第五十五話 月が二つあっても、見間違えません
第五十五話 月が二つあっても、見間違えません
翌朝、目を覚ますと、頭が妙にすっきりしていた。
人民の簡素な衣装に着替える。白い壁と最低限の家具しかない部屋も、以前ほど殺風景には見えない。
「慣れてきたのかな」
『昨日まで帰りたいって言ってなかった?』
アレイシアの声がした。
「暮らしてみると、穏やかでいいところもある」
『ふうん』
壁面モニターには、メイから伝言が届いていた。
《本日午前、中央庭園にてお待ちしています》
ちょうどいい。ARIAを解放するには、メイが持つ第一書記の認証鍵が必要になる。
指先に、MASARUから渡された薄い複写膜を貼った。
彼女の腕の端末に三秒触れれば、鍵を複製できる。
こちらから接触する方法を考えていたところだった。
◇
中央庭園の奥に、小さな茶室があった。
窓の向こうには、白い砂と三つの石が見える。一つだけ窓枠に隠れ、全体の形が分からない。
「穏やかだな……」
「そう感じていただけたなら、よかったです」
メイがお茶を注いだ。
「ここからは、庭の端が見えないんです。石も、すべては見えません」
「わざと?」
「ええ。見えない先を想像しているうちに、急いで答えを出す気持ちが薄れていきます」
砂の筋を目で追う。隠れた石の形を考えているうちに、俺も時間を忘れかけていた。
「よくできてるな」
「この国を、少しは好きになれそうですか?」
「前よりは」
自然に答えていた。
「メイと話すのも、嫌いじゃない」
「そうですか」
メイが茶碗を置き、俺に向かって微笑んだ。
整った顔立ちは前から知っていたのに、今日はその笑顔から目をそらすのが惜しかった。
『ねえ。今日のあんた、ちょっと変だよ』
「何が?」
「どうかしましたか?」
メイが首を傾げる。
「いや、何でもない」
茶を飲む。苦みのあとに、かすかな甘さが残った。
このまま、何も考えずに話していたい。
そう思ったところで、ARIAの顔が浮かんだ。
「もう一杯、もらってもいいか」
「もちろんです」
空の茶碗を差し出す。受け取るメイの手に、俺の指が触れた。
「悪い」
「いいえ」
一秒。二秒。三秒。
メイは何も言わず、茶碗を俺の前に置いた。
「ありがとう」
いつもどおりの笑顔だった。
茶室を出ようとしたところで、メイに呼び止められた。
「エイユ。次に私の端末へ触れるときは、先に言ってください」
足が止まる。
「……気づいてたのか」
「ええ」
「どうして捕まえない?」
メイはすぐには答えず、窓の外へ目を向けた。
「私は、あなたと一つになりたいと思っています」
黒い瞳が、まっすぐ俺をとらえる。
一瞬、心臓が跳ねた。
「それは……どういう意味で?」
「思考や感覚を隔てる境界をなくしたいんです。あなたと私だけでなく、いつか、すべての人間が」
「ああ。そっちか」
「ほかに、どのような意味が?」
「何でもない」
危ない。とんでもない勘違いをした。
「少し残念そうですね」
「気のせいだ」
メイは微笑んだまま、話を戻した。
「今、あなたを止めれば、私から逃げようとするでしょう?」
「当たり前だ」
「だから止めません」
「逃がしてくれるのか?」
「行き先を知りたいんです。あなたがその鍵を使って、どこへ向かうのか」
鍵を複製したことまで、分かっている。
「危険なことに使うかもしれないぞ」
「ええ。それでも、自分で扉を開けた先で見たものなら、あなたも考えるでしょう。この国で、どう生きたいかを」
選ばせてくれているようで、行った先に答えを用意している。
そんな言い方だった。
「また、お茶をしましょう」
「ああ」
断る理由はない。
そう思ってから、自分の答えが少し怖くなった。
