第四十四話 こちらスパイ・キング、応答せよ
第四十四話 こちらスパイ・キング、応答せよ
人民秩序共同体へ向かう前に、俺は作戦準備のため、アカデミア統合理院へ立ち寄った。
学院を中心に、町では無数の作業機械がせわしなく動き回っている。
崩れた建物から瓦礫を運び出す大型機。
亀裂へ構造材を流し込み、壁を再形成する多脚型ロボット。
空中では小型機が飛び交い、切断された配線や通信網を修復していた。
俺が学院を離れたとき、町は半ば廃墟と化していた。
だが今では、通りを歩く人の姿もある。
思っていたより、ずっと早く元へ戻りつつあった。
少しだけ安心する。
壊した原因の一つが、俺であることに変わりはないけれど。
◇
指定された部屋へ入ると、中央にソフィヤのホログラムが浮かび上がった。
「来たか」
本人は、どこか別の場所にいるらしい。
映像は鮮明で、半透明であることを除けば、本当にそこへ立っているようにしか見えなかった。
ただ、以前会ったときよりも、少しやつれている。
目の下には薄い隈があり、頬も心なしかこけていた。
「なんか、前より疲れてないか?」
「問題ない」
《警告。連続稼働時間が規定値を超過しています》
部屋に機械音声が流れた。
《休止を推奨します》
「警告を停止」
《ARIA管理権限による承認が必要です》
ソフィヤの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……管理権限を上書きする」
警告が消える。
「今の、止めてよかったのか?」
「本題へ入る」
露骨に話を切られた。
ソフィヤが手を動かすと、空中に人民秩序共同体の領域図が表示された。
「これから君には、人民秩序共同体へ入ってもらう」
「分かってる」
「表向きは招待客だが、目的は流出した研究資料とウイルス株の捜索。潜入調査になる」
地図の各所に、赤い印が浮かんでいく。
「問題は、潜入後の連絡手段だ。人民秩序共同体は領域内の通信を厳重に監視している。暗号を解読されなくても、通信の発生自体を検知される可能性がある」
「じゃあ、どうやって連絡するんだ?」
「そのために、これを用意した」
壁から、小型の作業アームが伸びてきた。
先端には、銀色の粒が一つ載っている。
砂粒よりは大きいが、機械と呼ぶには小さすぎた。
「以前、君の《魂魄を束ねし神経共鳴――ソウル・シナプス・ハーモナイズ》を研究した。その成果を応用した通信装置だ」
「これを使うのか?」
「正確には、君の耳の奥へ埋め込む」
「今、さらっと怖いこと言わなかった?」
「痛みはない」
「痛みだけの問題じゃないんだけど」
「任務終了後には取り外す」
断りたかった。
だが、敵地で外部と連絡できるかどうかは、生死に関わる。
少し迷ってから、椅子へ座った。
「……分かった。やってくれ」
「賢明な判断だ」
作業アームが耳元へ近づく。
耳の奥に、一瞬だけ冷たい感触があった。
続いて、わずかな圧迫感。
それも、すぐに消えた。
「完了した」
「もう?」
「違和感は?」
耳を触ってみる。
痛みも異物感もなかった。
「何も感じない」
「正常だ。この装置は、電波も光学信号も使用しない。君の神経波を中継点として、登録された相手の認識へ直接情報を伝達する」
「俺の能力を、通信回線にするってことか?」
「簡単に言えば、そうなる。通常の手段では、通信の発生自体を検知できない」
「本当に?」
「現時点で解読される可能性はない」
「実験はしたのか?」
「している」
「誰で?」
「君の神経構造を再現した模擬体で」
勝手に俺の耳の中を複製されていたらしい。
詳しく聞くと嫌な事実が増えそうなので、忘れることにした。
「潜入後は、外部の連絡員がこの方式で君を支援する」
「連絡員?」
「学院と君の間で情報を中継する担当者だ。正体を知る必要はない」
「そいつは信用できるのか?」
「学院が保証する」
「学院自体をどこまで信用していいのか、最近ちょっと分からないんだけど」
「そこから議論を始めると長くなる。信用しろ」
「雑だな」
「本名を呼べば、会話の内容から相手を推測される可能性がある。したがって、任務中はコードネームを使用する」
『それなら、いいのがある』
アレイシアの声がした。
通信装置からではない。
いつものように、俺の意識へ直接話しかけている。
『闇を渡り歩く不可視の諜報王――その名も、ブラック・ゼロ』
「嫌だ」
『えー。格好いいじゃん』
「どこがだよ」
『お願い』
「駄目」
『……お願い、お兄ちゃん』
「…………」
普段は「あんた」としか呼ばないくせに、こういうときだけ妹を出してきた。
いや、妹ではないのだが。
『ブラック・ゼロにしよ? 一回だけでいいから』
