第五十二話 危うく今朝の朝食相手を殺しかけました
第五十二話 危うく今朝の朝食相手を殺しかけました
翌朝。
目を覚ました瞬間、自分でも不思議なくらい頭が冴えていた。
普段なら、しばらく天井を眺めながら、起きる理由を探すところだ。
今日は違う。
身体が軽い。
眠気も、昨日まで続いていた妙な緊張もない。
寝台から起き上がると、壁面モニターが点灯した。
《おはようございます》
《睡眠時間:七時間四十二分》
《睡眠効率:九八・三パーセント》
《理想的な休息が得られました》
「そんなに寝たのか」
◇
食堂へ行く。
本日の献立は、第七標準朝食だった。
穀物を固めた四角いもの。
薄いスープ。
野菜らしき緑色のペースト。
どれも栄養上は完璧なのだろう。
味については、昨日と同じだった。
「薄いな……」
「塩分量は生体情報に基づいて調整されています」
隣から声がした。
振り向くと、メイが立っていた。
もちろん、先代のほうではない。
長い黒髪は綺麗に整えられ、背筋はまっすぐ伸びている。
昨日、地下で医療用エタノールを飲んでいた女と同じ顔には見えなかった。
「おはようございます、エイユ」
「おはよう」
「ご一緒しても?」
「どうぞ」
メイが向かいへ座る。
メイはスープを口へ運んだ。
箸も匙も、相変わらず無駄のない美しい動きだった。
彼女の盆にも、俺とよく似た食事が並んでいた。
「これ、毎日食べて飽きないのか?」
「標準朝食は七種類あります」
「七日で一周するだけだろ」
「何曜日か分かるだけでも、生活には輪郭ができますよ」
「食事を楽しむって発想は?」
「ありますよ」
花に美しさを感じるのと同様、情緒を完全になくした人ではないらしい。
ただ、それに執着しない、乱されない。
凪のように穏やかだった。
思想が関係しなければ、やはり感じのいい人なのかもしれない。
俺も少し笑いかけて、ふと彼女の手を見る。
握手をした手。
あのとき、チップを埋め込まれた。
なぜそんなことをしたのか。
何を知ろうとしていたのか。
問いただそうかと思った。
だが、すぐにやめた。
相手は心理学の達人だ。
俺が端子の存在を知っていると悟られれば、どこで知ったのかまで探られる。
下手な芝居を打つべきではない。
端子が機能していないと気づかれれば、レジスタンスとの接触まで疑われるかもしれない。
「エイユ」
「え?」
「昨晩は、よく眠れましたか?」
心臓が跳ねた。
レジスタンスと接触したことに気づいたのか。
いや、端子から送られる信号は弱めてもらった。
大丈夫なはずだ。
「どうして?」
「目の動きが昨日より安定しています。顔色もよい」
「よく眠れたよ。驚くくらい目覚めもよかった」
「それは何よりです」
メイが微笑む。
「こちらでの暮らしにも、少し慣れてきたようですね」
ただの世間話のはずなのに、なぜか引っかかった。
「では、私は執務がありますので」
メイが立ち上がる。
「またお会いしましょう、エイユ」
「ああ。また」
◇
作戦開始前。
盗聴される恐れのない点検区画で、ソフィヤへ連絡した。
配管の奥で大型の送風機が回り、低い駆動音が床を震わせている。
「こちら、ステルス・マスターX。予定どおり、これから作戦を開始する」
『了解した。例の生物は手元にあるか』
「ああ」
箱を開く。
乳白色の原生生物は、脚を折り畳んだまま動かなかった。
『待て。そのまま使用するな』
「何で?」
『念のため、調べる』
携帯端末から細い光が伸び、白い身体を走査した。
『原生生物の尾部神経へ、機械式端子を直接接続している。ひどく雑なサイボーグだな』
「動けばいいって作り方だな」
『問題は生物ではない。組み込まれているプログラムだ。解析する』
しばらく待つ。
『……なるほど』
「何かあった?」
『情報の転送方式が古すぎる。このままでは制御信号を逆探知される』
