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第三十八話 十人分の俺が、戦場から帰れなくなりました

第三十八話 十人分の俺が、戦場から帰れなくなりました


 休暇が終われば、訓練が戻ってくる。


 正確には、前よりひどくなって戻ってきた。


 六日目。


《主観速度:十分の一》


 昨日までと同じ速度。


 もう見切っていた。


 遅い。


 拳を見る。


 避ける。


 返す。


《成功》


《主観速度:五分の一》


 まだ見える。


《成功》


《主観速度:二分の一》


「上げ方が雑じゃないですか?」


『喋る余裕があるなら続けろ』


 シアーダの声と同時に、灰色の人型が踏み込んだ。


 拳が頬をかすめる。


「痛っ」


 仮想空間なのに、脳は律儀に痛みを作ってくれる。


《痛覚:五十パーセント》


《六十パーセント》


《七十パーセント》


 速度が上がるほど、訓練はきつくなった。


 拳より厄介なのは、増幅された感覚だった。


 足音。


 呼吸。


 衣擦れ。


 床を蹴った振動。


 本来なら、その中から必要な情報だけを選ばなければならない。


 だが、少しでも集中を乱せば、すべてが一度に頭へ流れ込んでくる。


 痛みと情報に押し潰されないよう、ひたすら拳を避け続けた。


 現実へ戻ると、照明の微かな駆動音まで耳障りだった。


「吐き気、頭痛、左手の痺れ……明日まで残ったら次の訓練は中止ね」


「分かってます」


「今日は早く休んで」


「……たぶん」


「そこは『はい』でしょう」


 少しだけ怒られた。


 ◇


 七日目。


 翌朝には、吐き気も痺れも消えていた。


 だから予定どおり、次の工程へ進むことになった。


 仮想空間へ入る直前、視界の中央に赤い文字が表示された。


《警告》


《多重戦場並列処理訓練は、認知機能に不可逆的な障害を与える可能性があります》


《統計上の後遺症発生率:十七・四パーセント》


 初日に見た数字だった。


 あのときは、死亡率三・二パーセントのほうが気になった。


 死ななければ何とかなる。


 そう思っていた。


 今なら分かる。


 死ななくても、帰ってこられないことはある。


《同意しますか?》


「同意する」


 世界が、二つに割れた。


 右の俺は、兵士と殴り合っていた。


 左の俺は、塹壕から味方へ射撃指示を出していた。


 二つの景色。


 二つの身体。


 二つの思考。


 それでも、俺は一人だった。


《並列数:二》


《並列数:四》


《並列数:六》


 戦場が増えていく。


 敵の拳を避ける。


 退却する小隊へ指示を出す。


 三人の負傷者から、誰を先に治療するか決める。


 崩落する地下通路からの脱出経路を計算する。


 弾薬を数える。


 原生生物の精神へ触れ、敵意を逸らす。


《並列数:十》


 十人分の俺が、十の戦場にいた。


 不思議と、できた。


 戦いながら命令を出し、負傷者を選びながら弾薬を数えられた。


 課題は一つずつ片づいていった。


 だから俺は、終了の合図が出たあとも戦い続けていることに気づかなかった。


 ◇


「エイユ」


 誰かが、俺の名前を呼んだ。


「聞こえる?」


 聞こえている。


 だが、どこにいる俺が返事をすればいいのか分からなかった。


 俺は廃墟にいる。


 塹壕にいる。


 救護所にいる。


 地下通路にいる。


 十の場所にいる。


 そのすべてとは別に、白い天井も見えていた。


 リーネが俺の顔を覗き込んでいる。


 その向こうで、赤い警告灯が回っていた。


 けれど、それが十一番目の戦場ではないと証明できない。


「瞳孔反応が揃わない。並列処理が終了してない」


「強制切断は?」


「できません。今切ったら、分離した認識が固定される可能性があります」


 リーネとシアーダが話している。


 すぐそばにいるはずなのに、十の戦場で鳴り響く銃声の向こう側にいた。


「私が入る」


「大佐、同調接続は危険です。エイユの認識に引かれたら――」


「外から帰還経路を維持できるか」


 短い沈黙。


「できます」


 リーネの声だった。


「二人とも、必ず戻します」


     ◇


 最初の戦場で、シアーダは兵士と戦っていた俺の腕をつかんだ。


「離せ! まだ敵がいる!」


「ここは終わった」


「終わってない!」


「それまで、お前は帰らないのか」


 シアーダなら、敵を一瞬で倒せる。


 だが戦わなかった。


 次の戦場では、俺から指揮権を取り上げた。


 さらに次の戦場では、三人の負傷者を置いて出口へ向かった。


「選べない」


「もう選んだ。お前は生きて帰る」


「でも、置いていったら――」


「忘れろとは言っていない」


 腕を強くつかまれる。


「覚えて帰れ。次は救うために」


 一つずつ、シアーダは戦い続ける俺を止めていった。


 敵は倒さない。課題も解かない。


 ただ俺を連れて、戦場の外へ出る。


 最後の仮想空間で、俺は足を止めた。


 背後から銃声が聞こえる。


 誰かが叫んでいる。


 戻らなければならない。


 俺が何とかしなければならない。


「でも、まだ残ってる」


「一度で、すべてを救おうとするな」


 シアーダが言った。


「帰れ。生きていれば、次の手を選べる」


「次なんて、ないかもしれない」


「ならば作れ」


 彼女は迷わなかった。


「そのためにも、今は帰れ」


 前方に、白い光が見えた。


 細く、今にも消えそうな光。


 その先から、リーネの声がする。


「エイユ。大佐。こっちです」


 帰還経路が揺れていた。


 外側で、リーネが必死に接続を維持している。


