第四十五話 あなたが望むものを、人民はすでに知っている
第四十五話 あなたが望むものを、人民はすでに知っている
人民秩序共同体が管理する、唯一の入国ゲートへたどり着いた。
巨大な壁の中央に、白い建造物が埋め込まれている。
国境を越えるための施設なら、もっと人や荷物で混雑していると思っていた。
だが、中へ入って最初に感じたのは、静かすぎる、ということだった。
広い検査場には誰もいない。
入国を待つ列もなければ、出国しようとする人間もいなかった。
打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた空間を、天井の白い蛍光灯だけが照らしている。
検査ラインはいくつもあった。
一人ずつ入るように、白い壁で小部屋に仕切られている。
「こちらへどうぞ」
いつの間にか、その一つの前に男が立っていた。
男は、質素な灰色の軍服を着ていた。
二十代半ばくらい。
身長が高く、姿勢がいい。
鍛えられてはいるが、グラディエンの兵士のような威圧感はなかった。
微笑み方も、声の調子も、ごく自然だった。
「人民秩序共同体のメイから招待を受けた。これが招待状です」
白い金属板を差し出す。
表面には、無数の人間が手をつなぎ、円を描く紋章が刻まれていた。
男は金属板を検査台へ置く。
薄い光が表面を走った。
《認証完了》
《発行元:中央指導局》
《受入責任者:メイ第一書記》
問題はなかったらしい。
男は金属板を俺へ返した。
「招待状の真正性を確認しました。それでは入国に際して、いくつか質問させていただきます」
「質問?」
「身元および精神状態を確認するためのものです。可能な限り、考えずにお答えください」
「分かりました」
検査台の一部が開き、小さなレンズが現れた。
男は端末へ目を落とした。
「最近、眠りが浅いと感じたことはありますか」
「……あります」
「食事をしたことを忘れた経験は?」
「まあ、たまには」
「知らない場所を、以前にも訪れたと感じたことは?」
「……ありますけど」
「誰かに呼ばれた気がして振り返ったのに、誰もいなかったことは?」
「……一度くらいなら」
「白い階段と、錆びたブランコでは、どちらが懐かしいですか」
「は?」
「では、錆びたブランコですね」
「いや、選んでないです」
「第二睡眠、もしくは、逆光症候群という言葉に聞き覚えは?」
「ない」
「灰色帰還の次に来るものは?」
「だから、知らないって」
「…………」
係官は端末を見た。
「では、最後です」
「……何ですか」
「あなたがこの部屋に入ってから、一度も振り返らないのはなぜですか」
背中が冷たくなった。
反射的に振り返る。
広い検査場。
閉ざされた入国扉。
無人の待合席。
誰もいない。
天井を見る。
数秒の沈黙。
男が端末へ目を戻す。
「――正常範囲です。入国を許可します」
「今ので?」
「はい。ようこそ、人民秩序共同体へ」
男は穏やかに笑った。
感じのいい笑顔だった。
だからこそ、余計に怖かった。
◇
入国ゲートを抜ける。
迎えの車両が到着するまで、あと十分ほどかかるらしい。
人気のない停車場で待っていると、耳の奥で小さな音がした。
『こちら、スパイ・キング。どうやら無事に国内へ入れたようだな』
声には加工が施されていた。
だがソフィヤだ。
「無事だけど、あの質問は何だったんだ?」
誰もいないことを確認してから、小声で答える。
『精神状態と認識の検査だろう。ただし、学院の方式とは違う』
「最後に、最初の質問に答えたのはだれかって聞いたのは、こっちに内通者がいると疑われたのかも」
『いや。この通信が傍受されることはありえない』
ソフィヤは即座に否定した。
それから、少しだけ黙った。
『……質問の意図はいくつか考えられる』
「例えば?」
『今は知らない方がいい』
「なんでだよ」
『次に同じ質問をされたとき、君の答えが変わる』
「……」
『それも含めて、向こうは見ているかもしれない』
思わず、部屋の隅を見た。
「趣味悪すぎない?」
『メイらしくはあるな』
◇
やがて、黒塗りの車両が停車場へ入ってきた。
音がほとんどしない。
表面には窓らしきものさえなく、磨き上げられた黒い箱が滑ってきたように見えた。
左右の扉が開き、二人の兵士が降りてくる。
男女が一人ずつ。
二人とも簡素な灰色の制服を着ていた。
グラディエンの兵士のような装甲も、外骨格もない。
男は先ほどの審査官と同じくらいの身長。
女も、俺より背が高かった。
「エイユ様ですね」
「はい」
「メイ第一書記がお待ちです。車内へどうぞ」
丁寧ではある。
だが、へりくだった様子も、権力を誇示する様子もない。
二人から悪意や警戒心は感じなかった。
俺が招待客だから、愛想よくしているわけでもなさそうだ。
本当に、何も引っかからない。
車内へ乗り込む。
兵士たちも向かいに座り、車両が静かに動き出した。
