第五十七話 月は、まだ留まっています
第五十七話 月は、まだ留まっています
白い壁を見つめたまま、どれほどの時間が過ぎただろう。
ソフィヤとは約束していた。
俺が人民秩序共同体で拘束された場合、学院の戦力を投入して救出する。
今が、そのときかもしれない。
だが、学院の部隊が他国の中枢へ踏み込めば、戦争になる。
禁忌技術を盗み、ARIAを研究へ利用したのは共同体だ。責任まで俺が背負う必要はない。
そう思うのに、決断できなかった。
戦争になれば、この国で何も知らず、穏やかに暮らしている人々まで巻き込まれる。
「……スパイ・キング」
ソフィヤへ連絡しようとした、そのとき。
廊下の向こうで何かが砕けた。
重い足音が近づき、独房の扉が開く。
現れたのは、青白い巨体だった。
「GENE……?」
その後ろから、髪を振り乱した女が駆け込んでくる。
「エイユ!」
「メイ……」
先代メイは格子へ駆け寄り、俺の顔を覗き込んだ。
頬には血がついている。
それでも、俺の姿を確認した途端、その顔がわずかに緩んだ。
「よかった……」
格子をつかむ手が震えていた。
「まだ、エイユのままだよね?」
「え?」
「あいつらに、何もされてない?」
俺の目を覗き込む。
不安に揺れる瞳。
俺が人格を変えられていないと確信できるまで、息をすることさえ忘れているようだった。
「大丈夫だ。俺は俺だよ」
「……そっか」
先代メイの肩から力が抜けた。
「よかった。本当に」
格子を挟んで、俺の頬へ触れようとする。
その指先が、わずかに震えていた。
「でも、どうやってここが分かった?」
「MASARUが教えてくれた」
「あいつが?」
「通信が一回だけ届いた。位置情報と、あんたがまだ処置されてないことだけ」
俺を助ける義理はない。
あいつは確かに、そう言った。
だが、助けられる相手に、俺の居場所を伝えていた。
「素直じゃないおっさんだな……」
俺を助けないと言いながら、助けに来る人間へ道だけは残していったらしい。
「開ける」
GENEが格子へ指をかけた。
「オレ、働きたくない。でも、頑張る」
両手で格子をつかむ。
筋肉が膨れ上がった。
「これ、友達のため。仕事じゃない」
鋼鉄の格子が、耳障りな音を立てて曲がる。
壁に亀裂が走った。
GENEが腕を広げると、格子が壁ごと引き剥がされた。
「すご……」
「友達、助けた」
「ああ。ありがとう、GENE」
「うん」
短く答えたGENEは、少しだけ満足そうだった。
独房から出る。
通路には、人民軍の兵士が何人も倒れていた。
首を切られた者。
胸を貫かれた者。
壁へ叩きつけられた者。
「これ、全部……」
「どうせ、嫌だっていうんでしょ」
先代メイは、剣についた血を兵士の服で拭った。
何の感情も浮かんでいない。
「あんたは生きてる」
先代メイが笑った。
「他はどうでもいい」
血に濡れた手で、俺の手を握る。
「帰ろう、エイユ」
◇
「ハルトマンとタダシは?」
「ハルトマンはもう……処置された。タダシは分からない」
「そう」
先代メイは一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに俺の腕をつかむ。
「今は逃げるよ。出口まで、もう少しだから」
先代メイが角を曲がる。
その先に、広い搬送区画があった。
大型の医療機器や資材を運び入れるための空間らしい。
奥には地上へ続く搬送用昇降機が見える。
「もうすぐ外だ」
そう言った瞬間。
昇降機の扉が開いた。
灰色の軍服を着た兵士たちが、整然と降りてくる。
一人。
二人。
十人。
全員がライフルを構えていた。
その中央に、黒髪の女が立っている。
長い髪。
黒い瞳。
汚れ一つない白い衣服。
表のメイだった。
「やっとお出ましか」
先代メイが、俺の手を離した。
口元へ、裂けるような笑みが浮かぶ。
表のメイは、先代メイを静かに見つめた。
「あなたがここへ来ることは、予測していました」
「待ち伏せしてたって?」
「いいえ」
表のメイの視線が、俺へ向けられる。
「あなたが、私の誘いに乗ったのです」
「誘い?」
「エイユが認証鍵を複製したとき、私は止めませんでした」
茶室で交わした言葉が蘇る。
あなたが何をしようとしているのか、知りたい。
自分で扉を開けた先で見たものなら、あなたも考えるでしょう。
だが、それだけではなかった。
表のメイの声は、いつもどおり穏やかだった。
「結果として、予測は正しかったようです」