「一回採用したら、任務中ずっと呼ばれるんだよ」
「何がだ?」
ソフィヤが尋ねた。
「アレイシアがコードネームを考えてる」
「却下しろ」
『だめかー』
アレイシアは、あっさり諦めた。
お兄ちゃんまで使ったわりに、粘りがなかった。
「コードネームを人間が決めれば、本人の嗜好や語彙、文化的背景が反映される。複数の呼称を収集されれば、命名者や所属組織を推定されかねない」
「なるほど」
確かにアレイシアへ任せれば、すべての名前に闇か深淵か終焉が入りそうだ。
「したがって今回は、コンピュータによる無作為生成を採用する。異論は認めない」
「それなら安心だな」
「君自身の名前も使用するな。また、アレイシアを女神と呼ぶことも避けろ。会話の内容から正体を推測される」
『私にもコードネームがあるの?』
アレイシアの声が、少し嬉しそうになる。
「通信中に口へ出す可能性がある以上、彼女にも必要だ。すでに生成してある」
ソフィヤが端末を操作した。
三つの名前が表示される。
《エイユ:ステルス・マスターX》
《アレイシア:シャドウ・ピルグリム》
《外部連絡員:スパイ・キング》
「…………」
『…………』
「これ、本当に無作為生成なんだよな?」
「そうだ」
「お前が選んでない?」
「コンピュータが生成した」
「外部連絡員だけ、妙に偉そうな名前なんだけど」
「偶然だ」
「本人は納得してるのか?」
「問題ない」
「なんでお前が答えるんだよ」
「学院が選任した者だからだ」
『シャドウ・ピルグリム……』
アレイシアが、噛みしめるように呟いた。
『影の中を歩む巡礼者。いいね』
「お前だけ満足するな」
『よろしく、ステルス・マスターX』
「その名前で呼ぶな」
「任務中は、その呼称へ即座に反応できるようにしておけ」
「こんな名前、敵に聞かれたほうが恥ずかしいんだけど」
「安全性と君の羞恥心を比較すれば、優先すべきものは明白だ」
「せめて、もう一度生成してくれない?」
「異論は認めないと言った」
人民秩序共同体へ入る前から、精神的な損害を受けた気がした。
◇
「それと、頼みがある」
部屋を出る前に、俺は一通の封筒を作業台へ置いた。
「これをアマラに渡しておいてくれないか」
「自分で送ればいいだろう」
「俺から直接送ると、いろいろ聞かれそうだから」
「私が渡しても、送り主は君だ」
「そこを何とか」
作業アームが封筒を持ち上げた。
「内容を確認する」
「わかった」
封筒が開かれ、便箋の内容が読み取られる。
読み終えたソフィヤが、しばらく沈黙した。
「何だよ」
「家出する子供の置き手紙に見える」
「感謝は伝わるだろ」
「行き先も、帰還予定も書かれていない」
「書いたらアマラが止めに来るだろ」
「少なくとも、生きて帰るとは書くべきでは?」
「心配しないでくださいって書いた」
「君の『心配しないでください』ほど、信用できない言葉も珍しい」
反論できなかった。
これまで何度も、心配するなと言ったあとで死にかけている。
「それでも渡してくれ」
「分かった」
作業アームが手紙を封筒へ戻した。
「ただし、これを読んだアマラが私に行き先を尋ねても、答えないからな」
「助かる」
「私まで共犯にするな」
「責任は仲よく半分ずつだろ?」
「その言葉を便利に使うな」
ソフィヤのホログラムが、疲れたように眉間を押さえた。
やはり、少し休んだほうがいいと思う。
もっとも、今の俺が言っても説得力はなさそうだった。
これで、潜入の準備は終わった。
次に向かうのは、人民秩序共同体。
アマラには書けなかった。
書けば、本当に止めに来そうだったからだ。
『ステルス・マスターX、か……』
「何だよ」
『ちょっとダサくない?』
「お前だけには言われたくない」
『ブラック・ゼロにしておけばよかったのに』
「それもダサい」
「またアレイシアか?」
「そうだよ」
◇
学院の外門をくぐるとき、耳の奥から別の声がした。
『初めまして、ステルス・マスターX』
わずかに加工されているが、聞き覚えのある声だった。
『私は外部連絡員、スパイ・キングだ』
「ソフィヤ?」
『違う。私は君の知る人物ではない』
「分かった。よろしく、スパイ・キング」
『今後は、この秘匿通信路を介して情報を提供する。神経位相鍵と多層認識符号化を併用した場合、通信経路を逆探知される確率は――』
「ソフィヤ」
『何だ』
「やっぱりソフィヤだろ」
『…………』
「声も、話し方も、専門用語を止められないところも全部同じだよ」
『その程度の情報だけで個人を断定するべきではない』
「名前を呼ばれて返事しただろ」
『通信試験は終了した』
「逃げるな、スパイ・キング」
通信が切れた。
俺たちは、世界で一番潜入に向いていない気がした。




