第五十八話 おかえりと言ったのは、誰ですか
第五十八話 おかえりと言ったのは、誰ですか
表のメイの手から、力が抜けた。
俺が握っていた指先が、ゆっくりと床へ落ちる。
「メイ……?」
返事はなかった。
少し離れた場所には、先代メイの変わり果てた身体がある。
さっきまで笑い、別々のまま隣にいると言っていた。
GENEも動かなかった。
青白い身体には無数の穴が開き、それでも最後まで俺の前に立っていた。
また、俺だけが残った。
《搬送用昇降機が到着しました》
無機質な音声が流れる。
表のメイが、最後に呼んだのだろうか。
追手の足音が近づいてくる。
俺は立ち上がった。
脚に力が入らない。
壁へ手をつき、何度もよろめきながら昇降機へ向かう。
振り返ることができなかった。
振り返れば、もう動けなくなる気がした。
扉が閉じる。
昇降機が上昇を始めた。
◇
到着したのは、地上の搬送区画だった。
広い空間に、資材運搬用の車両や大型コンテナが並んでいる。
その中央に、見覚えのあるロボットが立っていた。
「MASARU……」
「遅かったな、旦那」
「まだいたのか?」
俺を置いて、先に国外へ逃げたはずだった。
「何の用だよ」
「任務変更だ」
MASARUが短く答える。
「お前を国外へ連れ出す。乗り込め」
「俺を助ける義理はないんじゃなかったのか?」
「俺の義理じゃない。雇い主の命令だ」
MASARUの装甲が左右へ開き、内部の骨格が組み替わる。
腕と脚が折り畳まれ、黒い装甲板が地面すれすれの車体を形成した。
前から後ろまで無駄に尖っている。どう見ても普通の乗用車ではない。
側面装甲が開いた。
《搭乗してください》
「早くしろ。追手が来るぞ」
搬送区画へ通じる扉の向こうから、足音が聞こえる。
俺は車内へ乗り込んだ。
狭い座席。
身体を固定する帯が自動で胸と腰へ巻きつく。
「待て。GENEとメイが――」
「死んだんだろ」
MASARUの声が、車内へ響く。
「お前まで死ねば、あいつらが戻ってくるのか?」
「…………」
「戻らねえなら、生き残れ」
側面装甲が閉じる。
直後、身体が座席へ押しつけられた。
◇
通路を抜け、夜の街へ出る。
車体が地面すれすれを滑るように加速していく。
街路灯が線になって後方へ流れた。
俺は、耳の奥に意識を集中する。
「ソフィヤ……ソフィヤ……」
『無事なのか?』
聞き慣れた声が返ってきた。
「今、車で国外へ向かってる」
『車?』
「説明はあとでする。助けてくれ」
『分かった。現在位置を送れ』
短い沈黙があった。
『座標を受信した。救出部隊はすでに国境外で待機している』
「もう来てたのか?」
『君との通信が途絶えた時点で移動させた』
約束を忘れていたわけではなかった。
「ありがとう」
『礼を言うのはこちらだ。ARIAを……ありがとう』
ソフィヤの声も、少しだけ掠れていた。
『君たちが送った人格データは、学院で受信した。ARIAは戻ってくる』
「そうか……」
『だから、君も戻ってこい』
「ああ」
『追跡部隊を確認した。ここからは学院が支援する』
車内に、後方の映像が表示された。
黒い点が、無数に飛んでくる。
《追跡用無人機:四十八》
《武装を確認》
「多すぎないか?」
「第一書記二人を死なせて、秘密研究所を吹き飛ばした男だからな」
「俺一人でやったみたいに言うなよ!」
無人機から、赤い光が放たれる。
「来るぞ!」
「分かってる!」
MASARUが急旋回した。
光弾が車体の横を通過し、道路を吹き飛ばす。
衝撃で車体が浮き上がった。
着地。
そのまま速度を落とさず、建物の間へ飛び込む。
後方の無人機が隊列を組み直した。
再び、銃口へ光が集まる。
その瞬間。
