第五十六話 作戦は成功しました。仲間はいなくなりました
第五十六話 作戦は成功しました。仲間はいなくなりました
決行の日。
午後七時。
俺たちは、タダシが教えてくれた保守区画からリフレッシュセンターへ侵入した。
前方を、先代メイとMASARUが進んでいる。
最初の隔壁へ到着すると、先代メイが腕につけた端末を認証装置へかざした。
先日、表のメイから複製した第一書記の認証鍵だ。
《第一書記権限を確認》
《封鎖を解除します》
重い扉が、音もなく左右へ開いていく。
「通った」
先代メイが端末を外す。
「でも、ここからは急いだほうがいいね」
「もう気づかれたのか?」
「第一書記がいない場所で、第一書記の認証鍵が使われたんだよ。記録を確認されたら、それで終わり」
隔壁の先には、白い床と壁に囲まれた長い通路が延びている。
《人格適合処置区画》
壁に埋め込まれた装置が、通行者の脳活動を読み取り、共同体に不適合な思考を検出する。
人間が進めば、記憶や感情を処置される可能性がある。
だが、MASARUは機械だ。
「ここから先は俺に任せろ」
MASARUの脚部から駆動音が響いた。
「ARIAを連れて、すぐ戻る」
MASARUは適合通路へ入っていった。
先代メイも長くは留まれない。
「じゃあ、あたしも。追手を撒いてくる。あんたはここで待ってて」
「一人で大丈夫なのか?」
「心配してくれるんだ?」
「普通に心配するだろ」
「ふうん。そっか」
こんな状況なのに、妙に機嫌がよくなった。
「じゃあ、あとで」
俺の頬へ触れようとして、やめる。
そのまま身を翻し、通路の暗がりへ消えていった。
残されたのは、俺とタダシだけだった。
俺たちの役目は、施設の入口付近で待機すること。
職員が来た場合は、設備点検を装って時間を稼ぐ。
何か異常が起きれば、俺がスキルで対処する。
あとはMASARUがARIAを解放するのを待てばいい。
◇
どれくらい待っただろう。
五分か、十分か。壁の向こうで機械が動いている。
「……おかしい」
隣で、タダシが呟いた。
「どうした?」
「おかしい……そんなはずは……」
顔から血の気が引いていた。
両手を見つめ、小刻みに震えている。
「タダシ?」
「私は……ここで働いていない」
「え?」
「でも、施設の構造も、監視が切れる時刻も知ってたじゃないか」
「分かりません。なぜ私は知っていたんだ?」
タダシが俺の腕をつかんだ。
「思い出せないんじゃない。違う。最初から、そんな記憶はなかった」
タダシの呼吸が荒くなる。
「それだけじゃない」
こちらを見た。
その目には、縋りつくような恐怖が浮かんでいる。
「私には父がいて、母がいて、幼い頃には休日になると川へ連れていってくれた」
「だったら、その記憶は――」
「川へ行った記憶はあるんです。それなのに――顔がまるで出てこない」
声が震えた。
「わからない……私は……私は誰なんだ……」
タダシが頭を抱えている。
「死ぬのが怖くなって、再利用から逃げた。それすら、私が選んだことなのか?」
直後。
施設全体が赤く染まった。
《警告》
《未承認のシステム操作を検出》
《全区画を封鎖します》
けたたましい警報音が鳴り響く。
「見つかったのか?」
隔壁が閉じ始める。
遠くから、いくつもの足音が聞こえてきた。
その瞬間。
腹の底まで揺らすような爆発音が響いた。
ここではない。
もっと遠く。
地面の奥を伝わってきた、巨大な衝撃。
天井から細かな埃が降り、照明が何度も明滅する。
《中央生体研究所との通信が途絶》
《第九地下区画において連続爆発を確認》
ARIAだ。
解放に成功した。
ARIAが中央生体研究所を掌握し、遺伝子改変ウイルスの研究施設を破壊している。
「やった……」
目的は達成した。
そのはずだった。
通路の両側から、人民軍の兵士がなだれ込んでくる。
逃げ道はなかった。
「武器を捨ててください」
