第四十六話 俺の身体が勝手に提案しています
第四十六話 俺の身体が勝手に提案しています
広間の中央に、メイは座っていた。
俺とメイの間には低い卓があり、湯気を立てる茶器が置かれていた。
俺が入ると、メイは静かに立ち上がった。
「長旅でお疲れでしょう。まずは、お掛けください」
手で示された座席へ腰を下ろす。
「正直に申し上げれば、あなたが来てくださるとは思ってもみませんでした」
「そうなのか?」
「ええ。アマラから、あなたはこの国へ絶対に行きたくないようだと聞いていましたので」
アマラから招待状渡された時に、確かにそう言ったな。
「どのような心変わりがあったのです?」
「それは……」
言葉に詰まる。
そういえば、どう答えるんだっけ。
潜入する動機について、ソフィヤと細かく打ち合わせた記憶がない。
人民秩序共同体の役に立ちたい。
あなたの思想に感銘を受けた。
どちらも嘘くさい。
下手な嘘はかえって怪しまれる。
それに、さっきから、めちゃくちゃ観察されている気がする。
そのとき、耳の奥で声がした。
『応答は不要だ。そのまま聞け』
スパイ・キング――どう聞いてもソフィヤの声だった。
『あなたが何をしようとしているのか、確かめに来た。そう答えろ』
なるほど。
嘘をつく必要はない。
俺はメイを見た。
「あなたが、何をしようとしているのか確かめに来た」
メイは驚きもせず、わずかに首を傾げた。
「私が、何をしようとしているのか?」
「あんたは学院の地下で、俺をだました」
あのとき聞こえた、助けを求める声。
俺はそれを信じて地下へ向かい、学院中の原生生物を呼び寄せた。
「そのせいで学院は半壊した。俺も危うく、ソフィヤに殺されかけた」
『殺そうとはしていない』
うるさい。
「それに、グラディエンの兵士をGEに変えたのも見た。第四要塞にいた怪物も、あんたたちが作ったものだろ」
演習場で、原生生物の死骸を食らっていた青白い怪物たち。
あれが元は人間だったという事実を思い出す。
「そのとおりです」
否定すらしなかった。
「あんたは個人より共同体全体の幸福を優先すると聞いた」
俺はメイから目をそらさなかった。
「正直あんたの行動はどれも不気味だ。あんたが何をしたいのか。俺に何をさせたいのか。それを知りに来た」
「共同体全体の幸福?」
そこで初めて、メイの表情がわずかに動いた。
困惑に近いものだった。
「誰が、そのようなことを言ったのです?」
「アマラだよ」
「なるほど」
メイが小さくうなずく。
「彼女らしい解釈ですね」
「違うのか?」
「我々は幸福を目的としたことはありません」
意外な答えだった。
「この国の人間を幸せにしたいわけじゃない?」
「幸福も不幸も、個体に生じる一時的な心理状態にすぎません。そのような不安定なものを、社会の最終目的に据えるべきではないでしょう」
「じゃあ、何を目的にしてる?」
「人類が、何になるべきかです」
メイは淡々と言った。
「人間は、自分だけが利益を得たいと考える。自分だけは死にたくない。他人より認められたい。自分のものを奪われたくない」
静かな声が、広い部屋へ響く。
「嫉妬。所有欲。承認欲求。死への恐怖。競争心。それらを個人の自然な性質として受け入れたうえで社会を構築すれば、争いは必ず生まれます」
「だから、我慢させるのか?」
「いいえ」
メイは否定した。
「我慢とは、欲望を維持したまま抑圧することです。抑圧された欲望は消えません。別の形で表出するか、監視が失われた瞬間に行動へ移される」
「なら、どうする?」
「取り除きます」
あまりにも自然な口調だった。
「人間を善くする必要はありません。利己的な欲望そのものを不要にすればよいのです」
「そんなことをしたら、そいつはもう人間じゃないだろ」
「現在の人間とは異なる存在になるでしょう」
メイは、それを問題とは考えていなかった。