 シアーダが、先へ行けと顎を動かした。


 一歩、光へ近づく。


 背後で、また誰かが助けを求めた。


 足が止まりそうになる。


「帰れ、エイユ」


 俺は目を閉じた。


 助けを呼ぶ声に背を向ける。


 そして、戦場から離脱した。


 ◇


 目を開けると、リーネがいた。


 泣きそうな顔で、俺の手首を握っている。


「ここがどこか分かる?」


「……医療区画」


「私は?」


「リーネ」


「自分の名前は?」


「エイユ」


 答えるたびに、十に分かれていた世界が一つへ戻っていく。


 最後まで耳に残っていた銃声が、ようやく消えた。


「よかった……」


 リーネは目を閉じ、大きく息を吐いた。


 隣の接続槽が開く。


 シアーダが、何事もなかったように身体を起こした。


「訓練設計を変更する」


「今、言うことですか?」


「勝利条件を変更する」


 シアーダはこちらを見た。


「生きて帰るまでが訓練だ」


     ◇


 翌朝。


 目を覚ますと、自分が一人しかいないことに違和感があった。


 右手を動かす。


 動く右手は、一つだけ。


 窓を見る。


 見える景色も、一つだけ。


 少し物足りない。


 そう感じたことが、何より怖かった。


 診察では、軽い認識の遅れを除いて異常なしと出た。


 シアーダが新しい訓練計画を表示する。


《一定間隔ごとの認識同期》


《未解決課題の強制終了》


《外部帰還管制官の常駐》


 昨日まではなかった安全措置だった。


「負荷を落とすんですか?」


「違う。課題の達成だけを成功とは判定しない」


 シアーダは俺を見る。


「所定の時刻までに帰還できなければ、全戦場で勝利しても失格だ」


 八日目と九日目は、戦うより多く撤退した。


 敵を残した。


 負傷者を残した。


 答えの出ない課題を残した。


 そのたびに、後ろ髪を引かれた。


 それでも、出口まで歩いた。


 次を作るために、今は帰る。


 何度も頭の中で繰り返した。


 ◇


 そしてとうとう十日目。


 仮想空間へ入ると、シアーダがいた。


「今日は私と戦ってもらう」


 勝てるわけがない。


「勝つ必要はない」


 考えを読んだように言われた。


「構えろ」


 何かが来る。


 そう思ったときには、俺は地面へ倒れていた。


「もう一度だ」


 起き上がる。


 腕を上げる。


 構えが完成する前に、また倒された。


 立つ。


 投げられる。


 立つ。


 顎を打ち抜かれる。


 仮想空間なので、死にはしない。


 骨が折れても、身体はすぐに再構築される。


 つまり、休む理由がない。


 痛みで間違いを覚え、新しい身体で正しい動きを試す。


 何度倒されても、シアーダの命令だけは変わらなかった。


「距離!」


「間!」


 簡潔な指示が飛ぶ。


 やがて、言われる前に身体が動くようになった。


 シアーダの肩が沈む。


 何十回も見た肩の沈み方だった。


 右が来る。


 そう思った瞬間には、身体が動いていた。


 拳が鼻先を通り過ぎる。


 初めて。


 シアーダの攻撃を避けた。


 考えるより先に踏み込む。


 顎をめがけて、拳を放つ。


 シアーダの目が一瞬だけ青く光り、消えた。


 ぱしっ、と軽い音。


 俺の拳は、シアーダの顔へ――届かなかった。


 片手で受け止められている。


 全力だったんだけど。


「よろしい。合格だ」


「え?」


 景色が白く染まっていく。


「ちょっと待ってください。今のどこに合格要素が――」


 最後まで言う前に、現実へ戻された。


 接続槽が開く。


 身体を起こすと、訓練室にいた兵士たちがこちらを見ていた。


 数秒の沈黙。


 やがて、一人が俺の肩を叩いた。


「よくやったな」


「あの大佐の攻撃を避けたんだって?」


「一発だけですけど」


「一発で十分だ」


 別の兵士が笑う。


「俺なんか、三か月かかったぞ」


「お前は今も避けられないだろ」


 訓練室に笑い声が広がった。


 その向こうで、リーネが目元を押さえていた。


「え、なんで泣いてるんですか?」


「だって、最初は立つだけでも大変だったでしょう?」


 リーネは涙を拭った。それでも、笑顔は崩れなかった。


「何度も倒れて、帰ってこられなくなりかけても、最後まで諦めなかったもの」


 まるで、卒業する教え子を見送るような顔だった。


「本当におめでとう、エイユ」


 その一言で、これまでに折られた骨の本数が、少しだけ報われた気がした。


 視界の端に、文字が浮かぶ。


《規定条件を達成しました》


《レベルが上昇しました》


《称号を獲得――グラディエン特別課程修了者》


《精神干渉に対する耐性が大幅に上昇します》


《エイユ》


《レベル:32》


《攻撃力:32(+0)》

《防御力:28(+0)》

《素早さ:65(+0)》


 数字を三度見した。


「……誰だ、こいつ」


『あんたでしょ』


 アレイシアの声がした。


『数字だけ見ると、普通に強そう』


「実際に強くなったんだよ」


『シアーダにずっとボコボコにされてたのに?』


「ちゃんと一発避けた」


『一発だけ?』


「…………」


『まあ、あんたにしては頑張ったんじゃない』


 自分の手を見る。


 見慣れた手だった。


 だが、その内側には、以前とは比べものにならない力が宿っている。


 十の戦場へ同時に行き、そこから帰ってきた。


 シアーダの拳を、一度だけ避けた。


 そして今日、十日間にわたる訓練の全課程をやり遂げた。


 長かった。


 俺の体感では、十日どころではなかったけれど。


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