銃口が、俺とタダシへ向けられる。
俺は武器など持っていない。
タダシは頭を抱えたまま、床へ座り込んでいた。
俺たちの作戦は成功した。
そして俺たちは、捕まった。
◇
連れていかれたのは、窓のない独房だった。
白い壁。
白い床。
寝台すらない。
正面には透明な隔壁があり、その向こうを人民軍の兵士が巡回している。
タダシがどこへ連れていかれたのかは分からなかった。
「エイユさん」
隣から声がした。
壁の一部に、小さな通気口がある。
「ハルトマン?」
「ええ。私です」
「無事だったのか?」
「無事と呼べる状況かは、少々疑問ですが」
いつもと変わらない、穏やかな声だった。
「何があった?」
ハルトマンが乾いた笑いを漏らす。
「まさか、タダシが人格改変されていたとは」
「タダシは俺たちを騙してたのか?」
「いつからかはわかりませんが、おそらく、本人も気づかないうちに偽の記憶を与えられていたのでしょう」
それなら、誰を責めればいいのか分からない。
「MASARUは?」
「彼は適合通路を突破しました。ARIAの拘束解除にも成功したようです」
解放されたARIAは、すぐに中央生体研究所の制御権を奪取。
遺伝子改変ウイルスの原型株、研究資料、製造設備をすべて破壊し、自身の人格データを学院へ送信したらしい。
目的は、すべて達成された。
「じゃあ、アジトは?」
「人民軍に制圧されました」
胸の奥が冷たくなる。
「先代メイとGENEは逃げたようです。私は資料を持ち出そうとして、少し遅れました」
「そんなもの、放っておけばよかっただろ」
「記者にとって、事実は命より少しだけ重いことがあるんですよ」
いつもの穏やかな口調だった。
「まあ、ここで死んだとしても、悪くはありません。正しいと思ったもののために生きた。その事実は残ります」
「死ぬ前提で話すなよ」
「そうですね。できれば、次号の原稿までは仕上げたい」
扉の向こうから足音が聞こえた。
隣の独房が開く。
「お迎えのようです」
透明な隔壁が開く音がした。
「待て! そいつをどこへ連れていく!」
俺は隔壁を叩いた。
兵士はこちらを見ようともしない。
足音が遠ざかっていく。
俺は何度も隔壁を叩いた。
◇
時計のない独房で、表のメイの顔を思い出した。
表のメイは、俺が裏切ったと知ったのだろうか。
次にあの人と会ったとき、何と言えばいい。
何を言っても、言い訳にしかならない。
アレイシアに頼めば、俺一人は逃げられるかもしれない。
けれど。
タダシは。
ハルトマンは。
先代メイたちは。
俺だけ帰って、それで終わりにしていいのか。
考えていると、隣の隔壁が開く音がした。
「ハルトマン?」
俺は立ち上がった。
足音が近づき、隣の独房へ誰かが入れられる。
隔壁が閉じた。
「ハルトマン、無事なのか?」
「ええ」
同じ声だった。
けれど、何かが違った。
「何をされた?」
「簡単な治療です」
「治療?」
「私は、人民秩序共同体について、いくつか重大な誤解をしていたようです」
背筋が冷えた。
「何を言ってるんだ?」
「人格適合処置は、人民から感情を奪うものではありません。社会生活を困難にする認知の偏りを修正する、医療行為です」
「お前、さっきまで全然違うことを言ってただろ」
「たしかに、以前の私は、国外の価値観に影響されていました」
声には迷いがなかった。
「この国では、人間から感情を削ることを治療と呼ぶ。それを誰もおかしいと言わない――そう言っただろ」
隣から、困惑したような沈黙が返ってきた。
「はい。ですが、それは全くの誤解だった」
「ハルトマン……」
同じ声。
同じ話し方。
怒鳴りもせず、穏やかに言葉を選ぶ癖も同じだった。
それなのに、もうハルトマンではなかった。
「雑誌は? 記事はどうする?」
「誤った情報を広める行為は、重大な加害です。残存する資料は、私の手ですべて回収します」
「ハルトマン!」