「クソ女……」
「あたしを捕まえるために、エイユを利用したのか」
「あなたも同じでしょう」
「あ?」
「エイユへ殺害用のプログラムを運ばせた。あなたも、自分の目的のために彼を利用した」
先代メイの顔が歪む。
「黙れ」
「あなたの思考も、衝動も、私には理解できます。あなたは私の前任個体なのですから」
「黙れって言ってんだよ」
「あなたの身体、記憶、知識、技能。そのすべては人民の資源です」
表のメイが、一歩前へ出る。
「それらを私有する権利は、あなたにはありません」
「あたしの身体を、あんたに返せって?」
「共同体へ返還してください。あなたの記憶と経験は、次代の第一書記へ統合されます」
「ふざけんな」
先代メイが腰を落とす。
「あたしは、あたしだ!」
一歩。
床が砕けた。
「今ここであんたを殺して――どっちが偽物か、証明してやる!」
剣と剣が衝突した。
金属音が空気を切り裂く。
二人の姿が消えたように見えた。
次の瞬間には、搬送区画の中央で何度も火花が散っている。
同じ顔。
同じ身体。
同じ技術。
だが、戦い方は全く違った。
先代メイが笑う。
「あんたの剣、血で汚れてない」
表のメイの刃を弾き、腹部へ蹴りを入れる。
「そんな綺麗な剣で、あたしを殺せると思ってるの?」
表のメイが床を滑る。
すぐに姿勢を立て直したが、わずかに呼吸が乱れていた。
無数の銃口が、GENEと先代メイへ向けられる。
撃たれたら終わる。
考えるより先に、叫んでいた。
「万物を跪かせし絶対王者の威圧――キング・オブ・プレッシャー!」
空気が沈んだ。
見えない巨大な何かが、搬送区画全体を押さえつける。
兵士たちの顔が強張る。
呼吸を忘れたように、その場で硬直した。
長くは続かない。
先代メイとGENEは、その一瞬を逃さなかった。
GENEが兵士の列へ突っ込む。
巨大な拳が胸部を打ち抜き、二人まとめて壁へ叩きつけた。
先代メイの剣が走る。
銃を持つ腕が落ちる。
返す刃が、喉を切り裂く。
血が白い床へ広がった。
俺が動きを止めた。
そのせいで、人が死んだ。
分かっていた。
それでも、止めなければ先代メイたちが死んでいた。
「よそ見をしましたね」
表のメイの声がした。
赤い線が、GENEの胸を横切る。
一瞬遅れて、傷口から血が噴き出した。
「GENE!」
GENEの巨体が揺れる。
表のメイが、膝裏へもう一撃を入れた。
片膝をついたGENEの身体が、床を揺らす。
「オレ……まだ、動ける」
立ち上がろうとするが、切断された筋肉が動かない。
表のメイがとどめを刺そうとする。
その間へ、先代メイが飛び込んだ。
二本の剣が激突する。
再び、高速の斬り合いが始まった。
「エイユ!」
先代メイが叫ぶ。
「さっきのやつ、こいつに使え!」
「え?」
「動きを止めろ! その隙に、あたしが殺す!」
俺は息を吸った。
表のメイを見る。
叫べばいい。
スキルの名を叫ぶだけだ。
ほんの一瞬、動きを止めれば、先代メイの剣が心臓を貫く。
「早く!」
声が出なかった。
味の薄い食事を、一緒に食べた。
町を歩いた。
街路樹や水路について教えてくれた。
蛍の流れる公園で、詩を詠んだ。
月の光が、深い宮の奥へ愁いを落とす。
あの詩に、俺は詩を返した。
茶室で、静かな庭を眺めた。
見えない石の形を想像しているうちに、時間を忘れた。
メイは、またお茶をしましょうと言った。
俺は、ああと答えた。
「エイユ!」
先代メイの声が遠く聞こえる。
目の前で、二人のメイが戦っている。
どちらかを助ければ、もう一人が死ぬ。
月が二つあっても、見間違えない。
そう思った。
けれど。
どちらの月が消えてもいいとは、思っていなかった。
視界がにじむ。
表のメイと、目が合った。
いつもと同じ、穏やかな顔。
感情に乱されることのない、凪のような瞳。
その表情が、一瞬だけ崩れた。
寂しそうに。
悲しそうに。
その一瞬を、先代メイは見逃さなかった。
「もらった!」
姿が消える。
瞬間移動したように、表のメイの懐へ入る。
刃が、胸を貫いた。
「――っ」
表のメイの身体が揺れる。
剣が背中まで抜けていた。
先代メイは、柄を握ったまま笑う。
「勝った!」
表のメイが膝をつく。
「エイユ!」
先代メイが俺を振り返った。
顔いっぱいに、子供のような笑みを浮かべている。
「やった……あたし――」
轟音。
先代メイの上半身が消えた。
何が起きたのか、理解できなかった。
