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第四十九話 切り裂き女から逃げたら、顔のない男がいました

第四十九話 切り裂き女から逃げたら、顔のない男がいました


 切り裂き女だ。


 ハルトマンから聞いた怪談が、頭に浮かぶ。


 あり得ない。


 今どき、そんなベタな怪談が本当に存在するはずがない。


 だが、女の手には刃物がある。


 切っ先から落ちた赤い雫が、街路灯の光を反射した。


 女が笑う。


「ふふっ……」


 瞬きをした。


 ほんの一瞬だった。


 再び目を開けたとき、女との距離が少し縮まっていた。


「……え?」


 歩いているようには見えなかった。


 足音もしなかった。


 見間違いか。


 もう一度、瞬きをする。


 近い。


 さっきまで街路灯の下にいたはずの女が、その光の外側まで来ていた。


 速い。


 どうやって、急に距離を詰めた?


 戦うか。


 逃げるか。


 鑑定するか。


 即死能力を使うか。


 考えがまとまらない。


 そのとき、ハルトマンとの会話を思い出した。


「切り裂き女に追われた人たちは、どうなったんです?」


「逃げ続けたそうです」


「それ、結局は逃げ切れてるじゃないですか」


「そこだけは救いですね」


 ということは、逃げられる。


 女が刃物を持ち上げた。


 俺は背を向け、駆け出した。


 ◇


 助けてくれ。


 誰でもいい。


 誰かがいる場所へ。


 建物の窓は、すべて暗かった。


 この国の人間は、決められた時間に眠る。


 夜中に遊び歩く者も、酒を飲んで騒ぐ者もいない。


 いつもなら秩序正しく見える街が、今は巨大な無人都市にしか見えなかった。


 背後から、気配がついてくる。


 足音は聞こえない。


 ただ、女がすぐ後ろにいると分かる。


 振り返るな。


 絶対に、振り返るな。


 前方に、工事中の建物が見えた。


 扉が開いている。


 考える余裕もなく、中へ飛び込んだ。


 建設途中の倉庫らしい。


 照明はなく、外から差し込む光だけが、積み上げられた資材の輪郭を浮かび上がらせている。


 鉄骨。


 配管。


 袋に詰められたセメントの粉。


 奥へ走り、資材の陰へ身を伏せた。


 口を手で塞ぐ。


 心臓の音がうるさい。


 ドクン。


 ドクン。


 この音だけで居場所が知られそうだった。


「ふふっ……」


 笑い声が、倉庫の入口から聞こえた。


 入ってきた。


「どこにいるの?」


 女の声が、暗闇に響く。


 甘えるような声だった。


「いるの、分かってるよ」


 ゆっくり近づいてくる。


 それでも、足音は聞こえない。


「あなたの感覚を感じるの」


 どういう意味だ。


「隠れたって無駄だよ」


 声の位置が分からない。


 右から聞こえたと思えば、次は左。


 遠くにいるようで、耳元から囁かれているようにも感じる。


「あなたを殺してあげる」


 見える範囲なら、即死能力を使える。


 一撃で決めるしかない。


 息を殺し、資材の隙間から様子をうかがう。


 女は十メートルほど先にいた。


 背中を向け、俺を捜している。


 今だ。


 俺は小さく息を吸った。


「因果を断ち命脈を絶つ終焉魔眼――」


 女が振り返った。


 目が合う。


 次の瞬間。


 さっきまで離れた場所にいた女が、目の前にいた。


「ミツケタぁ」


「うわああああっ!」


 考えるより先に、手が動いた。


 足元にあった袋をつかみ、女の顔へ投げつける。


 袋が破裂した。