「個人とは、肉体が生存のために作り出した認識上の境界にすぎません。自分と他者を分け、自分だけを守ろうとする。その幻想が、すべての争いの起点となる」
「個人が幻想?」
「細胞は自らを個体と認識しません。それでも集合し、一つの人間を構成しています。同じように、人間もまた、より大きな生命の一部となることができる」
メイの黒い瞳が、俺を映している。
「私たちは、人間を個人という幻想から解放したい」
「それで、何にする?」
「個人を超越した存在に」
メイはわずかに微笑んだ。
「人類という生命現象そのものを存続させ、進化させます」
言葉だけを聞けば、壮大な理想にも思える。
だが、この町で見たものが頭に浮かぶ。
同じ服。
同じ身長。
同じように整った顔。
労働へ喜びを感じるよう調整されたGE-0550。
メイの言う進化の先では、嫉妬や、不満や不安を感じることさえないのかもしれない。
意味は分かる。
分かるからこそ、怖かった。
「そのために、俺を呼んだのか?」
「あなたの力は、その可能性を示しています」
俺は、メイの顔を見た。
そして小声で唱える。
「万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー」
視界に文字が浮かぶ。
《メイ》
《所属:人民秩序共同体》
《役職:第一書記》
《レベル:測定不能》
《攻撃力:180(+0)》
《防御力:160(+10)》
《素早さ:240(+0)》
《人物情報》
人民秩序共同体の創設者にして第一書記。
遺伝子設計、心理学、社会工学、医学、武芸、詩文、書画に精通する。
人間の情動、集団行動、社会制度を一つの体系として記述した全二十四巻の百科全書《人間統合理論》を完成させ、共同体の教育、司法、医療、出生管理制度の基礎を築いた。
内戦終結時、旧中央評議会および宮中に残る反対勢力を一夜で粛清。処分対象者――
途中で読むのをやめた。
ステータスも恐ろしいが、人物情報の後半はもっと恐ろしかった。
「ああ」
メイが呟いた。
静かな海面へ小石が落ちたように、彼女の表情が一瞬だけ揺れる。
「それが、あなたの能力なのですね」
「勝手に見られて怒らないのか?」
「私には、あなたに知られて困ることがありません」
すぐに、元の静かな表情へ戻る。
だが、ほんのわずかな変化だったからこそ、初めてメイの内側へ触れたような気がした。
「素晴らしい能力です」
メイは俺を見つめた。
「そして、それ以上に、あなたが人の精神へ与える影響は興味深い」
「あの女――アマラがスキャンダルによって、すべてを失いかけたとき」
「あなたは、対立していた多くの人間へ働きかけ、意識を一つの方向へ向けた」
「あれは、暴動を止めただけだ」
「意図は問題ではありません。あなたは、私たちが何百年もかけて社会制度として構築したものを、たった一言で成し遂げた」
黒い瞳に、初めて明確な熱が宿った。
「異なる個人を、一つの意思へ変えたのです」
「悪いけど」
俺は遮った。
「俺は、あんたの洗脳装置になるつもりはない」
「洗脳」
メイはその言葉を確認するように繰り返した。
「思考形成を洗脳と呼ぶなら、教育も文化も家庭も同じです」
「あなた方は、偶然に形成された人格を“本人”と呼ぶ。私は、それをより望ましい形に再構成する。その違いを、あなたは本質だと考えている」
「当たり前だろ」
「では、その人格を形成した教育や家庭は、本人の同意を得たのでしょうか?」
メイは立ち上がった。
「仮に洗脳だとして、それが苦痛を減らし、社会を安定させ、本人を満足させるなら、何が問題なのでしょう?」
卓を回り、こちらへ近づいてくる。
俺の隣へ腰を下ろした。
近くで見ても、恐ろしいほど整った顔だった。
きめ細かな肌。
毛穴一つ見当たらない。
長い睫毛。
夜のような瞳。
ほとんど瞬きをしないため、精巧に作られた彫像のようにも見える。
だが、時折まぶたが閉じる。
そのたびに、これは本当に生きている人間なのだと意識させられた。