遅れて、熱いものが顔へ飛んでくる。
赤い霧。
黒い髪。
剣を握った右腕が、床を転がった。
人民軍の増援が、搬送区画の入口に並んでいる。
大型ライフルの銃口から、煙が上がっていた。
先代メイの下半身だけが、その場に残っている。
「……メイ?」
声が出なかった。
さっきまで、笑っていた。
俺の名前を呼んでいた。
別々のまま、隣にいると言った。
処置されても、自分を探してほしいと言った。
月が二つあっても、見間違えないと――
「メイ……?」
返事はなかった。
「エイユ、逃げる!」
GENEは備え付けられた金属製の医療装置をはぎ取る。
「オレ、残る」
「なんで――」
GENEは医療装置を盾のように構えた。
「オレが決めた」
GENEが咆哮した。
声にならない、獣のような叫びだった。
そのまま、増援へ突っ込んだ
ライフルが火を噴いた。
装置を貫通し、青白い身体へ、いくつもの穴が開く。
肩が砕ける。
腹部が裂ける。
それでも止まらない。
兵士と銃が、まとめて押し潰された。
そしてそれと同時に、青白い身体が崩れ落ちる。
俺は動けなかった。
あたりには死体の山。
不気味なほどに、静かだった。
「うっ……」
うめき声が聞こえる。
床に倒れている表のメイ。
その手が、わずかに動いた。
「メイ!」
俺は駆け寄った。
胸には剣が刺さったままだ。
白い衣服が、赤く染まっている。
「俺……」
何を言えばいい。
先代メイを止めなかった。
表のメイを助けなかった。
どちらも選べず、ただ見ていた。
「ごめん……俺……」
「謝る必要は、ありません」
表のメイの声は、かすれていた。
「先代個体をおびき寄せるために、あなたを利用したのは私です」
表のメイが、血に濡れた指で剣へ触れる。
「あなたを自由に行動させれば、彼女は必ず現れると考えました」
穏やかな声だった。
だが、ほんの少しだけ震えている。
「あのAIが研究所を破壊することまでは、予測できませんでした。私の判断は、失敗だったようです」
「そんなこと、今はどうでもいい。治療を――」
「私が死んでも、記録された遺伝情報と記憶をもとに、次のメイが作られます」
「それは、あんたじゃない」
言葉が口からこぼれた。
表のメイの目が、わずかに開く。
「……そうかもしれませんね」
あっさりと認めた。
以前なら、個体の差異に意味はないと答えただろう。
「エイユ。逃げてください」
「一緒に行こう」
「間もなく、さらに追手が来ます」
表のメイの手が、俺の手首へ触れた。
皮膚の下に、小さな熱を感じる。
「何を――」
わずかな痛み。
彼女の指先へ、透明な細片が吸い出された。
握手をしたときに埋め込まれた、感覚共有端子だった。
「これで、あなたの位置と感覚は追跡できません」
「どうして外すんだ?」
「あなたは、共同体の重要施設へ侵入し、反逆者へ協力し、多数の兵士の死に関与しました」
「……ああ」
「もはや、客人として穏便に共同体へ迎えることはできません。次に捕まれば、ただでは済まない」
「だから、なんで俺を助ける?」
俺を利用したのなら。
先代メイを捕らえるための餌としか見ていなかったのなら。
最後まで、共同体のために使えばいい。
「俺は、あんたを助けなかった」
「…………」
「先代メイが剣を向けたとき、何もできなかった。それなのに、なんで俺を逃がすんだよ」
表のメイは、すぐには答えなかった。
自分でも理解できないものを探すように、俺の顔を見つめている。
「分かりません」
初めて聞く言葉だった。
何を尋ねても、必ず答えを持っていた女が。
心理学も、医学も、歴史も、詩も知っていた人が。
自分の行動の理由だけを、説明できなかった。
「合理的な判断では、ないのでしょう」
呼吸が浅くなる。
黒い瞳から、少しずつ光が失われていく。
「エイユ」
「何?」
「一つ、教えてください」
表のメイが、遠くを見るように目を細めた。
「今も……月は留まっていますか?」
公園を流れていた蛍。
深い宮へ差し込む月の光。
誰かを想っているわけではない。
天体の運行に、人間が意味を見いだしているだけ。
それでも、月はそこにいた。
俺は、メイの手を握った。
「ああ」
声が震える。
「月は留まっている」
メイの瞳が、俺を見る。
「留まっているよ。今も、ずっとそこにいる」
「そうですか」
メイは、ほんの少しだけ笑った。
茶室で見たものよりも、不完全な笑顔だった。
けれど、今までで一番、人間らしく見えた。




