憎んだものも。それぞれ一人の人として、覚えられますように」
胸が詰まった。
「そして、遺された者に、悲しみを抱えたまま朝を迎える力を」
祈りが終わっても、しばらく何も言えなかった。
ミリアが目を開ける。
「たとえ灯が消えようとも、人の瞳に光があるなら」
「……恋の歌だろ」
「ええ。あなたが図書室で読んだ一節です。でも今日は、少し違う意味で読みたいのです」
まっすぐ俺を見た。
「消えてしまった灯も、あなたの瞳にはまだ映っています。忘れなくていいと思います。悲しいままでも」
表のメイが最後に見せた、不完全な笑顔。
先代メイの、全然かわいくない笑い方。
あの壇上の女には見つけられなかったものが、俺の中には残っている。
それで二人が戻るわけではない。
でも、今はそれまで奪われたくなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
◇
ミリアは立ち上がり、少しだけ唇を尖らせた。
「それで、エイユさん。私は、セレスタのもとへ行ってくださいと申し上げましたよね?」
「……はい」
「それなのに、企業連合へ行き、グラディエンへ行き、人民秩序共同体へ潜入したそうですね」
「いろいろあって」
「いろいろ、でそんなに危険な国を巡らないでください」
完全に怒られている。
「それに、必ず戻ると言いましたよね。結局、私のほうが来てしまいました」
「ごめん」
「それから、『パラサイト・ウォーリアー』」
「……あれは、アマラが」
「私によく似た方が、出ていましたね」
「ミリーだろ」
「あなたをお兄様と呼び始めていました」
ミリアは少しだけ眉を寄せた。
けれど、すぐに表情を和らげる。
「……でも、私を助けるためだったのですよね」
「ああ」
「……私は、あんなことを言った覚えはありません」
銀の甲冑の大男が、甲冑に似合わない小さな紙箱を差し出す。
蓋を開けると、甘い香りが広がった。
丸い焼き菓子。たっぷりの蜂蜜。砕いた木の実。
「これ、あの店の?」
「店主に頼んで焼いていただきました。転送門を三つ経由したので、少し冷めていますけど」
「最高位の聖職者が、転送門で菓子を運ぶなよ」
「最高位の聖職者だからできるのです」
真顔で言い切った。
思わず笑いが漏れた。
自分の笑い声を聞いたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「次に外出するときは何か用意してくださるという約束も、まだ果たしてもらっていません」
「覚えてたのか」
「忘れるわけがないでしょう」
ミリアは焼き菓子を一つ取り、俺の手に乗せた。
「ですから、ちゃんと生きていてください。約束を果たしていただくまで」
一口かじる。
蜂蜜の甘さのあとに、木の実の香ばしさが残った。
あの日、ミリアが目を丸くして、おいしいと言った味だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回で、人民秩序共同体編はひと区切りとなります。
切り裂き女や顔のない男のようなホラー寄りの話を入れてみたり、穏やかで清潔なのにどこか息苦しい、ディストピアらしい空気を描いてみたり。途中では、なぜかRTA実況まで始まりました。自分でも「この国、何でもありだな」と思いながら書いていましたが、そのぶん実験できて、とても楽しかったです。
次はいよいよ、ずっと遠回りしていた緑環同盟。
セレスタのもとで、何が目覚めようとしているのか。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。