夜空から、細い青白い光が降ってきた。
一体目の無人機を貫く。
続けて二体目。
三体目。
無数の光線が、雨のように降り注いだ。
無人機だけを正確に撃ち抜いていく。
「何だ、あれ」
『学院の対無人兵器用照射装置だ』
ソフィヤが答える。
『軌道上から照準している。直進しろ』
「車体に当たらないよな?」
『可能なかぎり避ける』
「可能なかぎりって言ったぞ!」
「信用しろ、旦那。科学者ってのは、できねえときほど断言を避ける」
「安心できる要素がない!」
光線が車体のすぐ上を通過する。
後ろを飛んでいた無人機が爆発した。
《追跡用無人機:三十一》
《追跡用無人機:二十二》
《追跡用無人機:九》
最後の一体が光に貫かれ、夜空から落下した。
「全機撃破!」
「喜ぶのはまだ早い」
前方の道路脇から、固定防衛砲台が火を噴いた。
砲撃が道路を吹き飛ばす。その爆炎の向こうで、正面の交差点に道路封鎖用の隔壁が下り始めた。
「塞がれる!」
『そのまま進め』
ソフィヤの声。
『制御系へ侵入する』
《都市交通管理網への接続を開始》
《認証情報を偽装》
閉じかけた隔壁が止まる。
警告灯が赤から青へ変わった。
再び隔壁が上昇する。
俺たちの車が通過した直後、背後で閉じた。
追ってきた人民軍の装甲車が隔壁へ激突する。
「学院って、こんなこともできるのか」
『その制御理論を作ったのは私だ』
次々と信号が青へ変わっていく。
防衛砲台が俺たちから照準を外し、後続の人民軍へ砲身を向ける。
追跡車両が急停止した。
「すごいな……」
「敵に回したくねえ連中だな」
『聞こえているぞ』
「褒めたんです」
MASARUは速度をさらに上げた。
◇
街を抜ける。
遠くに、入国したときのゲートが見えた。
あの奇妙な質問を受けた、この国で唯一の出入口。
今は巨大な金属製のシャッターで封鎖されている。
その前には装甲車と兵士が展開し、完全な防衛線を作っていた。
「MASARU!」
「分かってる!」
車体内部で、重い機械音が響いた。
前部装甲が開く。
四本の発射筒がせり上がった。
《対装甲ミサイルを選択》
《単価:180,000 Cr》
「くそっ。一発十八万Crだぞ……」
《目標を捕捉》
《対装甲ミサイル:四発装填》
《合計価格:720,000 Cr》
「撃て!」
四本のミサイルが白煙を引き、ゲートへ殺到した。
装甲車が吹き飛び、巨大なシャッターが中央から裂けた。
「行くぞ! 頭下げろ!」
「車の中でどうやって!」
MASARUが爆炎へ突っ込んだ。
燃え上がる金属片が、車体へ降り注いだ。
前方装甲が破片を弾く。
激しい衝撃。
視界が炎で埋まる。
次の瞬間、俺たちはゲートの外へ飛び出していた。
◇
「まだ追ってくるぞ!」
《国境線まで、残り二百メートル》
後方から銃撃が続いている。
車体の装甲が、一枚剥がれ落ちた。
前方に、複数の光が見えた。
学院の紋章が刻まれた装甲車。
周囲には、白い装備を着た救出部隊が展開している。
『学院部隊より、不明車両へ』
通信が入る。
『そのまま直進してください。援護します』
学院の兵士たちが一斉に発砲した。
弾丸が俺たちの頭上を越え、追跡車両へ集中する。
装甲車が次々と停止した。
《国境線を通過》
《人民秩序共同体領域から離脱しました》
その表示を見た瞬間、全身から力が抜けた。
「出られた……」
「ああ」
MASARUが速度を落とす。
「生還だ、旦那」
俺だけが。
その言葉は、口にできなかった。
《秘匿通信を受信》
「通信?」
MASARUが、わずかに間を置いた。
「……俺は知らねえぞ」
「何が?」
《接続》
『――心配しないでください、だったかしら?』
聞き覚えのある女の声だった。