「あなたも早く誤解から解放されることを願っています」
足音が遠ざかっていく。
別れの言葉すらなかった。
◇
「くそ……」
一人になった。
目的は達成した。
ARIAは助かった。
ウイルスも消えた。
なのに、何一つ勝った気がしない。
「ずいぶん派手に失敗したもんだな」
背後から声がした。
振り返る。
何もない空間が揺らぎ、人の輪郭が浮かび上がった。
背景へ溶け込んでいた色が剥がれていく。
「MASARU……?」
「よお」
MASARUが片手を上げた。
全身に細かな傷がある。
服の一部は焦げ、左腕の表面が剥がれて内部の金属が見えていた。
それでも、いつもと変わらない顔をしている。
「無事だったのか!」
「無事に見えるか? 修理代の請求先を考えるだけで頭が痛いぜ」
胸の奥に溜まっていたものが、一気にほどけた。
こいつが来たなら、まだ何とかなる。
「よかった……」
思わず、息を吐いた。
「これで何とかなる」
「ならねえよ」
MASARUが言った。
声は軽い。
けれど、その目は笑っていなかった。
「ハルトマンの兄貴も、あのざまだ。アジトは潰された。レジスタンスはもう終わりだな」
「先代メイは? どこにいる?」
「知らねえ」
「探してくれ」
「断る」
即答だった。
「どうして?」
「俺は仕事で来てるだけだ」
その瞬間、MASARUから、いつものくたびれた会社員の雰囲気が消えた。
声も姿勢も変わっていない。
それなのに、目の前にいるのが人間ではなく、潜入任務のために作られた機械なのだと思い知らされた。
「リフレッシュセンターへ潜入したのは、内部情報を抜く価値があったからだ。ARIAの解放にも、俺の雇い主にとって利益があった」
「一緒に酒を飲んだだろ」
「飲んでねえよ。俺は容器を持ってただけだ」
「そういう話じゃない」
「分かってる」
MASARUは短く答えた。
「分かったうえで言ってる。俺には、あいつらのために危険を冒す義理がない」
「せめて、俺をここから出してくれ」
「それも断る」
「なぜだよ!」
「お前を連れ出せば、警備網が全面封鎖される。俺までこの国から出られなくなる」
「俺を置いていくのか?」
「そうだ」
迷いはなかった。
言葉の一つ一つが、妙に冷たかった。
隠れ家で酒を囲んだとき。
馬鹿な冗談を言っていたとき。
あれもすべて、仕事のための演技だったのだろうか。
「じゃあ、何をしに来たんだ?」
「顔を見に来た」
「俺の?」
「一応、一緒に仕事をした仲だからな」
それだけ言って、MASARUはステルスクロークを起動した。
輪郭が薄くなる。
「MASARU!」
「達者でな、旦那」
声だけが残る。
「短い付き合いだったが、悪くなかったぜ」
足音すら聞こえない。
しばらくすると、独房の扉が開き、閉じる音だけがした。
また、一人になった。
◇
白い壁を見つめる。
地下の隠れ家を思い出した。
医療用エタノールを薄めて、乾杯した。
先代メイは酔って絡んできた。
ハルトマンは、この国のおかしさを外へ伝えたいと言った。
GENEは、穴を掘って埋める仕事に意味がないと気づいた。
タダシは、死ぬのが怖いと言った。
MASARUは、空の容器を持っていた。
あのときは、怪しい奴しかいないと思った。
狭くて、汚くて、酒までまずかった。
それでも、この国へ来てから初めて、少しだけ安心できた場所だった。
その場所は、もうない。
作戦は成功した。
遺伝子改変ウイルスは破壊された。
ARIAも救出できた。
俺たちは、やるべきことをすべてやり遂げた。
その代わりに。
仲間が、一人ずついなくなった。
タダシは、自分の記憶のどこまでが本物なのかわからなくなっています。
作者は、この小説がどこまで読まれているのかわからなくなっています。
もしここまで読んでいる方がいたら、
感想でも評価でも、一言いただけると嬉しいです。
「読んでる」だけでも大歓迎です。