「つまり?」
『君が侵入させたと特定される』
「危なっ!」
何が簡単な情報収集だ。
成功しても、俺の身元だけが証拠として残るところだった。
『まだある』
「まだ?」
『端末へ接続した際、情報を窃取するプログラムと同時に、施設管理系へ別の命令を登録するようになっている』
小さな画面に解析結果が表示される。
《対象:第一書記・現行個体》
《指定区画への入室を検知》
《隔壁封鎖》
《防火設備作動》
《不活性消火ガス最大濃度放出》
「これ……」
『現在のメイが指定区画へ入ると、部屋を封鎖し、酸素濃度が致死域へ下がるまで消火ガスを充満させる』
「完全に殺す気じゃねえか!」
『本人は情報収集だと言ったのか?』
「言った」
『嘘ではない。情報も収集する』
「殺人機能をおまけみたいに言うなよ」
『成功率は低い。現メイなら異常を検知し、区画へ入る前に停止させる可能性が高い』
「だからやっていいわけじゃないだろ」
『今、殺害命令を除去する』
通信機の画面を文字列が流れていく。
『君の制御信号も、虫の神経反射に見えるよう変換する。君が特定されることはない』
「そんなことまでできるのか?」
『その通信規格の原型を設計したのは私だ』
そういえば、共同体が使う技術の多くは学院から盗まれたものだった。
ソフィヤが数値を確認し、短く告げる。
『終了した。これで君の身元が記録されることも、現メイが消火設備に殺されることもない』
「……助かった」
検査せずに使っていたら、俺は今朝、一緒に食事をした相手を窒息死させていた。
油断も隙もない。
「頼もしいな、スパイ・キング」
『今さら気づいたか』
◇
白い原生生物を解き放つ。
俺はその感覚と接続し、意識を送った。
行け。
小さな身体が、配管の隙間へ入っていく。
金属管の間を抜け、換気口を通る。
羽音を立てず、警備装置の死角を縫うように進んでいった。
そのとき、表のメイの顔が脳裏をよぎった。
朝、同じ食卓で話した相手。
よく眠れたかと、穏やかに尋ねてきた人。
街を歩き、蛍を見た。
俺は今、その相手をだまして情報を盗もうとしている。
白い虫の動きが止まる。
『どうした?』
「いや……」
表のメイを信用しているわけではない。
チップを勝手に埋め込み、今も俺を観察している。
そして、学院から盗み出された遺伝子改変ウイルスは、人間の人格そのものを壊しかねない。
あれを放置するわけにはいかない。
「続ける」
『了解した』
虫は行政区画の地下へ入った。
保守用通路を進み、いくつもの配線が集まる壁面へ到達する。
似た形のソケットが並んでいた。
「これか?」
『待て。それは侵入検知用のダミーだ』
「見分けつかないんだけど」
『端子の摩耗状態を見ろ。一度も使用された形跡がない』
言われてみれば、周囲にだけ埃が残っている。
『右から三番目。その下にある、刻印の消えた端子だ』
言われた場所へ虫を移動させる。
尾の先端を差し込む。
《接続》
《認証情報偽装》
《機密領域へアクセス》
通信機の表示が切り替わる。
大量の情報が流れ始めた。
『転送を確認。追跡反応なし』
「成功した……」
『私が同行したのだから当然だ』
今日は本当に頼もしい。
最初から毎回こうであってほしい。
◇
隠れ家へ戻るなり、先代メイへ詰め寄った。
「あれ、どういうことだ?」
「成功したんでしょ?」
「成功したけど、危うく俺がメイを殺すところだった!」
「あー。見つかった?」
先代メイの目が泳いだ。
「殺すプログラムを作ったのはあたしだけど、実際に作動させるのは防火設備でしょ。それに部屋に入るのはあの女じゃん」
先代メイは悪びれもせず答えた。
「それに、あの程度で死ぬとは思ってない。ちょっと苦しめばいいかなって」
「最大濃度で密閉する設定だったぞ」
「……設定ミス」
「手柄を取られたのが、そんなに悔しいのか?」