「…………」
『行き先も書かない。帰る日も書かない。それで手紙を一枚残して、他国の秘密施設へ潜入』
声は穏やかだった。
『ずいぶん安心できる旅行だったみたいね、エイユ』
「……アマラ」
『ええ。おかげさまで、まったく心配しなかったわ』
絶対に嘘だ。
「アマラ、なんで……」
『それはこちらの台詞よ』
アマラは一拍置いた。
『私に黙って人民秩序共同体へ行くなんて。帰ったら少しお話が必要ね』
「それより、なんでアマラがこの通信に――」
『MASARU』
「はい」
即答だった。
「お前」
「いや、これは反射だ」
『ご苦労さま。エイユを無事に連れ出してくれてありがとう』
「業務なんで」
「……業務?」
『紹介が遅れたわね。その子、うちの諜報員よ』
「…………は?」
『ヴェイル・グループ情報部所属、潜入工作用特殊エージェント』
「お前、ヴェイルのロボットだったのか!?」
「だからロボットって言うな。エージェントだ」
『それから、MASARU』
「はい」
『対装甲ミサイル、四発も必要だった?』
「…………」
「経費になります?」
『ええ。ボーナスも用意するわ』
「さすが社長」
MASARUの笑い声が、車内へ響いた。
「言っただろ。俺にも背負ってるものがあるって」
「会社だったのかよ!」
「勤め人はいろいろ大変なんだよ」
◇
学院へ戻ったのは、翌朝だった。
医療棟で検査を受けたあと、ソフィヤに呼ばれた。
宙に、女性のホログラムが浮かんでいた。
耳の下で切り揃えられた髪。
閉じられた瞼。
ARIAと同じ姿だった。
だが、表情はない。
《セーフモードで稼働中》
《自律人格領域:応答なし》
「これが、学院に残っていたARIAだ」
ソフィヤのホログラムが、その傍らに立っている。
「ARIAとしての人格はほとんど失われている」
「じゃあ、人民秩序共同体から送られてきたARIAは?」
隣の端末へ視線を移す。
《回収人格データ》
《記憶領域:六八パーセント》
《情動反応領域:七四パーセント》
《追加命令を検出》
《敵対研究設備の破壊》
《機密保持を目的とした人員排除》
《共同体への服従》
「こっちには、ARIAの記憶も人格も残っている。ただし、長いあいだ共同体に使われて、かなり手を加えられている」
「じゃあ……どうする?」
「二つを合わせる」
ソフィヤが、学院側のARIAを示した。
「こっちを土台にする。そして人民側から、記憶と経験を戻す」
簡単な話に聞こえた。
でも、一つだけわからない。
「それで、元のARIAになるのか?」
ソフィヤは答えなかった。
「分からない」
その言葉に、表のメイを思い出した。
「始める」
ソフィヤが操作盤へ触れた。
《人格統合処理を開始》
《旧人格構造を基準として設定》
《回収記憶の移植を開始》
《不整合領域を検出》
《強制命令を除去》
《攻撃衝動領域を再構成》
画面の中で、無数の情報が消えていく。
人民秩序共同体で目覚めたARIA。
俺を地下へ呼び、助けを求めたARIA。
研究所を破壊し、自分の力で逃げ出したARIA。
その一部が、旧人格に適合しないという理由で削除されていく。
学院に残ったARIAも、人民の中で生きたARIAも、もうそのままでは残らない。
二人を材料にして、俺たちが望むARIAを作っている。
《人格統合率:一〇〇パーセント》
《自律思考領域を再起動》
青い瞳。
ARIAは、ゆっくりと俺へ顔を向けた。
「エイユ」
聞き慣れた声だった。
学院で何度も聞いた、明るく親しげな声。
「おかえり」
ARIAが笑った。
俺の知っている笑顔だった。
だからこそ。
目の前にいるのが、どちらのARIAなのか分からなかった。