 白いセメントの粉が、女の顔と身体を覆う。


「きゃっ」


 女がわずかにのけぞる。


 その隙に立ち上がった。


 資材へ肩をぶつけ、転びそうになりながら倉庫を飛び出す。


 必殺技は不発。


 最後に俺を救ったのは、建築用のセメントだった。


 ◇


 街路へ出る。


 遠くに人影が見えた。


 灰色の制服。


 人民軍の兵士だ。


「助けてください!」


 兵士が立ち止まる。


「切り裂き女が! 倉庫の中に、刃物を持った女が!」


「それはそれは」


 兵士は、どこか間延びした声で答えた。


「それは、大変でしたね」


 人民軍の兵士にしては、妙に軽い調子だった。


 違和感を覚え、顔を見る。


 顔がなかった。


 目も。


 鼻も。


 口も。


 首の上には、肌色の滑らかな面だけが載っている。


「ひえええええっ!」


 兵士がこちらへ手を伸ばす。


 俺は再び走り出した。


 ◇


 来賓室へ飛び込み、扉を閉める。


 壁へ背中を押しつけ、何度も施錠を確認した。


 追ってくる気配はない。


 モニターには、いつもの文字が表示されていた。


《この居室には監視設備は設置されていません》


《安心してお過ごしください》


「何なんだよ、この国……」


 膝から力が抜ける。


「もう帰りてえよ……」


 ベッドへ腰を下ろす。


 手が震えていた。


 俺は、心の中でアレイシアの名前を呼んだ。


 返事があるとは思っていなかった。


『――こちら、シャドウ・ピルグリム』


「…………」


 声を出していない。


 それなのに、アレイシアから返事があった。


 あれ、そういえばメイとの食事中も。


 昨日までは、こんなことはできなかったはずだ。


『潜入中のステルス・マスターXから直接連絡なんて、どういう風の吹き回しかしら?』


 今は、それを考える余裕がなかった。


 いつもより低い、妙に気取った声が響く。


 いや、そういうのはいいから。


『あら、つれないのね。せっかく二人きりの秘密通信なのに』


 アレイシア。


『なあに?』


 今、切り裂き女に追いかけられた。


『…………』


 あと、顔のない男もいた。


『…………』


 笑うなよ。


『まだ笑ってないよ』


 今、「まだ」って言ったよな?


『それで?』


 倉庫まで追いかけられて、隠れてたら、「どこにいるの?」って入ってきて……。


『うん』


 即死させようとしたら、急に目の前にいた。


『うわ。それは怖い』


 だろ!?


『それで、あんたどうしたの?』


 セメントの粉をぶっかけて逃げた。


『…………ふっ』


「笑っただろ!」


『だって必殺技があるのに、最後に頼ったのがセメントの粉なんだもん』


「仕方ないだろ! 目の前にいたんだぞ!」


『はいはい』


「そのあと兵士がいたから助けを求めたら、そいつの顔がなかったんだぞ!」


『ふふっ』


「お前、絶対楽しんでるだろ!」


『だって、無事だったんでしょ?』


「無事だけど……」


 そこで言葉が途切れた。


 静かだった。


 静かすぎる。


 扉の外で、何かが動いた気がした。


「…………」


『どうしたの?』


 いや。


『なに?』


「……今日、しばらくつないでおいて」


『えー』


「頼む」


『もう寝る時間なんですけど』


「知ってる」


『私も暇じゃないんだけど』


「頼むって」


 少し間があった。


『……しょうがないなあ』


 その声を聞いて、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。


『でもさ』


 ん?


