第五話 聖女様に異端認定されそうです(前編)
文字数が多くなったため分割しました。内容に変更はありません。
気づくと、周囲の景色が変わっていた。
つい先ほどまで存在していた防壁も、砲台も、仮設の建物もない。
兵士たちが運び出したわけではなかった。
防壁は形を失い、銀色の泥のように崩れ落ちると、地面を這って小さな容器へ吸い込まれていった。砲台や机、椅子までもが同じように溶け、数分もしないうちにキャンプは跡形もなく消滅した。
残っているのは、踏み荒らされた赤い大地と、怪物の死体だけだ。
「何だ、あれ……」
「グラディエンの構造流体です」
赤毛の女性が答えた。
「必要な物資をその場で形成し、不要になれば素材へ戻す。彼らは戦場に長く痕跡を残しません」
未来だ。
俺の想像していた異世界と、だいぶ違う。
剣と魔法の世界かと思っていたら、兵士は銃を撃ち、キャンプは銀色の塊になって消えた。
それなのに、目の前には白い法衣をまとった聖女らしき女性と、巨大なメイスを持った騎士がいる。
世界観が混雑していた。
「改めて、ご挨拶いたしますね」
女性は俺の前で法衣の裾をつまみ、丁寧に頭を下げた。
「私の名はシスター・ミリア。《神々の僕》に仕える神官です」
白いフードの隙間から、柔らかな赤い髪がのぞいている。少し丸みを帯びた大きな緑色の瞳と、穏やかな顔立ち。聖女というより、育ちのよい町娘のようにも見えた。
「そして、こちらがギデオンとボアズです」
ミリアの右に立つ銀鎧の男が、無言で胸へ拳を当てた。
左の男も同じ動作をする。
どちらがギデオンで、どちらがボアズなのかは分からなかった。
そして俺は今、その二人に両腕を掴まれている。
「あなたのお名前は?」
来た。
またこのやり取りだ。
「お、俺の名前ですか……」
兵士たちに聞かれたときと同じように、記憶を探る。
何も出てこない。
自分がどこで生まれ、どんな人生を送り、どうやって死んだのか。
地球の文化や知識は覚えているのに、自分に関することだけが不自然なほど抜け落ちている。
黙っていれば、また怪しまれる。
何か答えなければ。
「勇者というか……英雄というか……」
「はい?」
「エイユ」
口から出た。
「そう、エイユです」
ひどい。
英雄だからエイユ。
いくら追い詰められていたとはいえ、もう少し何かなかったのか。
「エイユさん」
ミリアは疑うことなく繰り返した。
「我々の文化圏では聞かないお名前ですね。どちらから来られたのですか?」
「ええと……ずっと向こうです」
俺は歩いてきた方角を顎で示した。
「あの、大きなカニみたいな怪物がいる辺りから……」
ミリアの笑顔が消えた。
両腕を掴む護衛の手に、わずかに力がこもる。
「本当に、あちらから?」
「はい。何時間か歩いてきました」
「奇妙ですね」
ミリアは赤い荒野の先へ目を向けた。
「あの一帯は、人間が生存できる環境ではありません。大気には有害物質が含まれ、地表の水も原生生物以外には猛毒です」
「えっ」
知らなかった。
水を見つけても、飲む前に鑑定しよう。
「エイユさんは、本当にあちらにお住まいだったのですか?」
「住んでいたというか、気づいたら地面に倒れていて……」
「人の住めない土地から、一人で歩いてきたと?」
声は優しい。
だが、完全に疑われている。
無理もない。
人間が住めない場所から突然現れ、名前も所属も答えられず、ソウル・フライを一声で追い払った正体不明の男。
俺が逆の立場でも、悪魔かスパイだと思う。
「エイユさん」
ミリアが俺をまっすぐ見つめた。
「この惑星は、恐ろしい場所です。だからこそ、我々は苦しむ者を救いたいと願っています」
柔らかな口調だった。
「ですが、救いの手を差し伸べる前に、確認しなければならないことがあります」
「確認?」
「我々《神々の僕》は、人を神聖な存在と考えています。神より授けられた肉体を捨て、機械と融合すること。そして、人の都合で遺伝子を作り替え、別の生物へ近づこうとすること――」
ミリアの大きな瞳から、笑みが消えていた。
「それらはすべて、人が自らを神の座へ引き上げようとする傲慢です」
背後に立つギデオンとボアズが、静かに俺を見下ろす。
「我々は、技術そのものを否定しているのではありません。しかし、人が人でなくなる技術には、越えてはならない一線がある。エイユさんがその一線を越えた者でないことを、確かめさせてください」
「もし、越えていたら?」
ミリアは少し悲しそうに目を伏せた。
「その魂が、再び正しい道へ戻れるよう努めます」
具体的に何をするのかは言わなかった。
言わない方が怖かった。
俺の腕を掴む二人の力が強くなる。
やばい。
このままでは、また尋問ルートだ。
何かないか。
俺が怯えて挙動不審になるほど、向こうは俺を怪しむ。その結果、さらに俺が怯える。
完全に悪循環だ。
せめて、もう少し堂々と振る舞えれば。
そのとき、先ほど獲得した能力が脳裏をよぎった。
《万物を跪かせし絶対王者の威圧――キング・オブ・プレッシャー》
対象の精神へ圧力を与え、恐怖や萎縮を引き起こす能力。
ほんの少しだけ使って、こいつは簡単に取り押さえられる相手ではない――そう思わせるだけだ。
対等に話すための、ちょっとした威厳。
それくらいなら、たぶん問題ない。
俺は大きく息を吸った。
「万物を跪かせし絶対王者の威圧――キング・オブ・プレッシャーああああッ!」
荒野に絶叫が響き渡った。
ミリアたちの身体が、ほんの少しこわばる。
だが、それだけだった。
《対象の精神抵抗力が、スキル出力を上回っています》
静寂。
ミリアが目を丸くしている。
ギデオンとボアズも、呆然と俺を見ていた。
やがて、ミリアの頬が小さく震え始めた。
「……ぷっ」
口元を押さえる。
「ふふっ……ご、ごめんなさい。キング・オブ……プレッシャー……」
ついに耐えきれなくなり、声を上げて笑いだした。
「あはははっ! な、何ですか、それ……!」
先ほどまでの聖女らしい厳粛な雰囲気が、跡形もなく吹き飛んだ。
両脇の護衛も、顔を背けて肩を震わせている。
「ミリア様、笑い事ではありません」
ギデオンらしき男が、必死に真顔を保とうとする。
「異端の怪しい呪文かもしれません。キング・オブ……ふふっ……プレッシャー……」
「違います! 俺が考えたんじゃありません!」
全力で弁明する。
「女神様です! 女神様が勝手につけた名前なんです!」
笑い声が止まった。
空気が、再び張り詰める。
ミリアが口元から手を下ろした。
「女神……?」
しまった。
この人たちの前で、軽々しく使ってはいけない言葉だったらしい。