◇
アジトへ戻ると、先代メイが入口で待っていた。
「おかえり」
「ああ」
彼女が胸元へ顔を近づける。
「お茶の匂いがする」
「嗅ぐなよ」
「鍵を盗むのに、あの女とお茶する必要ある?」
「仕事だよ」
「私がいるのに?」
「関係ないだろ」
「……次は殺すね」
そこへMASARUがやってきた。
「男が仕事で女と茶を飲むくらい、許してやれ」
「許せない」
「俺なんか若いころ、仕事から帰ったら知らない男の靴が――」
「お前に若いころなんてないだろ」
「そうだった。製造されたときから、この渋さだったわ」
MASARUは複写膜を受け取り、端末へ接続した。
「鍵は取れてる。危険を冒した甲斐はあったな」
「ほら、仕事だっただろ」
「仕事でも嫌」
先代メイは納得しなかった。
◇
潜入するのは、俺、先代メイ、MASARU、タダシの四人だ。
先代メイは、第一書記の遺伝情報を使って生体認証を解除する。
MASARUは人格適合処置の影響を受けないため、適合通路の突破とARIAを拘束する装置の解除。
俺は中継区画で待機し、警備に見つかった場合、原生生物を誘導して追跡を妨害する。
そしてタダシは、以前リフレッシュセンターの保守を担当していたらしく、施設内の案内役を務める。
「なんで、みんな俺のためにそこまでしてくれるんだ?」
「あんたが好きだから」
先代メイが即答した。
「俺は諜報活動の一環だ」
MASARUが続ける。
最後に、タダシを見る。
「私は……よく分かりません」
「分からない?」
「ええ。ですが、リフレッシュセンターで働いてきたのは、この時のためだった――そんな気がするんです」
タダシは、自分の胸へ手を当てた。
「ずいぶん大げさだな」
「自分でも、そう思います」
そう言いながら、タダシの声には奇妙な確信があった。
タダシは施設図を開き、一か所を指した。
「毎日午後七時、監視系統が三十二秒だけ予備回線へ切り替わります。その間なら、保守用通路へ入れます」
「ずいぶん正確に覚えてるんだな」
「何度も利用しましたから」
MASARUはタダシの図面を見てうなずき、別の箇所を指した。
「潜入用の保守中継器が一つ足りない。旧規格の現物が必要だ」
「北区画の再資源化場に、古い作業機械がある」
先代メイが立ち上がる。
「じゃ、取ってきてくれ。俺は鍵を加工する」
「俺も行くのか?」
「若い男女が夜道を歩く理由まで用意してやったんだ。感謝しろ」
「余計な気遣いするな」
「ほら、行こ」
先代メイだけは楽しそうだった。
◇
再資源化場には、廃棄された機械が金属の山になっていた。
先代メイが半分潰れた作業機械の外装を剥がし、黒い部品を取り出す。
《第九世代保守中継器》
《動作状態:不明》
「使えるのか?」
「MASARUなら何とかするでしょ。そういうときだけは役に立つから」
部品を持ち、街灯のない外周路を戻る。
瓦礫の向こうに、白い月が浮かんでいた。
「月が綺麗だね」
先代メイが言う。
それ、遠回しに愛してるって意味じゃなかったか。
いや、この世界で同じ意味とは限らない。下手に肯定すれば、明日には結婚したことになっているかもしれない。
「……月の光が、寂しいって意見もある」
表のメイが詠んだ《長門怨》を思い出して答えた。
先代メイの足が止まる。
「あいつ、詩を詠んだ?」
「……うん」
「あんたも返した?」
「うん」
しばらく無言で歩いたあと、彼女が俺の前に回り込んだ。
「あたしには?」
「何が?」
「詩」
「急に言われても作れないよ」
「あいつには作ったんでしょ」
「スキルを使ったんだよ」
「じゃあ、あたしには使わないで。あんたが考えて」
黒い瞳が、まっすぐこちらを見る。