『ベッドの下は見た?』


「…………」


『あはははは!』


「お前、ほんっと性格悪いな!」


 結局、その夜はベッドの下を二回確認した。


 ◇


 翌朝。


 俺はハルトマンが滞在している建物を訪ねた。


 昨夜の出来事について、何か知っているかもしれない。


「これはこれは、エイユさん」


 ハルトマンは俺を見ると、普段どおりの笑顔を浮かべた。


「昨夜は、よく眠れましたか?」


「そのことで話がある」


「ここで?」


 声を落とす。


「切り裂き女を見た」


 ハルトマンの笑顔が消えた。


 すぐに人差し指を口元へ当てる。


 声を出すな、という合図。


 彼は廊下の奥を確認すると、手招きした。


 建物の裏手へ回り、壁面の整備扉を開く。


 中には、人一人がようやく通れるほどの点検空間があった。


 太い配管と配線が、狭い通路を埋めている。


 換気装置の低い駆動音が響いていた。


「こちらへ」


 配管の間を進み、外から見えない場所で立ち止まる。


「ここなら大丈夫です」


「何が?」


「監視装置はありません。仮に指向性集音器を使われても、この騒音の中から会話を分離するのは難しい」


「詳しいんだな」


「記者は、取材相手が安心して話せる場所を探すものです」


 それだけでは説明になっていない。


 この男、人民秩序共同体の協力者ではないのか。


 それどころか、明らかに監視を避けようとしている。


 ハルトマンが俺を見る。


「昨夜、何を見ました?」


「話したとおりだ。黒髪の女に追いかけられた。刃物を持ってた」


「顔は?」


「メイに少し似ていた」


 ハルトマンが目を細める。


「やはり……」


「何か知ってるのか?」


「その前に、一つ確認したい」


 声の調子が変わった。


 昨日までの人当たりのいい記者ではない。


「パラサイト・ウォーリアー。率直に聞こう」


「その呼び方やめてくれ」


「君は、この国へ何をしに来た?」


 すぐには答えなかった。


 ハルトマンは、俺の正体を最初から知っていた。


「知ってたのか?」


「もちろん。君はオカルト業界では有名人だ。怪物と話し、死者の声を聞き、女神を名乗る何かと接触している」


「ずいぶん好き勝手に書かれてるな」


「事実と違いますか?」


「だいぶ違う」


「では、本当の目的は?」


「メイに招待された。それだけだ」


「信じろと?」


「そっちこそ、ただの記者には見えないけど」


 互いに黙る。


 ハルトマンは俺の目的を探っている。


 俺も、この男を信用していない。


 まさか、学院から盗まれた遺伝子改変技術を回収しに来たとは言えなかった。


「質問を変えましょう」


 ハルトマンが言った。


「百人がより幸福になるために、あなた一人の人格を作り変える必要があるとします」


「入国時のテストみたいだな」


「拒否すれば、百人は苦しむかもしれない。受け入れれば、あなた自身も幸福になる。ただし――今のあなたではなくなる」


 ハルトマンは静かに俺を見た。


「拒否しますか?」


「する」


「自分も幸せになるのに?」


「俺じゃなくなって幸せになっても、俺が幸せになったことにはならないだろ」


 初めて、ハルトマンの表情が動いた。


「それを聞ければ十分です」


「何が?」


「あなたは、少なくともメイの協力者ではない」


「じゃあ、あんたは何者なんだ」


「《月刊アポクリファ》の記者ですよ」


「ただの記者が、監視されてない点検通路を知ってるのか?」


「入念な取材の成果です」


 白々しい。


 ハルトマンは懐から、細長い紙片を取り出した。


 簡単な経路図が描かれている。


「今日の午後七時。ここへ来てください」


「どこだ?」


「閉鎖された旧配給所です。この経路を通れば、監視装置の死角だけを移動できます」


「行ったら何がある?」


「昨夜、あなたを追いかけた女」


 ハルトマンは声を落とした。


「その正体を知る者がいます」


「切り裂き女のことを知ってるのか?」


「それを話すための場所です」


 紙片を俺へ押しつける。


「一人で来てください。誰にも知らせずに」


「断ったら?」


「構いません。私は二度と、この話をしない」


 ハルトマンは点検通路の出口へ向かった。


「待て。あんたは、メイと敵対してるのか?」


 足を止める。


 だが、こちらを振り返らなかった。


「この国では、誰も第一書記と敵対していません」


「答えになってない」


「それ以外の回答は、存在を許されていないのです」


 それだけ言い残し、ハルトマンは通路から出ていった。


 手元に残された経路図を見る。


 怪しすぎる。


 昨夜会った怪物より、この場所へ行くほうが危険かもしれない。


 それでも、切り裂き女の正体を知っているという言葉は無視できなかった。


「あいつ、何者なんだ……」


 換気装置の音だけが、狭い空間に響いていた。


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