◇
車窓が透明になり、人民秩序共同体の都市が見えた。
白と灰色を基調とした、巨大な建物が規則正しく並んでいる。
広い道路。
等間隔に植えられた樹木。
塵一つない歩道。
遠くには河川が流れ、その向こうまで同じような街並みが続いていた。
清潔だった。
そして、図書館の中のように静かだった。
これだけ大きな都市なのに、広告も客引きもない。
派手な看板も、音楽も聞こえない。
道を歩く人々は、みな簡素な布製の服を着ていた。
色も形も、ほとんど同じだ。
「商店はないんですか?」
「必要な物資は、居住区ごとの配給所で受け取れます」
女の兵士が答えた。
「個人で売買する必要がありませんので」
確かに、必要なものがすべて配られるなら、店はいらない。
理屈は分かる。
だが、通りに店が一軒もないというだけで、町から何かが抜け落ちて見えた。
「あれは……?」
交差点の向こうを、巨大な人影が歩いていた。
二メートルを超える大男。
頭髪はなく、青白い皮膚を異常に発達した筋肉が押し上げている。
白く濁った目。
第四要塞で襲ってきたGE-0673によく似ていた。
だが、その個体はこちらを襲わなかった。
大型の建設機械を両腕で担ぎ上げ、工事区画へ運んでいる。
本来なら輸送車両が必要になるほどの重量だ。
「あれは何ですか?」
「GE-0550。共同体労働型です」
男の兵士が、何でもないことのように答えた。
「主に、建設、採掘、運搬などの肉体労働へ従事します」
「人間……なんですか?」
「もちろんです」
「でも、あの身体は……」
「肉体労働へ適応するよう、遺伝子改良を受けています。高出力の筋組織と強化骨格、疲労物質の高速分解機能を備え、痛みに対しても強い耐性があります」
「本人が望んで、ああなったんですか?」
男の兵士は、質問の意味が分からないように首を傾げた。
「GE‐〇五五〇は、共同体への労働奉仕に喜びを感じるよう設計されています」
「喜びを感じるように……設計?」
「はい。労働を自らの役割とし、社会に必要とされることを存在意義とします。不満も苦痛もありません」
兵士は穏やかに笑った。
「むしろ彼らは、働かせてほしいと望むほどです」
皮肉ではない。
本心から、何が問題なのか分からない顔だった。
本人が望んだのではない。
望むように作られたのだ。
GE-0550が、建設機械を地面へ下ろす。
近くの作業員が何かを指示すると、すぐに次の荷物へ向かって歩き出した。
不満のない労働者。
アマラが見たら、たぶん欲しがるだろう。
ただ、自分からローンを組んで弾薬代まで払ってくれないと知ったら、少し悩むかもしれない。
そんなことを考えながら、向かいに座る兵士たちを見る。
黒い髪。
黒い瞳。
整った顔立ち。
男は百八十五センチ前後。
女は百七十八センチ前後。
窓の外を歩く人々も、ほとんど同じだった。
まったく同じ顔ではない。
だが、身長も体格も、容姿の水準まで不自然なほど揃っている。
太った人間もいない。
身体に障害を持つ人間も見当たらない。
それ以上に奇妙なのは、年齢だった。
どこを見ても、二十代くらいの人間しかいない。
子供も老人もいなかった。
全員、シアーダと同じようなクローンなのだろうか。
「到着しました」
◇
都市の中心に、ひときわ巨大な建物がそびえていた。
鋭い塔が空へ伸び、正面には広大な階段と広場がある。
壁には、入国許可証と同じ紋章を掲げた赤い旗が垂れ下がっていた。
巨大な文字が、建物の壁面に刻まれている。
《あなたが望むものを、人民はすでに知っている》
車を降り、兵士たちに案内されて内部へ入った。
長い廊下を進む。
床も壁も磨き上げられ、俺たちの足音だけが響いていた。
やがて、巨大な扉が左右へ開く。
その先は、謁見室というより、巨大な茶室のような空間だった。
天井は高く、壁一面の窓から都市全体を見渡すことができる。
床の一部には浅く水が張られ、黒い岩と、赤い葉をつけた小さな樹木が配置されていた。
水墨画。
低い卓。
湯気を立てる茶器。
現代的な建物の中に、古い時代の静けさだけを切り取って持ち込んだようだった。
正面には、一人の女性が座っている。
長い黒髪。
透き通るような白い肌。
黒に近い瞳。
白を基調とした服は、軍服にも礼装にも見えた。
整っている、という言葉だけでは足りない。
この国で見た人間は、誰もが不自然なほど美しかった。
その中でも、彼女だけは設計の基準そのものが違って見えた。
メイ。
人民秩序共同体の指導者。
俺をこの国へ招いた女。
彼女は椅子へ深く腰掛けたまま、静かに俺を見つめていた。
笑ってはいない。
睨んでもいない。
ただ、その黒い瞳だけが、俺の表面ではなく、意識の奥を観察しているように感じられた。
背後で扉が閉まる。
重い音が、広い室内へ響いた。
「ようこそ、エイユ」
メイが初めて口を開いた。
「あなたが来るのを、ずっと待っていました」