夜空を見上げる。白い月と、その下に立つ、表のメイと同じ顔をした女。
だが、同じには見えなかった。
「月が二つ、浮かんでいても」
思いつくまま口にした。
「同じ光には見えない。一つは静かに、夜を照らして――」
「もう一つは?」
「……酒を飲みすぎる」
「は?」
「嫉妬すると、すぐ顔に出る。笑い方も、たまに全然かわいくない」
「詩って悪口を言うものだっけ?」
「面倒くさいし、素直じゃないし、どうしようもないところも多い」
「殺すよ?」
「でも、そういうものを一つずつ取り除いたら」
酒を飲まない。嫉妬しない。怒らない。
何も欲しがらない彼女を想像した。
「最後には、きっと綺麗な月が残る。でもそれは、もう俺が見ていた月じゃない」
先代メイが黙った。
遠くで、金属板が風に揺れる音がした。
「……終わり?」
「終わり」
「詩ですらないじゃん」
「途中まで悪口だった」
「事実を並べた」
「やっぱり殺す」
そう言いながら、口元が緩んでいる。
「この月っていうのは――」
「説明はあとでいい」
「え?」
「これ、あたしのことだよね?」
「まあ、そう」
「ほかの女、混ざってない?」
「詩に浮気判定するなよ」
「一応、確認しただけ」
彼女は俺の腕に、自分の腕を絡めた。
「そういえば、何で李白を知ってるんだ?」
「地球の詩人でしょ。最初の移民船が、文化の記録を持ってきたから」
「地球か。あそこにも月があったんだよな」
「あったよ」
先代メイは空を指さした。
「でも、この惑星に自然の月はない。あれは、昔の人が地球の月に似せて作った人工天体」
「人工物だったのか」
遠い故郷を忘れたくなくて、人々が空へ浮かべた月。
本物ではないと知っても、さっき見た光は変わらなかった。
「ねえ。あたし、あんたと一つになりたい」
「……それ、告白?」
「うん」
「意外と普通――」
「皮膚も、血も、記憶も」
「待て」
「あんたが見たものをあたしも覚えてる。どこまでがあんたで、どこからがあたしか分からないくらい、混ざりたい」
「急に怖くなったぞ」
「そうすれば、離れられないでしょ。どちらかが死んでも、残ったほうが二人分覚えていられる」
冗談を言っている顔ではなかった。
「俺は、お前と一つにはならない」
先代メイの笑顔が消える。
「……どうして?」
「お前が消えるのも、俺が消えるのも嫌だからだ。別々のままでいたい」
「それって、離れたいってこと?」
「違う。別々でも、隣にはいられるだろ」
彼女は俺の顔をじっと見た。
「……今のあたしのままがいい?」
「そのほうがいい」
「そっか」
嬉しそうに、腕を抱く力が強くなる。
「じゃあ、別々のまま、ずっと隣にいる」
「ずっととは言ってない」
「死んだあともね」
「まず死後の話をやめろ」
先代メイは笑った。だが、しばらく歩くと、その笑顔が消えた。
「もし、あたしがしくじったら」
「縁起でもないこと言うな」
「もしもの話」
彼女は腕を離し、乱れた髪を整える。背筋を伸ばし、表のメイと同じ穏やかな顔を作った。
「処置されて、酒も飲まなくなって。怒らなくなって。あんたが誰と話しても、何とも思わなくなって」
声まで似ていた。
「個人への執着は治療されました、なんて言い始めても。あんた、ちゃんと気づいてくれる?」
「気づくよ」
「本当に?」
「お前は、そんな聞き分けのいい女じゃないだろ」
「……それ、褒めてる?」
「一応」
少し笑って、彼女は俺の肩へ額を預けた。
「ちゃんと、あたしを探してね」
「ああ。約束する」
そのまま歩き出して、ふと月を見上げる。
同じ顔をした人間がいても、きっと彼女を見間違えない。
そう思いながら、月の下を歩いた。