もちろん、俺は別に、この人を女として意識しているわけではない。
ただ、近くに来たから観察しているだけだ。
確かに美人ではある。
それは認める。
だが、整いすぎている。
完璧すぎて、むしろ人工物に近い。
綺麗ではあるが、なんというか色気がないというか。
俺は、こういう作られた美人に簡単に騙されるような男ではない。
『めちゃくちゃ意識してるじゃん』
アレイシアが言った。
無視した。
「あなたは、私に魅力を感じているようですね」
メイはからかうでもなく、俺の目を見ていた。
『していますね』
アレイシアまで同意する。
「違うけど?」
「瞳孔反応は、そう示しています」
「……だから?」
「何も」
メイはわずかに首を傾げた。
「正常な生理反応です」
「なら、いちいち言うなよ」
「あなたが自身の反応を否定しているように見えましたので」
「否定してない」
『してるよ』
うるさい。
「あなたの身体は、私を獲得することに価値があると提案しています」
「そこまで言ってない!」
「しかし、その要求を満たしたところで、身体は要求することをやめません。別の対象、より強い刺激、失うことへの恐怖を生み出すだけです」
メイの声は、あくまで静かだった。
「その繰り返しを、人間の目的とする理由が、私には分かりません」
「じゃあ、何のために生きるんだ?」
「人類が続くためです」
迷いのない答えだった。
「一人の幸福、一人の苦痛、一人の死。それらを超えて、人類という生命を次の段階へ進める。そのために、私たちは存在しています」
やはり、この女とは根本的に何かが違う。
「安心してください」
メイは言った。
「私たちも、あなたを強引に従わせるつもりはありません」
「信用できないな」
「それで構いません」
否定も、説得もしなかった。
「あなたは、まだ私たちを知らない。知らないものを警戒するのは、自然な反応です」
「知れば理解するって?」
「ええ」
メイは静かに微笑んだ。
「この国を、好きなだけ見ていってください。ここで暮らす人々と話し、私たちが築いた社会を知ってください」
その言葉には、揺るぎない確信があった。
「いずれあなたも、個人であり続けることが、どれほど孤独で不完全な状態なのか理解するでしょう」
メイが右手を差し出した。
「歓迎します、エイユ」
握手を求められている。
それだけのことだった。
だが、なぜか手を伸ばしたくなかった。
白く細い指。
透明感のある肌には、うっすらと青い血管が透けている。
爪には磨かれたような光沢があった。
形も長さも完璧に揃っている。
美術館に保管された美術品のようだった。
素手で触れてはいけない。
展示台の前に立ち、《手を触れないでください》という注意書きを見ているような感覚。
同時に、頭の奥で何かが引っかかった。
前にも、こんな感覚があったような。
『……ん?』
アレイシアの声がした。
『ちょっと待って』
伸ばしかけた手が止まる。
『それ、なんか嫌な感じがする』
嫌な感じ?
『分かんない。でも、触らないほうがいいかも』
国家元首から歓迎の握手を求められている。
理由もなく拒めば、不信を決定的にするかもしれない。
かといって、アレイシアの感覚を無視していいのか。
『おい、ステルス・マスターX』
耳の奥で、スパイ・キングの声がした。
『何をしている。自然に応じろ』
ソフィヤは、この違和感に気づいていない。
メイは手を差し出したまま、俺を待っている。
拒絶を責める様子はない。
ただ、観察している。
『エイユ』
アレイシアが、珍しく俺の名前を呼んだ。
『気をつけて』
アレイシアの感覚を信じるべきだった。
それでも俺は、潜入を始める前に終わらせることを選べなかった。
俺は観念して、メイの手を握った。
柔らかい。
温かい。
手のひらが触れた瞬間、電気が走ったように頭の中が真っ白になった。
だが、それだけだった。
メイの手は、美しいだけの――ごく普通の、人間の手に思えた。