先代メイの表情から、酔った笑みが消えた。
「それだけじゃない」
容器が、テーブルへ置かれる。
「あいつが存在しているかぎり、あたしは偽物なんだよ」
「偽物?」
「今の第一書記が正統なメイ。あたしは破棄されるはずだった不良品」
容器を持つ指に力が入る。
「あいつがあたしの名前で、あたしの経歴を使って、あたしより正しい顔をして生きてる」
「でも、お前はお前だろ」
先代メイの動きが止まった。
黒い瞳が、俺をじっと見ている。
「名前や記憶が同じでも、お前とあいつは別人だろ。俺は二人と話したから分かる」
「…………」
「俺には本当の名前すらない。でも、世界を救えって言われたからって、それだけで俺の全部が決まるわけじゃない」
うまく説明できない。
「あいつと同じ記憶を持っていても、逃げることを選んだのはお前だ。怒って、あいつを嫌って、ここにいる。それをあいつの偽物とは呼ばないだろ」
長い沈黙があった。
「もう一回」
「何でだよ」
「いいから。もう一回言って」
「お前はお前だよ」
「…………そっか」
その横顔は、昨日までより幼く見えた。
「そっかぁ」
同じ言葉を、今度は小さく繰り返した。
何か決定的に危険な言葉を与えてしまった気もした。
「それで」
ハルトマンが、空気を戻すように声を上げた。
「情報の窃取は成功したのでしょう?」
「ああ」
「なら、約束どおりエイユさんへも情報を提供すべきです」
先代メイが端末を操作する。
「それで、あんたが探してるものって何?」
「学院から盗まれた遺伝子改変ウイルス。それと研究資料と、製造設備」
「遺伝子改変ウイルスねえ……」
窃取したデータを検索する。
「聞いたことないな。あたしの在任中にはなかった技術だと思う」
「今のメイが、あとから始めた研究なのか?」
「たぶんね。でも、遺伝子関係なら、保管できる場所は限られる」
画面に、いくつかの施設情報が並ぶ。
先代メイの指が止まった。
「あー……最悪」
「何か見つけた?」
「中央生体研究所・第九地下区画。とっくに閉鎖されたはずなのに、今も電力と培養資材が送られてる」
ハルトマンの顔が曇る。
「そこは……」
「知ってるのか?」
「七不思議について、お話ししましたね」
「ああ。切り裂き女、顔のない男、十一番目の男――」
「そして、地下の幽鬼です」
思い出した。
閉鎖された地下区画から、助けを求める声が聞こえる。
返事をすれば、二度と帰れない。
「切り裂き女と顔のない男は、結局お前らだったんだよな」
「切り裂き女は、あたし」
先代メイが自分を指す。
「顔のない男はMASARU。顔面偽装が起動前だっただけ」
「おい、それは故障だ。怪談扱いするな」
MASARUが抗議する。
「じゃあ、十一番目の男は?」
「あれはGENEですね」
ハルトマンが答えた。
「労働個体は十体一組で配置されます。彼は監視を逃れて休むため、作業の楽そうな班へ勝手に紛れ込んでいたそうです」
GENEが胸を張る。
「数えた人を無駄に怖がらせるなよ」
「休む、大事」
否定はできない。
「じゃあ、地下の幽鬼もお前らの誰かなんだろ?」
誰も答えなかった。
先代メイの顔から、笑いが消えている。
「……違うのか?」
「違います」
ハルトマンが静かに答えた。
「あの地下の幽鬼だけは、私たちも正体を知りません」
「でも、声がするだけなんだろ?」
「その声に返事をした者は、全員消えています」
閉鎖された研究所。
今も供給される電力と培養資材。
存在しないはずの何かが、地下から人を呼んでいる。
「おそらく、共同体の秘密研究に関係するものでしょう」
ハルトマンが画面を見つめる。
「そして、その存在を知った者は、生きて帰されない」
三つの怪談には、くだらない正体があった。
だから地下の幽鬼にも、そうであってほしかった。
だが、今度は誰も笑っていなかった。




